河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2054- モーツァルトPfcon20、ブルックナー2番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.10

2016-02-10 23:28:15 | バレンボイムSKB ブルックナー

2016年2月10日(水) 7:00pm サントリー

モーツァルト ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466  14′9′7′
       (カデンツァ:ベートーヴェン)
Int

ブルックナー 交響曲第2番ハ短調WAB102  17′13′7′15′
       (ノヴァーク版第2稿(1877、キャラガン校訂版))


ダニエル・バレンボイム ピアノ、指揮
ベルリン国立歌劇場管弦楽団


あまりの素晴らしさに声も出ない。
あまりに美しくあまりに激しい。ブルックナーその真髄の全てを魅せてくれました。こんな素晴らしい演奏聴いたことがない。生身のブルックナーが一気にその姿を現しました。

再現部のほうではなく提示部第1主題1s終わり際、第2主題2sにブリッジするティンパニの3個のピアニッシモ。まるでジークフリートの死の開始!、いきなりの音楽表現にカタルシスの真髄を魅せられて脳天に杭を打たれたようにしびれました。まさかバレンボイムの創作ではないのだろうかと思える様な、もうこの時点で既に神経麻痺。
2sではなくジークフリートの死が始まってもおかしくないような雰囲気の中、昨晩の1番とは異なり、その2sは1sと同じようなテンポで進んでいく。2番はパウゼが多用された作品で、その空白の意味合いが大きくて、空白イコール切り替えみたいなところがありその意味の大きさがあればこそ、テンポ感でメリハリをつける必要もない。ブルックナー作品の極意を極めたバレンボイム棒がいきなりその真価を魅せてくれる。
2sの音楽の美しさはこのオーケストラが全てを語ってくれる。静かで美しい。冷静な心の美しさ。それは束の間かもしれないけれどもブルックナーのもう一つの世界がよく見えてくる。
第3主題3sは1sの快活さをもっとストレートにした感じで、1sの原始霧から放射されるようなパースペクティヴに対し、リズミックな爽快感が場を支配。縦に刻まれたリズムが極めて前進性を示す中、怒涛のブラスときしむ弦。
もう、この提示部を聴いただけでギヴアップ。
展開部のあやは深く妖しい。3個の主題の混ぜ合わせ進行が味わい深い。バレンボイムの雄弁な指揮には唖然とする、ほれぼれする。それに微にいり細にいりすべてに生き物のように反応していくオーケストラ。アンサンブルの表現のふくらみ、絡まるような統合体としてのオーケストラサウンド、これぞムジツィーレンと掛け声のひとつでも発したくなる。見事な演奏だ。
そしてパウゼ切り替えで再現部へ。
提示部とは微妙に異なる手応えで、1番の爆発を思い出させるようなコーダの中、ここはまだ最初の楽章よと抑制の美学も魅せつつ打撃音静止。
1s、2s、3sの深さ、バレンボイムはこの作品も昨晩の1番同様、完成品として向き合っている。
美しくも激しい音楽が作品の巨大さを教えてくれた。すごい演奏。

次のアンダンテ楽章、二重変奏曲、明白な形式感はさらに顕在化する。澱みない清らかな美しいハーモニーが一音ずつかみしめるように進行する。この美しい音楽は祈りのようにも聴こえてくる。オーケストラの能力の高さが曲を押し上げてくれる。第1楽章でもそうだったがこの2番、あまりテンポで揺れを作っていくことのないバレンボイム棒、この2楽章でも各主題の平衡感覚がお見事ですね。いつまでも終わってほしくない楽章。ブルックナーの緩徐楽章に見られるコーダ前の爆発は無いに等しく、静かに静かに噛みしめながら美しいピアニシモエンド。清らかだ。

スケルツォ楽章、ここはなんといっても、判で押したスケルツォの再帰のあとにグッとパウゼでタメを作った後のスケルツォコーダが異色の盛り上がりを作ってくれます。
スケルツォのトランペットファンファーレはちょっとギクシャクした音楽な部分がありますけれどこのゴツゴツ感もブルックナーで、コーダですべてを解決させてくれる。
それと糸をひくような弦の響きが瞑想的で美しいトリオ、バレンボイムの切り替えの見事さが光ります。素晴らしいトリオ。

終楽章はリズミックさが際立った楽章で、ご近所の若者とその近くの初老のご婦人が二人そろって体を揺らしている姿が目障りにならない。
ホールを撫でる様なサウンド刻みで前進していく音楽。パウゼはさらに多用されてくる。切り替えの山のような楽章でもある。バレンボイムはそのパウゼをかなり強調した振りで、音楽をストップさせるような空白を生むが、終わってほしくない音楽がそれによって息を吹き返すみたいなところがあって、音楽の生成を何度も感じる。これも見事な棒と言える。
このような展開部を経て、これまた明確に区切られて再現部へ。昨晩に続きハ短調の交響曲、大詰めコーダではハ長調になりスキッと抜ける様な爽快感の中、強烈でしつこいぐらいの刻みが何度も波状攻撃のようにクラッシュする中、ヒート感満載になりながらエンディング。バレンボイム棒はメラメラと燃えるにはまだ早いのかもしれない。このコーダのギアチェンジは見事だけれども没我の音楽ではない。造形の美学がまさっている演奏と言えよう。

2番は自分が持っている19種の音源の中では、今日の演奏はホルスト・シュタイン&ウィーンフィルのを激しくしてアンプリチュードの幅を広げたような演奏であったかもしれない。
とにかく、この作品の巨大さをものの見事に表現してくれた素晴らしい演奏でした。すごいもんです。


バレンボイムの弾き振り、それに一体化したオーケストラの反応、モーツァルトさんを見たことは無いのでアレですが、さすがにこれは彼も真似が出来なかったのではないかと思える様な見事なアンサンブル演奏で。
思うにモーツァルトは色々とあったでしょうが作曲しているときの心というのは書道とまではいかなくても手紙でもなんでも文章、文字を心乱されずに書くときの平静な構え、それが出来ていたと思います。そうゆうことを深く感じさせてくれる演奏でした。第2楽章のポツポツと空白の中をたどる均整のとれた音の粒を聴いているとモーツァルトの内面の声を聴いているような気持になってきます。
バレンボイムは同じく空白をたどるようなオーケストラ・アンサンブルが自らのインストゥルメントを膝に置くときでさえ、弾きながらプレイヤーをよく凝視します。凝視しながら弾く。この音を聴け、モーツァルトの声だと思って。そう呟きながらの弾きのようで、美しくも平静な音楽が見事に奏でられて、世の中、これ以上は無い。
前日同様ホールの音響問題はありますけれど、この2楽章の静謐さは何物にもかえがたい。バレンボイムがモーツァルトの中に入り込み、内面の声を具現化したような演奏でした。

全楽章通じて最良で全く妥当なテンポ、決して乱れることなく、余計な動きをせず、裸の実力がもろに出てきますね、モーツァルトの恐さですか。
終楽章の快活な音の粒立ちの良さはバレンボイム自身のピアノが今も好調であることを示しているような気がしてきました。このニ短調の作品はバレンボイムの弾き振りでモーツァルトのストイックな一面、それに作曲するときの姿勢、そのようなことを大いに感じさせてくれた演奏でした。見事というほかない。

ということで、二日目。
この日も素晴らしい演奏、ありがとうございました。
おわり