河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2068- イェヌーファ、新国立、プレミエ、2016.2.28

2016-02-28 23:27:25 | オペラ

2016年2月28日(日) 2:00-5:10pm オペラパレス、初台

新国立劇場プレゼンツ
レオス・ヤナーチェク 作曲
クリストフ・ロイ ニュー・プロダクション
Originally produced in Deutsche Oper Berlin at 2012

イェヌーファ

キャスト(in order of appearance(たぶん))
1.コステルニチカ、 ジェニファー・ラーモア(Ms)
2.イェーヌファ、 ミヒャエラ・カウネ(S)
3.ブリヤ家の女主人、 ハンナ・シュヴァルツ(Ms)
4.ラツァ・クレメニュ、 ヴィル・ハルトマン(T)
5.ヤノ、 吉原圭子(S)
6.バレナ、 小泉詠子(Ms)
7.粉屋の親方、 萩原潤(Br)
8.シュテヴァ・ブリヤ、 ジャンルカ・ザンピエーリ(T)
9.羊飼いの女、 鵜木絵里(S)
10.村長、 志村文彦(BsBr)
10.村長婦人、 与田朝子(Ms)
11.カロルカ、 針生美智子(S)
合唱、新国立劇場合唱団
管弦楽、東京交響楽団
指揮、トマーシュ・ハヌス

(duration)
ActⅠ 44′
Int
ActⅡ 50′
Int
ActⅢ 31′


男二人のことはよくわかりませんが、シュヴァルツはフリッカで、カウネはアラベラで、ラルモアはロッシーニ、という感じで、自分の記憶に刻まれているわけです、まぁ、よく揃いも揃いましたね。年齢シーケンスも幅にちょっと難あれど役どころの通りとなっていますね。

このプロダクションは2012年に同クリストフ・ロイがドイツ・オペラ・ベルリンでお初披露したもので、2014年再演、そして日本に持ってきて今回、初台での「新制作」となったものとのことです。新国立のプログラムでは「ニュー・プロダクション」と英訳していますけれど、それは新国立の中だけの話となりますので、誤解される可能性がありますね。ベルリンで見た人は今回初台で観て、ニュー・プロダクションとは思いませんし。
初台のキャスティングはシュテヴァ役のザンピエーリ以外はベルリンと同じとのことです。(5人についての話ですね。)
よく揃いました。


音の前に幕が開く。音楽が始まる前に動きがある。コステルニチカ役のラルモアがいきなり出てくる。音楽は始まっていないので声も無い。始まっても彼女の歌はしばらく無い。
イェヌーファとおばあさんの会話から始まる。この最初の一連のシーケンスではコステルニチカは影のような存在だろう。

おばあさん - お母さん - 娘

これを最初に強くイメージさせる見事な演出だと思いました。音楽の前に動きがあるというのは、また、昨今はやりの、過剰演出がちょっとだけ脳裏をよぎりましたけれども、構図を見ているとなるほどと納得しました。
また、このオペラには観るうえで理解必須の前史があります。原作のプライソヴァーさんの物語は読んだことがありませんので、プログラムのあらすじに、比較的濃く前史のことを載せてくれているのは大変に良いことと思いました。

上の方から観劇しましたが、舞台は全幕通してシンプルなもので、左右、横幅の移動はあるが、上下は無く、奥行きもない。高さはこの高い舞台の半分も使っていない。また、この深い奥行きのある舞台のうち手前10メートルぐらいも使っていないのではないか。それ以外は真っ黒です。
小さくてコンパクトな舞台、席位置により観づらいのではないかという話にもなりかねませんが、じゃ、観やすい席で何か見えるのかというと、それもないと思う。特に何もないのですから。要は部屋の中での出来事メインで、むしろ、その閉塞感を出すための演出効果であると思いました。スペース的にも色彩的にも閉塞感の強いものです。部屋は横に広がったり縮まったりして、また終始明るい色彩が強調されていますので部屋以外全部黒とのコントラストが目に焼き付き、目に残像がずっとある感じ。


