河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2424- ツァラ、死と浄化、ティル、シャイー、ルツェルン祝祭管、2017.10.8

2017-10-08 23:12:48 | コンサート

2017年10月8日(日) 3:00-5:15pm シンフォニーホール、ミューザ川崎

オール・シュトラウス・プログラム

ツァラ  35
Int
死と浄化  26
ティル  15
(encore)
セヴン・ヴェール  10

リッカルド・シャイー 指揮 ルツェルン祝祭管弦楽団


オールスタードリームキャストによる公演。一音目からはっきり、音が違う、物が違う、なのに客は5割。値段設定がクレイジー。これだけのオケを一人2席レベルで味わう聴衆という話。

年数週間のお祭りオケがツアーを行うというのも凄いですね。日本4、中国2、韓国1。計7公演。これをスカラ座の音楽監督が振るというゴージャスぶり。アバド、ムーティ、バレンボイム、シャイー。ラ・スカラのアバド系譜のタクトという事になります。

このお祭りオケの意思表示はまず、その極め付きのうまさ。ビックリ仰天。ツァラの5小節目トランペットから引き継いだアウフタクトからの全奏のきまり具合に、あんぐり。もう、本能的に感じてしまうこのうまさレベル。

やや粘着質で黒光り、濡れて光るアナログの集積回路はぎっしりと詰まっている。18型CB9の布陣でそれだけで巨大だが、なんだか、この何倍も巨大になってもうまさは変わらんだろうなという雰囲気で、腕の鳴る連中の凄味がよくわかった。このようなインパクトある演奏はたぶんあっという間に終わるように感じるんだろうなあと思う間もなくあっという間に終わってしまった。浸って聴くだけ。凄い演奏でした。
仰天二つ目、こういう集団を仕切る棒振りというのはさらに上をいかないといけない。申し分ない指揮者シャイー。ハイスキルレヴェルオケの止まらないうまさの手綱を締める、これは抑えるのではなくさらにテンションをあげるのが正解とシャイーは言っていますね。前へ前へと走らせる。圧倒的牽引力。みんな、向かうところ敵無し。最高。
そして、エンディングの静寂、開いた口が塞がらない聴衆の静けさが心地よかった。

死と浄化、これがまた凄い。全プレイヤー息をころして作るタメ、その後、一斉フォルテでエネルギー放出、あの呼吸の見事さ、スピード感、立ち上がりの良さ。うまいオケからしか味わうことが出来ないものだ。本能的に、感じる。スーパープレイ。それに、太い音、まるで帯のように流れる。ぶ厚く透明に。
巨大な作品でした。こんなに偉大な曲だったのかな。演奏が作品を越えた瞬間だろう。堪能しました。このエンディングでも静寂が訪れました。素晴らしい。

ティルは立ち上がりの良い機能的オケの切れ味鋭いスタッカート風味の連続妙技にのけぞる。デフォルトな技のようにしか聴こえてこない素晴らしさ。
磨き抜かれた個人技も圧倒的で、音楽の表情が豊か。多彩なシュトラウスのビューティフルサウンドを満喫。

3曲とも巨人芸でした。

アンコールはサロメのセヴン・ヴェール、長いアンコールで白熱テンションへ登り切る。シャイー、フィニッシュは指揮せず。スーパーオケに任せる。まぁ、オーケストラデモンストレーションのようなもんですな。

1500円プログラム買って読んでみたら全メンバーの名前とそれぞれの所属オケを書いてある。日本語は無いのでどこからかの写しなんでしょうけど、とにかく、壮観。これじゃ、うまいはずだわ。

客席は、一番てっぺん正面13人、その真下は9人といった感じでガラガラ。埋まっているフロアもまだら模様。詰めて座ったら5割程度。とんでもない価格なので、企画会社は自業自得なんだろうが、これでもペイしているのかしら。
最低価格を半分程にして中間価格帯席数を多くすればもっと沢山埋まっていたと思う。
自分としてはこのカタツムリのようなホール、上階席は要らないと思ってるのでこんなもんでいいかという感じはある。
おわり



