goo

薩摩今和泉、篤姫の里(後)

(豊玉媛神社)

(昨日の続き)
田の神様に続いて山際に真っ赤に塗られた社殿の豊玉媛神社があった。江戸時代には中宮大明神の意味で、「デメジンサー」と呼ばれていた。土地の氏神様であろう。鳥居の手前、参道を挟んで両側に石の仁王様があった。つくづく薩摩は石の文化の国だと思った。薩摩の各地に残る石橋はすばらしい技術だし、仁王様まで石で造ってしまう。この今和泉の里も古いものは皆んな石造りである。昨日は半島の反対側であるが、磨崖仏も見てきた。


(石造りの仁王像)

この仁王像は、案内板によると、元禄8年(1695)、地元の侍衆(12人)、氏子、浜衆(27人)、在衆(59人)が施主となって奉納された。県下でも稀にみる傑作として指宿市の文化財に指定されている。

次に、国道に出た所に「孝女袈裟子之碑」がある。生まれつき障害を持った袈裟子は貧困のも挫けることなく両親に孝養をつくした。今和泉家第二代当主忠温はその孝養振りをほめて、生涯お金とお米を贈った。石碑はその事実を後世に伝えるために建てられたものだという。


(別邸跡の石垣と「隼人松原」)

国道を渡って浜に出た。左手に進むと浜辺に沿って今和泉島津家の別邸跡がある。浜と別邸跡地を区切るように往時の石垣が残り、石垣の上には「隼人松原」と呼ばれた松林の一部が残っている。別邸跡には今は今和泉小学校が建っている。石垣前の浜の一画には「篤姫」の放映が決まってから急遽造られたのであろう小公園があった。篤姫と今和泉の関わりを記した案内碑や別邸にあった手水鉢のレプリカが置かれていた。

今和泉小学校は立入禁止になっていた。ただ入ってすぐのところに石の井戸枠が見えていたので、そこまでは何とか入ってみた。篤姫はこの別邸で18歳まで過ごしたといわれ、裏座敷からすぐに浜辺に出られ子供の遊び場には事欠かなかったことであろう。ドラマの中で篤姫がお気に入りとされたクロガネモチは、平成7年に枯れ伐採されて、校内にその根株が保存されているという。ガイド付きで回ればその根株や校内にあるという石造りの手水鉢の本物なども見せてもらえたのかもしれない。

駐車場へ戻るのに海岸に沿った町割を通って行った。胸元ほどの高さの石塀で仕切られた細い小路の町割では、人の住まない家や更地になった地所などが目立ち、この町が現在置かれている状況が知れた。

せっかく見学に来たのだから、篤姫で町興しをしている集落に少しでもお金を落とそうと考えてきたが、農家直売のテントを何張りか見ただけで、お土産屋さんも何も無かった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

薩摩今和泉、篤姫の里(前)

(今和泉島津家の墓所)

地元の同年輩の事務員さんと話していて、NHK大河ドラマで放映中の篤姫が18歳まで過ごしたと言われる指宿の今和泉が、いま観光客でにぎわっていると聞いた。予約をして置くと、熟年ボランティアの人たちが案内してくれる。実はその一人に80歳になる小学校の恩師が居て、先日現地を案内をしてもらった。詳しく説明を受けながら回って2時間掛かったという。

土曜日の朝、飛行機の便まで時間があるので、指宿のホテルを出た後、話題の今和泉に立寄った。島津の分家、今和泉島津家の別邸跡はJR指宿枕崎線で3駅鹿児島寄りにある薩摩今和泉駅の近くに別邸があった。今和泉には篤姫ゆかりの場所が幾つか残っている。

薩摩今和泉駅は観光客や電車を待つ人でにぎやかであった。駅舎が観光案内所とボランティアの詰所を兼ねていて、予約したグループを引き連れて案内に出て行く。我々もパンフレット200円を購入して案内ガイド無しで見学に出かけた。

線路を越えて今和泉島津家の墓所に行く。立派な五輪塔の墓石や石灯が墓地を埋めるように並んでいる。墓には活けられたばかりの派手な花が飾られていた。菩提寺の光台寺は明治の廃仏毀釈で壊されて、今は参道の入口に五輪塔の一部が残っているだけである。光台寺の石像の仁王像は石垣の一部として再利用されているのが発見されている。こんな南の果ての片田舎まで実行されたとは、廃仏毀釈の徹底ぶりがうかがえる。廃仏毀釈というのは中国で古いというだけで物も人も破壊尽した紅衛兵運動のような狂信的な暴挙だったのだろうか。人々を揺り動かした正体がもう一つ判らない。


