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復元整備中の熊本城(後)

(熊本城宇土櫓)

(昨日の続き)
石垣の間の石段を右へ左へと折れて、天守閣へ向かった。天守閣の左側に回って広場に出る。天守閣の反対側の隅に宇土櫓があった。西南の役で天守閣を初め多くの建物が炎上する中で、宇土櫓は風上にあったため奇跡的に焼け残り、国の重要文化財に指定されている。案内板によると、熊本城内に唯一往時のまま残る多層櫓で、外観は三層、内部は五階に地下を備えている。この宇土櫓だけでも小さい城の天守閣ぐらいはあるだろう。小西行長の宇土城の天守閣を移築したと伝わり、呼び名の起こりとされているが、解体修理時の調査によると移築された痕はないことが判ったという。

中に入ると部材一つ一つにさすがに400年の歳月を感じさせる。木材は主にマツ、他にツガ・クス・クリなども混じっている。柱や梁のちょうな痕は飯田丸五階櫓と同じであるが、歴史を感じるのはなぜだろう。屋根瓦の中には加藤家の桔梗紋を持つ瓦も残っているという。

櫓に登っても外の景色をあんまり見ていない。垂直に近い石垣の上に更に多層の櫓がのって、とても外の景色を楽しむという気にならない。歳とともに高所恐怖症は過敏になっているように感じる。


(熊本城天守閣)

最後に、天守閣に挑む。入り口は反対側で、右手から回って行った。団体の観光客の多くは台湾や韓国の人のようだ。日本語ではない言葉が飛び交う。グループ客には日本人もいる。昔のように観光バスによる団体旅行は日本では流行らないのだろうか。

熊本城の復元に費やすパワーの源は何だろう、という疑問の答えの一つに、東南アジアからの観光客へのアピールがあると思った。石垣だけ残った城跡に立ち、失われた古き栄華に思いを馳せ、無常感に浸るという感傷は、東南アジアの人々には無い。現代に造ったものであっても、立派な形のある城郭を見せることで、初めて東南アジアの観光客を呼べる。考えてみるとこれだけの規模の城跡は九州ではここ以外には無いのだから。100億円掛けても経済効果を考えれば取り戻せる。そんな思惑が働いたのではないのだろうか。

熊本城天守閣は昭和35年(1960)に復元されている。内部は熊本博物館の分館になっていて、清正と熊本城、細川氏や西南戦争の関連資料などの展示がされている。伴って内部は昔の城にこだわることは無く、階段など現代の歩きやすいものになっている。


(公開を待つ熊本城本丸御殿)

最上層まで登ってきたが、天守閣に寄り添うように建てられた本丸御殿の屋根を上から見下ろしただけで、早々に降りてきた。その間に外は小雨が降ったようであった。頬当御門から出て行幸坂を下り、行幸橋に戻った。振り返ると坪井川に沿った全長242メートルという長塀が見えていた。この長塀も国指定重要文化財である。


(熊本城長塀)
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