 


2423- 蝶々夫人、森谷真理、二期会、デスピノーサ、東響、2017.10.7

2017-10-07 21:37:19 | オペラ

2017年10月7日(土) 2:00-4:50pm 東京文化会館

東京二期会 プレゼンツ
プッチーニ 作曲
栗山昌良 プロダクション
蝶々夫人

キャスト(in order of appearance)
1-1.ゴロー、升島唯博(T)
1-2.ピンカートン、宮里直樹(T)
1-3.スズキ、山下牧子(Ms)
2.シャープレス、今井俊輔(Br)
3.蝶々夫人、森谷真理(S)
4.ボンゾ、勝村大城(Br)
5.ヤマドリ、鹿野良之(Bs)
6.子、渡島小春
7.ケイト、和泉万里子(S)

合唱、二期会合唱団
ガエタノ・デスピノーサ 指揮 東京交響楽団

(duration)
ActⅠ 46
Int
ActⅡ 48
ActⅢ 29


今日は森谷さんお目当てで。

最近観た蝶々夫人、これは面白かった。
2277- 蝶々夫人、笈田プロダクション、バルケ、読響、2017.2.18

森谷さんの歌は、昨年のこれで聴いた。
2220- 後宮からの逃走、川瀬賢太郎、読響、2016.11.11

今年になってからびわ湖ラインの黄金の二日目にフライア役でも出ました。
2286- ラインの黄金、ハンペ、沼尻、京都市響、2017.3.4
2287- ラインの黄金、ハンペ、沼尻、京都市響、2017.3.5


今日の蝶々夫人は二期会4回公演の二日目。この二日目と四日目に森谷さんが出演。
最初ちょっと緊張していたように見受けられました。硬くて、ビブラート多め。ピッチが動く。存分に楽しめるところまではいきませんでした。声の大きさが一段違うなあという思いはありました。余裕の身のこなしで物腰は堂々としたもの、世界の舞台で鳴らしているだけのことはありますね。
相手役の方は今一つこなれていない。最もポピュラーな演目でホールをうならせるのは至難の技だろうが、奇を衒った演目ではなくてこうゆうものでうならせると羽ばたけるんだろうなあと思うところはありますね。
脇はよい布陣で総じて楽しめました。また、今回は二期会の着物の話を先に読んでいたのでその意味でも色々と興味深いものがありました。
『蝶々夫人』を彩る着物の世界

この舞台は何度か観ていて、自然ないいものです。
それから、日本語の縦字幕の効果は絶大ですね。これが有ると無いでは理解に天と地ほどの違いがあるような気がする。
指揮のデスピノーサは、良いものそうでないもの、コンサートで聴いてきたわけですが、オペラの指揮、明確に振りぬくところと歌うような流れになるところメリハリ効いた棒でした。

プッチーニの泣き節、堪能しました。
おわり










2422- ベートーヴェン、創作32変、32番、ディアベッリ変、コンスタンチン・リフシッツ、2017.10.6

2017-10-06 23:39:43 | リサイタル

2017年10月6日(金) 7:00-9:20pm ヤマハホール、銀座

オール・ベートーヴェン・プログラム

創作主題による32の変奏曲ハ短調WoO.80  11′
ピアノ・ソナタ第32番ハ短調Op.111 11-20′
Int
ディアベッリのワルツの主題による33の変奏曲ハ長調Op.120  61′

(encore)
6つのバガテルより第5番ト長調Op.126  2′

ピアノ、コンスタンチン・リフシッツ


華金、雨の銀座、こってりとディープナイトを。
などというあまったるい妄想を完全にぶっとばしていただきました。草木もなぎ倒す筆舌に尽くしがたいぶっ飛びプレイに悶絶。