(田の神様-たのかんさあ)

残っているものは石造りの物ばかりである。道端に「田の神様(たのかんさぁ)」という石像があった。案内板によると、田の神様は薩摩藩領内だけに1500体以上もあり、農耕や豊作の神様として、江戸時代の中頃から農民や下級武士たちによって作られた。初期は仏像や神像、その後は農民姿の像も造られるようになった。「たのかんさぁ」は決して祟ることをしない豊作の神様として親しまれたという。

この「田の神様」は女性の姿で、案内書には、髪を垂らしたような大きなシキを被り、長袖の上着で、ヒダの深い長袴をはいており、両手で大きなメシゲを持ち、風呂敷のような大きなツトを背負っていると書かれていた。まさに豊穣の神様である。
(※ 「シキ」は「風呂敷のような被り物」、「メシゲ」は「しゃもじ」、「ツト」は「わらなどを束ねて、その中に食品を包んだもの」)
(明日へ続く)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

指宿砂むし温泉に入る

(砂むし会館「砂楽」)

金曜日の夕方、今回の出張目的をすべて終えた。今夜は指宿のホテルに一泊、明日は帰るだけである。予約したのが指宿コーラルビーチホテル。「コーラル」は珊瑚。日本語に直すと「指宿珊瑚浜旅館」となる。

宿泊費が限られているので一流とはいかない。しかし窓からは錦江湾が一望できる。ホテル前の道路の先はすぐ海、砂浜こそ見えないが海は浅く、小さな漁船が浜には付けられず数十メートル沖に錨を下ろしている。漁船まではボートで行くらしく、岸にはボートが係留されている。漁船の外側に波消しブロックを積んだ防波堤が並んで無粋なことである。対岸にうっすらと大隅半島の山並みも見える。

さっそく浴衣に着替えて、砂むし温泉「砂楽」にマイクロバスで送ってもらった。長年鹿児島には来るけれども、指宿の砂むし温泉に入るのは始めてである。受け取った浴衣に脱衣場で着替えて浜に出た。浜の所々から湯気が上っている。出た所に全天候型の砂場があり、あらかじめ軽く掘られた砂場にマグロを並べるように仰向けに横たわると、スコップで少し荒い砂をかけてくれる。腕や足や胸にずしりと砂の重みを感じる。子供の頃、故郷の砂浜で戯れに砂に埋められた時の感覚を久し振りに思い出した。砂むしの時間はおよそ10分が目処だと柱に掛かった時計を示された。

背中や足からじわりと温泉の熱が上ってきて刺激する。5分もするとかかとのあたりが熱くなって位置を少し動かした。カメラを持った男が断わり無く写真を撮っていった。後で売りつけるのだろう。10分経つのを待ちかねて砂から這い出した。まるで海亀になった気分だ。隣りの同行者はまだ粘っている。砂だらけの浴衣を脱ぎ捨てて、そのまま温泉に入って砂を落とした。

世界でもここだけという砂むし温泉。背後の山側の90℃を越す泉源から地下を通って砂浜に自然湧出している。だから回りの砂浜ではどこを掘っても砂むしになる。客が多いときは砂浜でも砂むしを行うらしい。


(砂むし温泉に行列)

温泉から上って砂浜を見ると、団体が入ったようで、砂むしの前に浴衣姿の20人ほどの順番待ち行列が出来ていた。老若男女、全員が浴衣一枚下は素っ裸だと想像して、ついつい笑ってしまった。

宿に帰って仲居さんに聞くと、篤姫の放送が始まってから客が増えたという。寝る前に内風呂にも入った。混み合っているところをみると、全員が砂むし温泉に行くわけでもないのだろうと思った。狭いけれども露天の岩風呂もあった。

地元の人の話ではこのホテルの亭主は指宿市の市長さんだという。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

清水磨崖仏群

(鎌倉時代の線刻の三大宝篋印塔)

「吹上の千本楠」を見た後、道すがら、同行者に、かつて女房と中山道を歩いたとき、滋賀県の守山宿の近くで遭遇したエピソードを話した。

街道を歩いていて「磨崖仏」の案内板を見つけた。近くにあるものと思い、場所を聞いたところ、お堂に招じ入れられた。やがて作務衣を着て首に輪袈裟をかけた高齢の老人がおぼつかない足取りでやってきた。合掌させて般若心経を上げたのち、無料だと言ってお守りを寄越した。