発話旋律、旋律曲線とは何ぞや、全くの不勉強で何もわかりません。言葉の意味と発する人の心の動き、そのようなものを自分の音楽にとりこんだということでしょうか。オペラに当てはめるとどうゆう話になるのか。全くの不勉強で。
オーケストラの旋律は伴奏ではなくて、声と同じウエイトで主張しているようだとは思いました。音の調による陰影はなかなか認識できない。調はあるのかという感じ。音楽がそれ自身で陰陽を過度に表現するのではなくて、自然なアクセントの声、会話を主体とした声の流れに音を、音楽が会話をなぞっていく。でも、あわせて別の声としての主張をしていく。そちらの方が色濃く出ているように思えましたけれども。まぁ、伴奏の域は越えていて、このオペラが会話だけで成立するかと言えば、一度このようなものを観てしまえば、もう無理と感じてしまいます。調和としての調はあまり感じるものではありませんでしたが声としての音ですね、感じるのは。
歌の後に音が出る感じ。
あと、字幕でしかわかりませんけれども、会話の言葉の意味が深い。意味のある言葉が出てくるので、ここらへん、ひとつずつの言葉をしっかりと(字幕を見て)頭の中に入れていかないといけないと強く感じました。

伴奏を軽く超えた主張の音楽の響きは、細かな刻み、何種類も何層もある音の刻み、等価音符のものもあれば、符点のものもある。リズムは執拗で、これら刻みは心の動き、心理状態をよくあらわしている。登場人物が複数であれば一つの音楽表現でそれぞれの人の心の動きを表すのは難しい。状況、シーンを表現しているといえるところもあるわけで、その両方を見事に表現していると言えるのかもしれない。
細かなリズムに呼応するかのように、シームレスな音の流れが曲線ストリームで流れる。ドライなリズミック旋律の合間であればそれはただ流れているだけでなく対としての自然なウエット感を思わせてくれるとこともある。
リズムと流れ。
マルティヌーの作品は、これは昔から書いていますけれども自分としてはミニマル風味を感じるところが多々あってそのような聴き方をすると飽きないというところもあってか、またウエットなあたりのところも顔を出したりしてフィリップ・グラスの音楽をいつも思い出してしまうのですが、音楽語法的に根差しているものは別のところからのものと思うので、実現されたものは割と同じに聴こえたりするものもあるものだ、と、結果距離の近さを感じたりします。そのマルティヌーは比較的聴き込んでいて、今回、このヤナーチェクのオペラを聴いて、マルティヌーとの近似性を感じた。強調路線のあたりは、マルティヌー越えのグラス・モード的な部分も。


1幕でのラツァによるイェヌーファへのナイフ。オペラ台本としての物語の起点。
2幕での赤ん坊事件と解決。この幕が一番長い。
3幕は赤ん坊事件の真相と慎ましやかな結婚祝いと決意。

2幕は長くて、ラツァとイェヌーファは予定調和以上に解決モードになっているので、3幕での劇としてのドラマチックな部分は薄まっていて、コステルニチカを中心にした心の動き。
そのコステルニチカについてはその3幕よりも2幕での弁。イェヌーファに、シュテヴァが金でけりをつけたいとか、傷物は嫌だとか言っていると、それは1幕、2幕前半に出てきた事実の内容であるにしても、ストレートに言い過ぎで、事実をありのままに言うことによる責任回避と自己弁護を強く感じる。ましてしゃべっている相手が娘なのに、と。
こんなことを娘には言わないのが普通の姿だと思うし、やっぱり、コステルニチカはそのような女、と、ロイの演出でも彼女のウエイトが高いことを書いてあるので、それはそう感じる。
言葉で傷つけるのは思ったよりイージーに出来るのかもしれない、コステルニチカほど自己愛が強すぎなくても。娘に対しても。