当夜のリサイタルは、当世、ご多分にもれず副題付き。
変幻自在~ベートーヴェンの変奏曲の世界
というもの。確かにバリエーション3曲なんだが、それよりも変幻自在というほうに完全に向いたものでした。

プログラムは巨大。前半2曲目に111を置くというもの。これを聴いて1曲目の創作主題変奏曲は吹き飛んでしまったが、それでも圧倒的な強い弾き、切れ味の鋭さ、明快な音楽づくり等々はその1曲目において既にヴェールを脱いでおり耳に刻まれていたから気持ち、少しは心の準備ができていてそれなりに冷静に聴くことが出来たという心的作用子としてはあれがあってよかったという話にはなる。というぐらい、ハートの中にバシバシと容赦なく踏み込んでくるような演奏ではあったのだ。

強くて太くてンスピレーションの塊のような111プレイ。横滑りしない深い弾きは腕まくりした腕そのもののような無骨さも垣間見える。
下降する2音から始まったとめどもなく強い弾き。仰天弾き。誰にも止められないだろう根っこの生えたような音。くさびのような第1楽章。
そして第2楽章ベートーヴェン・リフシッツワールド。変奏曲とはいってもあまりの激烈なデフォルメに途中から追えなくなった。変奏曲のような推移のメリハリはほとんどない。第3変奏あたりからだろうか、音楽は異常に盛り上がり最高潮に達する。鍵盤崩壊を起こしそうな打撃。即興、アドリブのような音の流れ。アナーキーな世界へ。空中分解したのは聴いているこちらだけなのだろうが、完全に方向感を失ってしまった。なんだろう、この世界。
この楽章頭、指を軽く落としていくデリカシーの塊のような主題、そして5変奏終えた後の静寂のコーダ。これらの間に展開しためくるめくような変奏。なんという見事なフレームワーク。あれだけ崩壊したように聴こえたベートーヴェンがパーフェクトに自在なフォームで成り立っていたということをはっきりと感じさせてくれるリフシッツベートーヴェン。はるかな高みに連れ込んでくれたリフシッツの演奏はお見事と言うほかない。エキサイティングベートーヴェン。30分越えの演奏でした。

後半は巨大なディアベッリ。とことん33個数えてやれ、という気持ちで臨んだのだが、やっぱり無理。
音は強いが強引さを全く感じない演奏は彼の一つのスタイルなのだろうからナチュラルなのだろう。こちらも前半のあれで多少は慣れたのもあるかもしれない。
そういったこととは別にもうひとつ印象的なのは短調のバリエーション。力を抜き物憂げな色あいが濃くにじみ出てくる。作品の幅がグッと広がりますね。
一つ一つの変奏の際立った色彩、強烈なコントラストにより全体の振幅がものすごく大きくなり、巨大な作品を聴いていることを実感出来る。巨大な作品であることを感じさせてくれるリフシッツの演奏、まずはベートーヴェンありきという強烈な説得力。
ということで短調の変奏が続くあたりで、その見事さにカウントを自然忘却。ビッグな演奏に感服。タップです。

物理的な音の強さを作品の表現エレメントのひとつとして濃く体感、また、その裏にあるものまでことごとく体感できた一夜でした。
腰砕けで雨の銀座を退散。ありがとうございました。
おわり








2421- 神々の黄昏、新国立、飯守泰次郎、読響、2017.10.4

2017-10-04 23:50:18 | オペラ

2017年10月4日(水) 4:00-10:00pm オペラパレス、新国立劇場、初台

新国立劇場 プレゼンツ
ワーグナー 作曲
ゲッツ・フリードリッヒ プロダクション
New production for opera-palace originally based on Finnish National Opera 1996

神々の黄昏  38+77、68、80

キャスト(in order of appearance)
1-1.第1のノルン、竹本節子(Ms)
1-2.第2のノルン、池田香織(Ms)
1-3.第3のノルン、橋爪ゆか(S)
2.ブリュンヒルデ、ペトラ・ラング(S)
3.ジークフリート、ステファン・グールド(T)
4.ハーゲン、アルベルト・ペーゼンドルファー(Bs)