話すうちに、我々がお参りに来たのではないと察したようだ。そして昔話を始めた。軍隊から帰って戦後大阪で木材市場を始めるなど、実業界で活躍したのち、80歳になってから坊主になろうと発心し、高野山や延暦寺の門を叩いたが、高齢を理由に断られた。ようやく三井寺で許され、修業して坊主になった。現在92歳、最近脳梗塞で少し身体が不自由になったが、人々を救いたいという意欲は衰えないと、波乱万丈の一代記を語ってくれた。「磨崖仏」は梵字を刻んだもので、故郷の鹿児島に現在もあると聞いた。祭壇にはその梵字の拓本がご本尊のように祀られていた。

80歳で発心するとは、世の中にはすごい人がいる。あれから5年経つが、高齢だったからもう亡くなっているかもしれない。鹿児島にあるという梵字の磨崖仏をいつか見てみたいと思っている。

金峰町で食事を採り、川辺町を車で走っていると「清水磨崖仏群」の標識が見えた。もしかしてその磨崖仏であろうか。急遽、見学しようとハンドルを切った。

清水磨崖仏群は、清水川沿いの高さ約20mの崖に彫られている。現在200ほどが確認されているという。遊歩道を歩いて行くと、左側の壁面に線刻された宝篋印塔、五輪塔などがたくさん並んでいる。時代は古くは平安時代の終わりから、鎌倉、室町、明治の各時代に亘っている。その規模や仏教的価値から、昭和34年に鹿児島県の文化財に指定された。


(室町時代の浮彫り五輪塔)

鎌倉時代には線刻の宝篋印塔や五輪塔が多く、室町時代には浮き彫りにされた五輪塔が多い。明治時代には浮彫りの十一面観音像や阿弥陀像なども刻まれた。宝篋印塔や五輪塔は供養塔で、特に室町時代には生前に刻むのが慣わしであったようだ。


(明治時代の十一面観音像)

注目した梵字を刻んだものは一組あった。守山で見た拓本は菱型の枠内に刻まれていたが、ここのものは丸枠内に刻まれている。ここのものではなかった。
(※ 帰宅して5年前の記録を調べたところ、目的の磨崖仏は薩摩川内市樋脇の「倉野磨崖仏」と記してあった)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

「吹上の千本楠」再訪

(吹上の千本楠)

金曜日、薩摩半島の南部に移動するのに、外洋(東シナ海)側を車で南下した。途中、同行者のリクエストで「吹上の千本楠」を見に立寄った。旧日置郡吹上町は2005年5月に伊集院、東市来、日吉と4町が合併して日置市となった。だから、今は日置市吹上町である。

「千本楠」には9年前に一度訪れたことがある。大汝牟遅(おおなむち)神社の境内から遠からぬところに、「千本楠」は一区画を占めて、勝手気ままに枝を伸ばしていたと記憶していた。

吹上町の中央近くに大汝牟遅神社はすぐに見つかった。神社の発祥は、伝説ではこの地にニニギノミコトがしばらく宮居され、その後、阿多隼人と呼ばれる朝廷の舎人が大汝牟遅命と玉依姫命を勧請して創建したという。さらに文治2年(1186)、地元を支配していた島津忠久が鶴岡八幡宮から八幡神を勧請したとされる。それからでもすでに800年経つ。


(大汝牟遅神社の大楠)

大汝牟遅神社の境内にも御神木で南薩一の巨樹の「大汝牟遅神社の大楠」が本殿右手にある。幹周囲11.2m、樹高30mあるが、まだ市の天然記念物にもなっていない。

大汝牟遅神社の境内から直線的な参道を100mほど戻った左側の、石垣で一段高い一区画に「千本楠」はあった。もちろん千本あるわけはなく、ざっと数えて20本ほどのクスノキの巨木があった。倒れた木がそのまま生き延びたような木も混じり、クスノキがのたうちまわっているように見える。日置市指定の唯一の天然記念物で、最大木で幹周囲9m、樹高30m、樹齢800年という。