ペトローナ(コステルニチカ) × トマ
イェヌーファ × シュテヴァ

この悪い流れをコステルニチカはデジャヴュとしてイェヌーファのシチュエーションに感じる、これは原作の構図でしょうし、ロイの演出のインタビューにある通り、やっぱり、コステルニチカのウエイトが高い演出ですね。第1幕、音が鳴る前に彼女が出てくるのはよくわかります。いろんなセリフ、彼女がいう言葉が一番重いですね、全幕にわたり。

この2幕の登場人物は4人だけ。

コステルニチカ
イェヌーファ  ×シュテヴァ   ○ラツァ

場面転換はないが、
・イェヌーファの赤ん坊生まれ、
・コステルニチカがシュテヴァを説得、
・コステルニチカの赤ん坊事件、
・イェヌーファの失意
・ラツァのイェヌーファへの求婚
・コステルニチカの苦悩

といった流れで4人による心理劇が50分にわたり展開される。このオペラの白眉。
聴きごたえあるのは、イェヌーファの独唱アリア。カウネの圧倒的な声量と寸分の狂いもないきれいな斉唱、彼女が歌えばそれだけでドラマチックなものとなる。歌詞内容に完全に同化した劇的な歌はお見事。何も言うことは無い。

終幕は、パウゼが効果的に緊張感を高める。特に、民衆がイェヌーファを赤ちゃん事件の犯人として攻撃する中、それをとめるラツァの一言、そしてパウゼ。長い空白でした。劇がぐっと緊張感をはらみました。
コステルニチカ役のラルモアがその透明感あふれる声で赤ちゃん事件の真相を告白。
そして、ラツァとイェヌーファのエンディング、カウネの圧倒的に劇的なリリコスピントが山を作り強烈にスーッとあっという間に高みへ、両名後ろ向きに進行しつつ、オーケストラはここにきてものすごい盛り上がりとなり頂点に達し、幕。
この幕は、劇、歌、ともにオペラティックなほうが勝っている幕。ドラマとしての劇性は2幕の方が頂点で、この3幕ではおさまりつつある劇性をオペラとしての音楽でカバーしていると感じる。


シュヴァルツは昔のように滑らかで声量も豊か、カウネはドラマティコの勢い。このお二方の声量は桁違いですね。
ラルモアは声量で聴かせるのではなく透明感。きれいに響く。この役どころにジャストフィットかどうか、ソプラノ役をメッゾが歌ったという部分もあります。役としては別の歌手でのコステルニチカも聴いてみたいとは思います。このオペラでは一番キャラクター的要素の濃い役ですからね。歌い手によるバリエーションも楽しめそうな役どころです。

男2人はどうか。
切り付け役のラツァは最初、白のアンダーシャツにサスペンダーといういかにも20世紀オペラ演出風味満載の格好で出てきました、これは演出ですので歌とは関係ありませんが、まぁ、男側の主役という感じはする。
このラツァ役、ヴィル・ハルトマン、本日一番の拍手でカウネ以上でした。自分としては女3人衆のことばかり聴いていたので、よく聴いてなかった、と思う。
シュテヴァ役のザンピエーリは身体の割には比較的俊敏に動く。息も切れていない。ジークフリートをたくさん歌っていますね。今回はちょい役レベルだと思われます。

新国立の合唱は強靭で、このオペラをグッと引き締めておりました。

指揮のハヌス、大柄です。もちろんこのオペラの専門家と思われます。
東響を鳴らしてドライブする指揮はあまりにも素晴らしくて、あの刻みとストリームの表現の多様性と正確な作り。ダイナミックにして滑らか。パワーとデリカシー。完全に応じるオーケストラ、いうことありません。秀逸な演奏となりました。

以上、このような、世界最高峰のキャストと内容の上演を、プロのレヴュアーが即日、英語で発信できる仕組み、システムが国内にあればいいですね。残り4回の上演。はせ参じる人も多くなるに違いないと。

本日は素晴らしいオペラをありがとうございました。
もう一回ぐらいは見たいですね。
おわり