5-1.グンター、アントン・ケレミチェフ(Br)
5-2.グートルーネ、安藤赴美子(S)

6.ヴァルトラウテ、ヴァルトラウト・マイヤー(Ms)

7.アルベリヒ、島村武男(Br)

8-1.ヴォークリンデ、増田のり子(S)
8-2.ヴェルグンデ、加納悦子(Ms)
8-3.フロースヒルデ、田村由貴絵(Ms)

合唱、新国立劇場合唱団
飯守泰次郎 指揮 読売日本交響楽団

duration
序幕+第1幕第1場+2場3場 38+35+42
第2幕 68
第3幕 80


前3作の感想はこちら。

1999- ラインの黄金、千秋楽、新国立劇場、2015.10.17

2199- ワルキューレ、三日目、新国立劇場、2016.10.8

2358- ジークフリート、飯守泰次郎、東響、2017.6.7

序幕、ノルンたちが太い綱をもぎ、歌い終える前に被さるようにブリュンヒルデが現れる。切れかかった綱をブリュンヒルデがさらに千切る。
第3幕結末、狂ったブリュンヒルデはギービヒ家に火をつけ、それがヴァルハラのお城まで延焼。大きめの白い布に隠れたブリュンヒルデ、リング最後の一節は布を取り払い、腕を広げた彼女を音楽が取り巻きながらエンディング。
おお、何やら次がありそうな気配、と感じさせながらワーグナーの飽くなき咆哮で、とりあえず、リング・サイクルは完結したのだろうかと思わせぶり感を漂わせながらの終止。

序幕で早めに現れたブリュンヒルデに次いでジークフリート登場。ドーン&ラインジャーニーのシーケンス。ここにハーゲンが現れる。
ブリュンヒルデもジークフリートもハーゲンも、みんな早めに出てくるのだな。
ハーゲンのペーゼンドルファー、このキャラの合い具合ビッタンコです。全身、悪という感じでそうとうに濃い。
主役2人はこの序幕では声が出ておらず、頂点のひと声のみはきっちり決めるというプロならではのツボ技。グールドの倍ほど開けたラングの口は怖ろしい映画をこれから見るような気持ちとなる。

早めに現れた3人衆の展開だが、1幕への場面転換のところで一度薄幕が下りる。2場に移る前も同じく幕が下りました。あとは、第2幕の悪だくみ三重唱の前で一度下りて、その手前で歌うというところがありましたが、他では明確な場面転換は無し。
他場面にももげた綱が床にある、セッティングは基本のところは動かずでスタティックな印象。第1幕がバタバタしなくて、いいですね。


第1幕は、既にいるハーゲン、それにソファーかベッドかわからないが半月形の傍らにグンターとグートルーネがいちゃついて座っているという兄妹H愛を感じさせるもの。あとで、グートルーネにハーゲンがまたがるシーンもあるので、この3人ともあやしい関係でしょうな。そこに双子親の息子が出てくるわけだから、もはや、近親そうかんクローズアップ。
こういったワンシーンが展開に大きく絡んでくるという事では必ずしも無いと思うが、色々と舞台上に動きがちりばめられており、劇としての振幅が大きくなっている。舞台セッティング、小道具、人物の動き。特に動きへの配慮が細やかで練られた劇の面白さがよく見えるものとなっており、前3作で感じた古さのようなものを今回は全く感じなかった。刷新された印象。

キャラ決まりのハーゲンペーゼンドルファー、バスの声までに憎々しいほど冴える。そしてグンターのケレミチェフ、殊の外よくとおる声でザラッと雰囲気を醸し出す。役的には受け身のものでその細身の体躯がどことなく弱々しくて優柔不断、これまたビッタンコのキャラなんですが、出てくる声は強い意志を感じさせるもの。
グートルーネの安藤さんは周りの男どもといちゃついて欲しくないという願望を感じてしまうほどの見事な身のこなし、巨人族ぞろいのなかにあってスキニーで優雅、歌が映える。
グンター、グートルーネ、ともに印象的であとあとまで残るものでした。良かったですね。
ここでいったん、幕。

