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薩摩今和泉、篤姫の里(後)

(豊玉媛神社)

(昨日の続き)
田の神様に続いて山際に真っ赤に塗られた社殿の豊玉媛神社があった。江戸時代には中宮大明神の意味で、「デメジンサー」と呼ばれていた。土地の氏神様であろう。鳥居の手前、参道を挟んで両側に石の仁王様があった。つくづく薩摩は石の文化の国だと思った。薩摩の各地に残る石橋はすばらしい技術だし、仁王様まで石で造ってしまう。この今和泉の里も古いものは皆んな石造りである。昨日は半島の反対側であるが、磨崖仏も見てきた。


(石造りの仁王像)

この仁王像は、案内板によると、元禄8年(1695)、地元の侍衆(12人)、氏子、浜衆(27人)、在衆(59人)が施主となって奉納された。県下でも稀にみる傑作として指宿市の文化財に指定されている。

次に、国道に出た所に「孝女袈裟子之碑」がある。生まれつき障害を持った袈裟子は貧困のも挫けることなく両親に孝養をつくした。今和泉家第二代当主忠温はその孝養振りをほめて、生涯お金とお米を贈った。石碑はその事実を後世に伝えるために建てられたものだという。


(別邸跡の石垣と「隼人松原」)

国道を渡って浜に出た。左手に進むと浜辺に沿って今和泉島津家の別邸跡がある。浜と別邸跡地を区切るように往時の石垣が残り、石垣の上には「隼人松原」と呼ばれた松林の一部が残っている。別邸跡には今は今和泉小学校が建っている。石垣前の浜の一画には「篤姫」の放映が決まってから急遽造られたのであろう小公園があった。篤姫と今和泉の関わりを記した案内碑や別邸にあった手水鉢のレプリカが置かれていた。

今和泉小学校は立入禁止になっていた。ただ入ってすぐのところに石の井戸枠が見えていたので、そこまでは何とか入ってみた。篤姫はこの別邸で18歳まで過ごしたといわれ、裏座敷からすぐに浜辺に出られ子供の遊び場には事欠かなかったことであろう。ドラマの中で篤姫がお気に入りとされたクロガネモチは、平成7年に枯れ伐採されて、校内にその根株が保存されているという。ガイド付きで回ればその根株や校内にあるという石造りの手水鉢の本物なども見せてもらえたのかもしれない。

駐車場へ戻るのに海岸に沿った町割を通って行った。胸元ほどの高さの石塀で仕切られた細い小路の町割では、人の住まない家や更地になった地所などが目立ち、この町が現在置かれている状況が知れた。

せっかく見学に来たのだから、篤姫で町興しをしている集落に少しでもお金を落とそうと考えてきたが、農家直売のテントを何張りか見ただけで、お土産屋さんも何も無かった。
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