あたりは9年前に訪れた時と全く変わっていなかった。「巨木巡礼」には次のように書き記している。

参道から石段を十数段上ると、そこには原始の森に迷い込んだ雰囲気があった。草地の地面が新芽を吹いて緑の絨毯になっている。足を踏み入れると柔らかい地面が沈む。おそらく人が多くは入っていない為であろう。学校のグラウンドほどの広さの中に20本ほどの巨大な楠が思い思いに枝を広げている。今夕陽が枝を茶褐色に照らして緑の地面とのコントラストが素晴らしく、しばし息を呑んでたたずんだ。(その時は4月の夕方だった)

今は雨上がりの正午前で、空が明るくなって風が吹くとパラパラと雫が枝先より落ちてくる。案内板によると、この辺一帯、大汝牟遅神社の神域であったようだ。神話によると大汝牟遅命下向の時、楠の木の杖を地にさされたところ、これが根付いて親木になり増えたと伝わる。明治43年日英博覧会に出品した楠材の切株は樹齢800年以上と推定されたという。なお案内板には野口雨情の句が添えられていた。
「伊佐八幡千本楠は 横へ横へと 寝て伸びる」

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

宮崎県庁に表敬訪問?

(宮崎県庁本館)

今、日本の県庁で最も有名な県庁は宮崎県庁である。宮崎には「そのまんま旋風」がまだ吹き止まない。宮崎県庁には観光バスも来るという。宮崎に来たなら是非とも県庁に表敬訪問しなければなるまい。火曜日、意外と早くビジネスホテルに入り、同行者と夕方の散歩に出た。寒い寒いと言っている間にもうお彼岸も近づき、日がずいぶん長くなってきた。市内を車で通ったことは何度もあるのだが、宮崎の町を歩くのは初めてかもしれない。

最初に飛び込んできた看板は似顔絵入りの「そのまんまらーめん」の看板であった。副題に「宮崎を元気に!日本を元気に!」、知事のスローガンなのだろう。ラーメン屋の看板に書かれる言葉ではないけれども、宮崎では妙に納得させられる。

県庁は緑に囲まれたいい雰囲気の場所にあった。昭和7年(1932)に建設された鉄筋コンクリート地上3階、地下1階のゴシック建築で、県庁本館としては九州で最古、全国でも大阪、神奈川、愛媛に次いで4番目に古いという。


(アコウの巨木)

建物周りの庭園には南国らしく、ヤシの木やサボテンの他にアコウの巨木が何本か見られた。この時間にも関わらず若い男女それぞれのグループが居て、お互いに県庁本館をバックに写真を撮り合っていた。

庭園の隅に立派な髭を蓄えた胸から上の銅像があった。そばの顕彰碑を読んでみると、一度は消えた宮崎県が再置されたという話が記されていた。

わが宮崎県は明治6年に設置されたが、明治9年廃止となり鹿児島県に併合された。川越進翁は同志とともに分県運動の世論を起こしその先頭に立って奔走し血のにじむような努力を傾け、幾多の曲折を経て明治16年ついに県民多年の熱望であった再置県を実現、今日の礎を築いた。‥‥‥

翁等の努力がなければ、宮崎県は鹿児島県の一部で、当然、現知事が誕生することもなかったことになる。現知事も人気だけではなくて、宮崎県史に名前を留める名知事といわれるようになるであろうか。


(県庁前クスノキ並木)

県庁本館前の道路は大木になったクスノキの並木になっている。切り刻んでしまうこともなく、管理も良いのだろう、ほれぼれする並木である。その並木通り、県庁からほど遠からぬところに「そのまんま市場」という宮崎のお土産を売っている店がある。小さな店ながら、店いっぱいに知事にあやかった商品の数々が並んでいる。一大観光スポットの宮崎県庁本館に訪れたなら、お土産を買うなら最適な場所である。

夕食のレストランで注文取りの娘さんに、同行者が現知事を支持しているのかと聞いたところ、支持しているとの返事が返って来た。さすが支持率93%の知事である。靜岡県で同じ問いかけをしたら「知事の名を知らない」という返事が予想される。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

九州出張電車の旅

(車窓から由布岳が見える)

一週間の九州出張から、夜帰ってきた。同行者が計画した旅で週の前半は電車の旅になった。月曜日、新幹線で博多、福岡の羽犬塚に一泊、翌朝久留米から久大線、日豊線で宮崎に一泊、翌朝鹿児島へ向かった。無事に旅は進んだ。「無事」の中にも小さな出来事や発見はある。そんな幾つかを書き込んでみよう。