第2場はワーグナーがストーリーを展開させるところ。忘れドリンク。
ハーゲンペーゼンドルファーの悪役っぷり、見事なモノローグ。滑るように第3場へ。
マイヤーの登場なんだが、頭のひと声デカい、姿見せず天井からものすごい声、PAかけすぎだと思う。オケコンサートで聴衆席から鳴らすバンダを探す客、みたいな雰囲気になりましたから。登場後はそれもおさまって、彼女の歌をじっくりと楽しめました。ここらへん、余計な心配せず、楽しむという事がポイントですね。
序幕では声が出ていなかったラング。この第1幕ではステージの前の仕切りの前まで出て来ての熱唱、圧唱。尋常でない激しさで、狂いっぷりの先倒しみたいなモード、激しい。

第2幕、合唱とオーケストラが圧巻。声がかたまって前に出てくる合唱の圧力。読響のびっしり詰まった正三角錐音場、双方絡まり、圧巻。
悪だくみ三重唱、お三方の位置関係がいいですね。途中幕が下りその幕の前で歌う。もう一度幕が開き、カップル×カップルの構図が出来つつも、見るところは別というストップモーションがビッタンコと決まりまくり、エンド。お見事。

悪だくみ三重唱、オペラの醍醐味満喫。ブリュンヒルデのラングはますます冴えてきて、もはや、狂気に両足を突っ込んでいる。鬼気迫るラング歌唱。エキセントリックな味わいが濃厚になってきた。第2幕、急カーブ、エキサイティング。


終幕。抜けるようなホルン。そしてすぐに、尾を引く様に第2幕のフレーズ。終わりそうで終わらない。
おとなしくしていたグールド、槍を突き刺されたところで、絶品の歌。二夜ジークフリートでブリュンヒルデが起き上がるあの目覚めの動機。対をなすかのように、ここであれが出る。
グールド、ここ一点、聴きごたえありました。スバラシイ。
ワーグナーの作為のストーリー、この2場のドラマチックな展開、息をのむような見事なシーンでした。

ブリュンヒルデの狂いっぷりは理想のジークフリートの堕ちた言動、それはドリンクを飲まされたことも含めた行動批判、やりどころのない怒り。果ては悪だくみへの自己嫌悪、そしてその先にある自己憐憫も感じていたのではないか。怒りまくったまま、腕を広げたブリュンヒルデで終わるカミタソではあるのだが。
おわり

もう2回観る予定。










2420- 藤田真央 ピアノ・リサイタル、2017.10.3

2017-10-03 23:24:37 | リサイタル

2017年10月3日(火) 7:00pm 小ホール、武蔵野市民文化会館

モーツァルト ピアノ・ソナタ第18番ニ長調K.576  5-5-4′
ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第32番ハ短調op.111  9-17′
Int
シューマン 暁の歌op.133  3+2+2+3-3′
リスト ピアノ・ソナタ ロ短調S.178  30′

(encore)
プーランク 即興曲 ロ短調  2′
ショパン ノクターン第20番嬰ハ短調 遺作  3′
プロコフィエフ ピアノ・ソナタ第7番 第3楽章  4′

ピアノ、藤田真央


藤田さんはこの3月に一度聴いておりまして今回二度目となります。
2289- 藤田真央 ピアノリサイタル、2017.3.10

前回が3月10日、今回10月3日のリサイタル。

今日のプログラムは本編が4曲、ともに違う作曲家のもの。アンコール3曲も合わせると全部違う作曲家。
お試し版なのかどうかわかりませんけれども、そんなこととは関係なくどれもこれも素晴らしいものでした。特に本編後半2曲、暁の歌、ロ短調、これらには惹かれました。グイッと。

