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「校合雑記 巻の壱」の解読 25


校合雑記巻の壱 25

「校合雑記巻の壱」の続き、24P2行目途中より。

又當今の御譲り越請て、大上天皇の位越(ふま)ん事を雖願ふと、本朝ニ
※ 践む(ふむ)➜ 地位に就く。
天照大神の御廟ならてハ、即位の例な介れ者、是犯ス
※ 裔(えい)➜ 血筋の末。子孫。後裔。
べき事ニあら須゛。所詮唐土を攻て、明の代を随江、帝王の
※ 唐土(とうど)➜ 中国。
身と成て、異國本朝越治ん事、難(がた)可るへきかとて、天正拾
九年の春、御猶子(ゆうし)近江中納言秀次卿江関白職を譲る。
※ 猶子(ゆうし)➜ 兄弟の子。甥。姪。
是より是より(W)太閤御所と申介り。文禄元年辰の
春尓至て、頻(しきり)尓異朝征伐の沙汰有て、秀吉(次)卿を盤

帝都の守護尓残し置て、太閤ハ諸將を相具(ぐ)して、
肥前松浦郡名古(護)屋迠御動座なり。先軍、評定有りて、
※ 動座(どうざ)➜ 貴人・神輿などが座所を他に移すこと。
手多きなれ者とて、朝鮮を攻るといへとも、と可く大國な
連盤、年月を歴(へ)る。依て、太閤盤伏見江帰り多満ふ。
猶、大明江攻入んと武威を婦るふ所尓、慶長三年の夏ゟ
秀吉公不例丹て、同八月十八日、巳の刻尓、春秋六十三歳
※ 不例(ふれい)➜ ふだんの状態ではないこと。特に、貴人の病気についていう。
にして、終尓薨(こう)し給ふ。 勅令ニ依て、洛陽東山
阿弥陀可峯の麓尓、豊國大明神と(いわ)王れ、豊國の社ニ
※ 祝う(いわう)➜ 身を慎み、けがれを避けて神を祭る。
勅額を賜ふ。(額、豊國大明神とあり。社領壱万石也)
神主は、吉田の侍従卜部兼次カ弟、萩原也。

【 読み下した文】

また當今の御譲りを請けて、大上天皇の位を(ふま)ん事を雖願うといえども、本朝に
天照大神の御廟ならでは、即位の例なければ、これ犯す
べき事にあらず。所詮唐土を攻めて、明の代を随え、帝王の
身と成りて、異国本朝を治めん事、難(がた)かるべきか、とて、天正拾
九年の春、御猶子(ゆうし)近江中納言秀次卿へ関白職を譲る。
是より太閤御所と申しけり。文禄元年辰の
春に至りて、頻りに異朝征伐の沙汰有りて、秀次卿をば
帝都の守護に残し置きて、太閤は諸将を相具(ぐ)して、
肥前松浦郡名護屋まで御動座なり。先軍、評定有りて、
手多きなればとて、朝鮮を攻むるといへども、とかく大国な
れば、年月を歴(へ)る。依って、太閤は伏見へ帰り給う。
なお、大明へ攻入らんと武威を振う所に、慶長三年の夏より、
秀吉公不例(ふれい)にて、同八月十八日、巳の刻に、春秋六十三歳
にして、終に薨(こう)じ給う。 勅令に依って、洛陽東山
阿弥陀が峰の麓に、豊国大明神と(いわ)われ、豊国の社に
勅額を賜う。(額、豊国大明神とあり。社領壱万石也)
神主は、吉田の侍従、卜部兼次が弟、萩原也。

(25P1行目まで、以下続く)

読書:「江戸の雷神 敵意」 鈴木英治 著

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「校合雑記 巻の壱」の解読 25


校合雑記巻の壱 25

「校合雑記巻の壱」の続き、24P2行目途中より。

又當今の御譲り越請て、大上天皇の位越(ふま)ん事を雖願ふと、本朝ニ
※ 践む(ふむ)➜ 地位に就く。
天照大神の御廟ならてハ、即位の例な介れ者、是犯ス
※ 裔(えい)➜ 血筋の末。子孫。後裔。
べき事ニあら須゛。所詮唐土を攻て、明の代を随江、帝王の
※ 唐土(とうど)➜ 中国。
身と成て、異國本朝越治ん事、難(がた)可るへきかとて、天正拾
九年の春、御猶子(ゆうし)近江中納言秀次卿江関白職を譲る。
※ 猶子(ゆうし)➜ 兄弟の子。甥。姪。
是より是より(W)太閤御所と申介り。文禄元年辰の
春尓至て、頻(しきり)尓異朝征伐の沙汰有て、秀吉(次)卿を盤

帝都の守護尓残し置て、太閤ハ諸將を相具(ぐ)して、
肥前松浦郡名古(護)屋迠御動座なり。先軍、評定有りて、
※ 動座(どうざ)➜ 貴人・神輿などが座所を他に移すこと。
手多きなれ者とて、朝鮮を攻るといへとも、と可く大國な
連盤、年月を歴(へ)る。依て、太閤盤伏見江帰り多満ふ。
猶、大明江攻入んと武威を婦るふ所尓、慶長三年の夏ゟ
秀吉公不例丹て、同八月十八日、巳の刻尓、春秋六十三歳
※ 不例(ふれい)➜ ふだんの状態ではないこと。特に、貴人の病気についていう。
にして、終尓薨(こう)し給ふ。 勅令ニ依て、洛陽東山
阿弥陀可峯の麓尓、豊國大明神と(いわ)王れ、豊國の社ニ
※ 祝う(いわう)➜ 身を慎み、けがれを避けて神を祭る。
勅額を賜ふ。(額、豊國大明神とあり。社領壱万石也)
神主は、吉田の侍従卜部兼次カ弟、萩原也。

【 読み下した文】

また當今の御譲りを請けて、大上天皇の位を(ふま)ん事を雖願うといえども、本朝に
天照大神の御廟ならでは、即位の例なければ、これ犯す
べき事にあらず。所詮唐土を攻めて、明の代を随え、帝王の
身と成りて、異国本朝を治めん事、難(がた)かるべきか、とて、天正拾
九年の春、御猶子(ゆうし)近江中納言秀次卿へ関白職を譲る。
是より太閤御所と申しけり。文禄元年辰の
春に至りて、頻りに異朝征伐の沙汰有りて、秀次卿をば
帝都の守護に残し置きて、太閤は諸将を相具(ぐ)して、
肥前松浦郡名護屋まで御動座なり。先軍、評定有りて、
手多きなればとて、朝鮮を攻むるといへども、とかく大国な
れば、年月を歴(へ)る。依って、太閤は伏見へ帰り給う。
なお、大明へ攻入らんと武威を振う所に、慶長三年の夏より、
秀吉公不例(ふれい)にて、同八月十八日、巳の刻に、春秋六十三歳
にして、終に薨(こう)じ給う。 勅令に依って、洛陽東山
阿弥陀が峰の麓に、豊国大明神と(いわ)われ、豊国の社に
勅額を賜う。(額、豊国大明神とあり。社領壱万石也)
神主は、吉田の侍従、卜部兼次が弟、萩原也。

(25P1行目まで、以下続く)

読書:「江戸の雷神 敵意」 鈴木英治 著

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