京都でのぞみに乗り換えて、間もなく、車掌が来て、検札と思って切符を出そうとすると、検札はあとで来ます。実は落し物をしたというお客さんがいて、座席の下を改めさせてくださいという。足をのけて車掌と一緒に覗いてみると、何と財布とお茶のペットボトルがあった。財布は分厚くガードなども見えていた。手渡すとこれですと言って車掌が持って行った。座席の下にはまだお茶が入ったペットボトルが残されたままであった。

財布をどうして座席の下に落としたのか。ペットボトルは財布とセットなのか別なのか。そのシチュエーションが全く想像出来なかった。色々考えてみたがだめであった。車掌があとで検札に来て礼を言っていた。不思議だけが残った。


(九州新幹線工事が進む羽犬塚駅)

福岡県羽犬塚駅は工事中、駅の部分を残して両側に橋脚の工事が進んでいた。九州新幹線の工事である。九州新幹線は羽犬塚駅には止まらない。ただ駅舎の上空を通過するだけのようだった。

がら空きだった特急に、久大線の由布院駅で乗客がどっと乗ってきた。後ろの座席に座った若い女性が、「まぶしくないですか」と声を掛けてきた。久大線は湯布院駅の先でほんのしばらく南下する部分があって進行方向から午前中の日差しが斜めに差し込んでいた。後ろの座席にはもろに日差しが入るのだろう。少し引っかかりながらカーテンを引いた。引っかかったのはカーテンではなくて女性の言葉である。「まぶしいのでカーテンを引いていただけませんか」と頼むのが普通なのであろう。カーテンはすぐに列車が東進に変わったので元へ戻した。

宮崎から鹿児島へ特急で移動中、前の座席、通路を挟んで両側に同じような老夫婦が乗った。旅行者同士、お互いに話しているのが聞こえてくる。一組は横須賀、一組は福島から来たと言い、いずれも4泊のフルムーン旅行で、毎年場所を変えて旅行をしているらしい。小倉や別府といった地名が聞こえた。鹿児島は篤姫ゆかりの地でも訪れるのであろうか。両側の座席に禿頭が一つずつ並んで見えた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

八幡神社の大椎など

(八幡神社の大椎の木)

「相良超散歩」で見たシイノキの巨木について書こう。湯日の空港トンネルの手前に、八幡神社という古い村社があり、石畳の参道脇にシイノキの巨木があった。引き寄せられるように参道に入った。シイノキの巨木は中がすっかり空洞になっている。

巨木は老木になると、幹が柱状にくびれて複幹状になることは知られている。このシイノキは複幹化がねじれるように進み、ところどころ割れ目が出来て、中の空洞が覗ける。樹木は外側10センチメートルが生きていて、外へ向けて成長して太くなっていく。逆に内部は活動を止め、言い方を替えれば死んで行くともいえる。樹木の中で生と死が共存しているわけである。活動を止めると内部は時間を掛けて傷んでくる。巨木の多くのものが内部に空洞を持っている。中が空洞になっても、表皮10~20センチメートルの厚みで巨樹は立っている。立っている限り生きており、成長して太くなり続けている。

かたわらの案内板には、
‥‥‥ 参道わきにあるため、明治初年伐り倒してはの声もあったが、現在に至っている。その高さ約20m、周囲約5mの巨木で、樹齢は、元亀年間に植えたとしても400年以上を経ているものと思われる。
とあった。

この巨木も一時、じゃまになるという理由だけで、切られかかった。明治という新しい時代、迷信追放、廃仏毀釈、古いものは壊すという勢いに満ちていた。そんな中で、どんな理由で切り倒されないですんだのだろう。

一説に寄れば、明治が始まる頃には、日本中、巨木にあふれていたという。それを明治から100年の間に切り尽して現在に至った。文明開化、打ち続く戦争、焦土と化した国土、戦後復興と高度成長、いずれも木材の供給を必要としたのだろう。

振り返ってみれば、江戸時代の250年は、平和な自然に最もやさしい時代であった。そして100年経って21世紀、温暖化防止が最重要課題となって、自然にやさしい時代になるであろうか。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

紅林衛達という人の業績

(顕彰碑のある釣学院)

静波の街中、西南の外れに近いところに釣学院というお寺がある。その門を入った右手に、「紅林衛達先生顕彰碑」が建っていた。こういう稗はこの頃は読むようにしている。この碑は昭和47年に建てられた新しいものだったから、読むには苦労が無かった。