リストのロ短調は形がわからないけれどもファウスト・シンフォニーのように聴き終わったら何やら主題は一個しかなくてそれの使いまわしで一見、無骨なテイスト。でも何故か魅力的。わざと粗野に見せているのではないのかと勘繰ってしまう。
藤田ロ短調は入りが自然でああ得意そうだなと直ぐに思う。下降する音形の流れがとても自然。リストのやや乾いた情感、そこにウェットな水滴をちりばめていく。ときに粒立ちのいい水切りの輪のような模様が浮かんでくる。少し埃っぽい隙間に水を差していくような気配。
同じようなフレーズが全部表情を変えて流れる。素晴らしい表現。振幅も大きい。申し分ないダイナミクス、曲が生き物のように動いている。
曲想の変わり目のギリギリ手前のあたりでテンポを落として、指を全部広げて掌返しのような形、小指一本でささえてなにやらマジシャン風な音が鍵盤から出てくる。あれは何という技ですかね。あの動きで音がナチュラルに奏でられるのだから練習の積み具合も山のようなんだろうねと思っちまう。

ロ短調の巨大さに感服。思えば前半のベトソナ32、激しい演奏でしたけれどもこのリストの前触れだったのかと。ユラユラと揺れ動くようなところがあった32。ざわつきとストレートな推進力。
一服休憩してロ短調の前に、暁の歌。
ベートーヴェンとリストに挟まれたシューマン。ジャストフィット。物憂げな中になだらかな野原を上り下るような呼吸。曲想とプレイが見事に一致にしていて伸縮もいい。何かを考えさせてくれるシューマンの5ピース。新鮮でした。

最初の曲、モーツァルトはこうやって並べて聴くとものすごくデリケートで神経を使う曲なんだろうなあとは思うけれども、これは肩の力を抜いて楽しめましたね。ピアノ・ソナタ全開で、全部聴きたくなった。魅力的なモーツァルト。

アンコール3曲含め、楽しめました。印象的なリサイタルでした。ありがとうございました。
おわり






2419- 角笛、ゲルネ、ワルキューレ1幕、フォークト、パンクラトヴァ、ツェッペンフェルト、ペトレンコ、バイエルン、2017.10.1

2017-10-01 23:35:11 | オペラ

2017年10月1日(日) 3:00-5:25pm NHKホール

マーラー こどもの不思議な角笛から  3-8-3-5-3-6-7′
 バリトン、マティアス・ゲルネ

Int

ワーグナー ワルキューレ第1幕  3+12+20+26′
 ジークムント、クラウス・フロリアン・フォークト(T)
 ジークリンデ、エレーナ・パンクラトヴァ(S)
 フンディング、ゲオルグ・ツェッペンフェルト(Bs)

