平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
「校合雑記 巻の壱」の解読 26
校合雑記巻の壱 26P
「校合雑記巻の壱」の続き、25P2行目より。
或人の曰(いわく)、秀吉公、新八幡と願王れし可、勅許な可りし也。
※ 勅許(ちょっきょ)➜ 勅命による許可。天子の許可。
説尓い王く、太閤他界有て、関白秀次卿事故なく
ましまさバ、國家静謐なるへき越、秀次ハ御父太閤尓
對して、謀叛(むほん)の企(くわだて)ある尓依て、文禄四年、高野山青
岩寺尓於て、秀次越失ひ給ふ。御実子捨君(秀頼の事なり)
僅(わずか)尓六歳尓なり給へ者゛、天下を知り給んともいひ可多し。
朝鮮征伐の半(なかば)といひ、彼是、太閤も御心苦しく
思召となり。
一 大納言菅原之利家ハ、慶長四年閏三月三日夜、卒去(そつきょ)せらる。行年
※ 卒去(そつきょ)➜ 身分のある人が死ぬこと。
六十二歳、贈一位高徳院と号須。此卿盤、尾州荒子能住人、前田
縫殿助(ぬいどののすけ)利春の六男也。初免、信長公児小性(こごしょう)を勤、食禄三拾石ヲ
※ 児小性(こごしょう)➜ 児小姓。貴人のそば近く仕えて雑用をする、元服前の小姓。
給りし可、信長公の同朋(どうぼう)十阿弥を、手討尓せら連し罪尓依て
暫く浪々の身となり、弘治二年信長公と、舎弟武蔵能守
信行と取合(とりあい)の時尓、信長の先陣ニ加り、首二ッ取と雖(いえども)、猶、信長公召
※ 取合(とりあい)➜ 一つのものを取ろうとして争うこと。奪い合い。
返し給王す。ま多、信行可臣、宮井勘兵衛可射介る矢、利(家)の面ニ
當り希るを、即鎗付て、其首尓麾(さしずばた)を添て実検(じっけん)尓そなふ。
※ 麾(さしずばた)➜ 軍勢の指揮をとる旗。
※ 実検(じっけん)➜ 首実検のこと。
其時信長公、忰可いらさる事を仰ら連、帰陣の後、召出して
百五拾石を賜ふ(今川合戦の後、帰参共(とも)書(かく))程なく加恩有て、三百石ニ成。是より
年々栄録を加へら連、終尓越前の府の城主となり、
※ 栄録(えいろく)➜ 手柄の記録。
【 読み下した文】
或人の曰く、秀吉公、新八幡と願われしが、勅許なかりしなり。
説にいわく、太閤他界有りて、関白秀次卿事故なく
ましまさば、国家静謐なるべきを、秀次は、御父太閤に
対して、謀叛(むほん)の企てあるに依りて、文禄四年、高野山青
岩寺に於いて、秀次を失い給う。御実子捨君(秀頼の事なり)
僅(わず)かに六歳になり給えば、天下を知り給わんとも言い難し。
朝鮮征伐の半ばといい、彼是(かれこれ)、太閤も御心苦しく
思し召しとなり。
一 大納言菅原の利家は、慶長四年閏三月三日夜、卒去(そつきょ)せらる。行年(ぎょうねん)
六十二歳、贈一位高徳院と号す。この卿は、尾州荒子の住人、前田
縫殿助(ぬいどののすけ)利春の六男なり。初め、信長公児小性(こごしょう)を勤め、食禄三拾石を
給わりしが、信長公の同朋(どうぼう)十阿弥を、手討ちにせられし罪に依りて、
暫く浪々の身となり、弘治二年、信長公と、舎弟武蔵の守
信行と取合(とりあい)の時に、信長の先陣に加わり、首二ッ取るといえども、なお、信長公、召し
返し給わず。また、信行が臣、宮井勘兵衛が射ける矢、利(家)の面(つら)に
当りけるを、即鎗付いて、その首に麾(さしずばた)を添えて実検(じっけん)に備う。
その時、信長公、忰(せがれ)がいらざる事を、仰せられ、帰陣の後、召し出して、
百五拾石を賜う(今川合戦の後、帰参とも書く)程なく加恩有りて、三百石に成る。
これより、年々栄録を加へられ、終に越前の府の城主となり。
(26P2行目途中まで、以下続く)
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