紅林衛達氏はこの釣学院の末寺の住職で、寺子屋を開いて子弟教育にも尽された。そこに事件が起こった。碑文によると、

「当時大磯久保柄の農家は、海岸の国有地に塩畑を設けて製塩の業に従い、傍ら小作地を耕して生計を立てていた。たまたま明治十六年、この塩畑を地先権として払下げを申請した地主十三戸と、是に反対する農家六十戸との間に紛争を生じた。先生は農民を代表して、地主との折衝に日夜奔走されたが、円満なる解決を得ず。問題は法廷に移された。先生は是を一身に引受けて訴訟を進め、農民がその費用に窮するや、寺財の山林を売却してこれに充て、ついに勝訴に導いた。かくて、この塩畑は全村七十三戸へ農地として平均に分割払下げられた。小作者達は、ここに初めて自己の所有地を得て、感涙にむせんだ。明治十八年五月、両者の間に和解が成立し、三年の永きにわたる紛争に終止符が打たれ、村に平和が甦った。」

塩の道がこの辺りから長野方面に向けて通っていた。だからこの海岸辺に塩田があって当然であるが、この逸話は改めて塩田の所在を教えてくれる。「大磯久保柄」という地区はこのお寺より南へ1.5キロほど下った片浜海岸の集落である。

この逸話は紅林衛達氏の功績はもとより、戦後の農地解放に先立つこと半世紀も前に、農地解放と同様のことが明治の司法の手で行われたことに驚く。明治の司法もこの当時は始まって間が無く、おそらくは理想に燃えていたのであろうと思った。

これ以降の払下げにおいても、「この先例にならい全村民に分割される例となり、ために村人は海岸地帯に豊沃な農地を得て今日の繁栄の基礎を築いた」と書かれている。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

榛原から相良へ超散歩は続く

(勝間田川のスイセン)

(「相良超散歩」続き)
空港トンネルを抜けた先は牧之原市坂口、牧之原台地を坂口谷川が浸食して坂口谷をなしている。坂口の下が坂部で更に東名を潜ると細江へでる。そこはもう駿河湾の細江海岸である。海岸は南に静波、片浜を通って相良海岸に至る。その海岸線は夏は海水浴場(今は何というのか)となる。

東名を潜ってすぐに右折し、東名の側道を通って小さな峠を越す。仁田の集落に下る。榛原中学を左手に見て、勝間田川に突き当たり、川の土手の遊歩道を歩き、静波に出る。静波は旧榛原町の中心街であった。


(「三丁目の道標」)

勝間田川の土手には白いスイセンが群生していた。地元のお年寄りが植えて育てているのであろう。静波も国道150号線には出ないで、旧街道を選んで歩いた。この道は相良街道というのだろうか。秋葉常夜燈が点々と残されている。いくつかは新建材の鞘堂に入れられているものもある。少し味気ない。往時は夜間歩かねばならないときは、月明りの他にはこの常夜燈の暗い光が頼りだったはずである。静波の三丁目に「三丁目の道標」があった。天保7年(1836)に建てられたもので、石柱の三面に「大井川道」「かけ川道」「さがら道」と深く刻まれていた。


(萩間川河口夕景)

片浜で国道150号線に出た。左手はもう駿河湾である。山の中ばかり歩いてきて、まだ昼食にありついていなかったので、コンビニでおにぎりを買い、坂井平田港に出て漁船を見ながら昼食代わりにした。萩間川河口の橋を渡って相良の町に入る頃には日も西に傾いていた。最後の2キロほどは左足の付け根辺りに少し鈍痛がしてきた。さすがに今日の歩行は応えたということか。

静鉄ジャストラインのバスは相良営業所からは藤枝と金谷に出ている。時間を見ると藤枝へ出るバスは5時ジャスト。金谷行は5時20分、日暮れで少し寒くなったので、早い藤枝行に乗った。乗った客は自分一人、何とこの後、榛原、吉田といくつも停留所を過ぎて行くが、客は一人も乗ってこなかった。吉田から大井川町に入る辺りでようやく一人乗ってきて、その後パラパラと乗り、それでも終点まで二桁の客にはならなかった。これが路線バスの現状なのだと改めて認識した。藤枝駅まで一時間余り、運転手は発車の度に、小声でずっと指差呼称をしていた。料金表示板の上に「私は指差確認呼称をして発車します」と書かれていた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ 次ページ »