キリル・ペトレンコ 指揮 バイエルン国立管弦楽団


1.ラインの伝説 3
2.きれいなラッパの鳴るところ 8
3.地上の暮らし 3
4.原光 5
5.むだな骨折り 3
6.死んだ鼓手 6
7.少年鼓手 7

メインプロのお三方はピッチを作りにいくところがあったかと思います。かたや前半35分におよぶ大きなプログラムを歌ったゲルネは出来ることを素直にしているようで、ある意味ストレート。自由奔放という事ではなくて、抑制の美学もストレートにという話。
合唱を含まない14曲中7曲35分をゲルネの判断した順番で歌唱。息をコントロールし尽したバリトンの美声。ラインの伝説を出始めに、最初の山場は兵隊物のきれいなラッパの鳴るところ。極めて注意深く縁どりされたオーケストラの伴奏のもと、両者同じ色合いで進行。
残念ながら気の利かないNHKは字幕を付けていないので1000円プログラムにあるリブレットを下目で見ながら。
最初から悲劇が想定される兵隊物3ピースはどれも味わい深い。印象的なタイトル2曲目は平地の広がりを感じさせてくれる。きれいなラッパの鳴るぼくの住まいは一体どこなのか、戦場か、死にゆくところなのか。抑制されたゲルネ表現からにじみ出てくるもの。吐露するかのような歌い口がまことに素晴らしい。乗り移ってますね。
ペトレンコ、バイエルンは伴奏越え、とうに忘れていたアンサンブルメインの演奏を思い出させてくれる。個を抑制し同じインストゥルメントが溶け込む。時折魅せるソリスティックなフレーズはゲルネ歌唱と同じであって、ここにもう一つの溶解がある。素晴らしすぎる。抑制された美学から誘導された表現は多種ならずともただ深い。両者の歌い口の出し入れは微に入り細に入り。もう、これだけで十分。兵隊物のアヤが出る。人生模様ですね。美しくも悲しい、味わいがよく出ていて、感動した。
次の、地上の暮らし、ここで死はもっとはっきりとしたものでドラマチックな悲劇。
一服おいて、原光。素朴とさえ言えそうなまみれていないラッパに導かれバリトンの美声が響く。ディープにえぐるようなところはない。表面(おもてづら)を撫でるような具合でもない。ゲルネのコントロールは指揮者オケと同じ肌ざわり。極めて考え抜かれたものが自然に流れ出る。フォルテ以下でさぐるような演奏はペトレンコのインスピレーションのようでもありナチュラルなタレントのようにも聴こえる。バイエルンは手兵という言葉よりむしろ一体化しているというにふさわしい演奏です。いやぁ、凄いもんですな。
切り替えて、むだな骨折り。なにやら少し明るくなった気がする。自分の肩も緩む。
兵隊物最後の2ピース。死んだ鼓手は投げやりな風景が明るく悲しい。これと最後の少年鼓手、ゲルネは作品以上の明確なコントラスト。伴奏も同じ。やっぱり、この表現力ですね。説得力ありまくり。6曲目で終曲が明らかに見える。悲しい予兆。ピースの繋がり、シーケンスがよく見えてくる演奏。素晴らしきゲルネ、ほとぼり冷めやらぬ。ペトレンコバイエルンの人工的ではない、忘れていたアンサンブルDNAをオケに気付かせ思い出させたようなマジックタクト。いい角笛でした。満足。


序奏 3
第1場 12
第2場 20
第3場 26

今回タンホイザーとジークムントを歌ったフォークトは昨年2016年、新国立でローエングリンを歌ったのを聴きました。
2124- ローエングリン、新国立劇場、2016.6.1

今回ヘルマンとフンディングを歌ったツェッペンフェルトは2007年のドレスデン国立歌劇場の来日公演で聴きました。演目は今回と同じくタンホイザー、役どころはヘルマンではなくビテロルフ。準メルクルの棒、コンヴィチュニーの奇抜な演出でした。
477- タンホイザー ドレスデン国立歌劇場 2007.11.17

フォークトは昨年の事なので覚えていますが、10年前のそれもビテロルフだとツェッペンフェルトの事は残念ながら覚えていない。居た記憶はあります。それともそのあと何かで見ているかもしれない。今は思い出せない。

今日のワルキューレの主役はペトレンコとバイエルン。ワイドレンジを競うのはもはや時代遅れ。霜降り、サシの脂肪成分は過ぎ去りしレガシー。ピアニシモからフォルテまでのアンプリチュードで波打つ演奏はデリケートで、むろんこの振幅でこそ表現できるうねりの実現性の実践。演奏しているほうも昔はこう演奏したこともあったということを忘却の彼方から思い出した。この潜在的DNAにペトレンコの棒は触れたのだと。
ウィンド4セクション、同列左にホルン。これら2段グループひな壇の後ろにブラスセクション。計3列。
正面から聴くとウィンドは強め、ブラスはこの強度に合わせた吹きとなっている。しもてホルン、かみてワグナーチューバ。これらブラス布陣は五月蠅くならずかき消さずのバランス配慮。アンサンブルとは他の楽器のことを聴きながらするもの。これをそのまま地でいっている。その気づきをさせて結実させたペトレンコ棒は見事というしかない。
ブラスの微妙な動きは、比較的大胆なウィンド、それにストリングに非常によく絡まる。この一体感のあるオケの演奏、もはや、ワーグナーも考えていなかったようなデリカシーで伴奏越え、ワーグナー越え、軽々と。
律動無しギトギト感無しだったタンホイザー、静謐であった。今日のワルキューレ第1幕の音楽は劇的なつくりではあるものの全体印象はタンホイザーと変わらない。

3人衆の歌唱も同じ方針で統一感がうまく取れている。
フォークトはデカいホールの空気をピシッと張りつめさせる。脂ギトギト感を求めてはいけない。違うものだから。
バックのオケはタンホイザーの舞台時のオケピットのうち半分ほどを使う勢いで手前に大きく迫った仕切り舞台に乗る。かなり手前にセッティングされている。でもオケサウンドはデカくない。このオケ前に歌い手。演奏に絡むように歌われるフォークトのジークムント。ヴェルゼトーンでもそれは変わらない。これが今風ワーグナーということだろうと思うところもある。それにもまして、ペトレンコの、かつてのブーレーズ&シェロー的なある意味意識された時代アンチテーゼ的な表現とは違った、無意識的な時代の先取り感覚、それは忘れていた過去の潜在DNAに触れられてアンサンブルを思い出したということだったかもしれないし、そんなこととは違った別の新鮮な感覚なのかもしれないけれども、いずれにしても、今無かったものをペトレンコによって得たという意識、触発させたもの、ペトレンコのインスパイアーがプレイヤー、歌い手、それぞれのインスピレーションを引き出した。このような一体感、同一方向性の純音楽的な表現というのはそういうことの結果であり、今起こっていることでもある。

繊細でデリケートな歌は次のフレーズのピッチを整えていく気配を感じるところもあった。あのような歌唱だと毎回限界ギリギリの神経をすり減らすことの連続ではないのかなと思ってしまう。芸術の極みは不断の努力の結果、その連続かと思うとぞっとしてしまう。聴衆で良かった。
ヘルデンテノールにもっている自分の印象というのはペーター・ホフマンがあごを引き気味にして本人はこれ以上ない強い歌でも全く五月蠅くならずむしろ強く歌うことは歌に芯を作ること、そのように聴こえてきたあの歌唱、比べるような話ではないのだけれども、フォークトに高望みするとすれば、その、芯なのかもしれないとふと思った。

ジークリンデのパンクラトヴァは方向感の一致は見事だがドラマチックなものが欲しい。ちょっと表現が平面的になってしまった。今回のようなスタイルの演奏でドラマを魅せるというのはこれまた至難の技に違いないとは思うものの、冒していい危険はあったと思う。

第2場のみの出番となったツェッペンフェルトの線は、今日のワルキューレに合わせたような太さだったと思う。別演目で、思う存分歌うところをもう一度聴いてみたい。インパクトのある役で。

ということで、ペトレンコのワルキューレ第1幕は速めの61分。気がつくと角笛とは随分と違っていたなぁと思った。伸び縮みのアゴーギクの世界は中心に無いと思うし、ある程度決めた型での進行。自分でフレームを作りながらもそういったことをあとあとまで感じさせないあたりはやっぱり、見事だった。


NHK音楽祭2017。前半後半歌唱のプログラムにもかかわらず字幕なし。日本語は縦に書くということを忘れているNHKには自分たちが日本人であることを思い出してほしい。
縦書きは字幕メリット大きいですよね。これは失敗企画。
それに、NHK音楽祭という名称はいかにも仰々しい。来日演奏団体のスケジュールに合わせた日付飛び飛びのイベントで隙間だらけ。音楽祭というのもおこがましい。諸外国にあるような、また日本国内でも多数あるようなフェスティバルのようにつながりのあるお祭りにして欲しいものだ。
突発性騒ぎではなくて。
おわり