河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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2063- ブルックナー8番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.18

2016-02-18 22:45:49 | バレンボイムSKB ブルックナー

2016年2月18日(木) 7:00pm ミューザ川崎

ブルックナー  交響曲第8番ハ短調WAB108  17′17′27′24′
        (ハース版)

ダニエル・バレンボイム 指揮
ベルリン国立歌劇場管弦楽団


ざっくり書くと、サイードとのトーク本にもありますが、バレンボイム9才の1952年にザルツブルクでマルケヴィッチによる指揮クラスを受けていて、クラスのコンサートでピアノを弾く、そして、フルトヴェングラーFのオーディションを受けたらどうというエドウィン・フィッシャーの言でFに会いテストされ、Fからベルリン・フィルと共演しないかと持ちかけられたが、戦後まもない時代で、ユダヤ人家族、共演困難で、Fは色々他の指揮者たちに手をまわしたし、1954年のカラー映画ドンジョのリハなども見ていて、バレンボイム自身、Fへの共感、理解は相当深い。
Fはその1954年に68才という若さで散ったが音楽シーンでは知る人たちが多くいたわけで、かなり詳しいし共鳴度も他を圧倒的に凌駕している。
平衡に至るにはパラドクスと極端さが必要、カタルシスを音楽で達成するには極端さがいる。テンポのゆらぎの意味、並外れた強弱。といったF哲学はFが書いた本を読むしかない、それと残された録音。Fが書いた本を丹念に読み進めていくうちに、録音を聴いていくうちに、あらゆる指揮者が行おうとしていることをFはすべて内包しているように思えてくる。換言すると、この指揮者はこうだ、別の指揮者はこうするといったスタイル、それはFが行っている表現の一つずつでしかないと思えてくる。
まぁ、見た目の指揮も含め過激で極端過ぎて叩かれやすい部分もあるわけですが、同じような指揮者にチエリビダッケなどもいて、またバレンボイム自身も同じ目にあったりと、でも彼は彼らと同じ範疇にはいることを誇りに思っていると語っているので、そもそもの同質性の高さがうかがわれるわけです。
ちょっと付け加えると、このサイードとのトーク本はほかにも面白いところが山盛りで、ワーグナーのアコースティック、ワーグナー自身が考えて実現したアコースティックですね、もちろんテンポや厚さも含んでの話になりますが、ここらあたりは面白さの白眉ですし、この部分にFの話は出てきませんが、F哲学を完全に理解し意識したトークのように感じる。
ワーグナーの上演に関しては「バイロイト」のパルジファルの話が、アコースティックも含め興味深いものです。

それで、沈黙から始まって沈黙に終わる一連の行為は一度しか現れない。同じ作品でも毎回異なるもの。そんな話が色々とあるわけですね。

8番フィナーレ弱音導入から爆発アウフタクトで始まるコーダ、全く肩の張らない気張らない何かするっと入っていく殊の外すんなりしたものでした。すんなりしたバレンボイム棒の通りにオーケストラがやったという感じ、この日は。
クライマックスのコーダはどこからかという話は、この前(2016.1.21)聴いたミスターSの同曲の演奏会感想にも書きましたけれど、終楽章のコーダはここのところからと思うのですが、全曲のコーダはその前、再現部最終の第3主題3sが奏している中、突然、第1楽章第1主題がフォルテッシモで中断炸裂する箇所、あすこではないかと思うわけです。全曲のコーダというのは妙な言い回しですが、バレンボイムの棒を観て聴いてその思いを改めて強くしました。
4楽章のコーダは7番同様ハイな速度でもっていきました。Fはこれをもっと過激にしたものですがスタイルとしては同質ですね。バレンボイムは最後少しテンポ緩めますが、このあたりは現代の聴衆の雰囲気を皮膚感覚で察していることによる配慮ではないかと感じます。1番からずっと聴いてきて最後の一音の念の入れよう、押しの強さはそれまでの音価レングスに比して計算に合わない長いものとなっているのは、だまらせる意味合いもあるのではないかと思えるふしがあります。まぁ、あの、なで斬りとなったミスターSの圧倒的短さはこれはこれでスタイルですね、十分な。


今回のブルックナー全集大体同じような音の入りです。どの楽章のどの主題でも一音目が柔らかい。アインザッツとかアタックといったことを思い起こさせるような世界とはかけ離れているもので、というよりもそのようなものを意識して排除しているように聴こえます。長年同じコンビでプレイしているし、指揮者、オケどちらがどうだということもないような気がしますけれど、両者同じベクトルであることは間違いない。非常に柔らかく入念にアンサンブルとしての周りの音を聴きながら入る、全員そうですからこのアンサンブルの凄さは帰結のように聴こえてくる。凄いもんです。経過句も同じように推移していくので、しびれっぱなしです。
ここらへん、前よりも入念さが増しました。全体的に極端にスローなテンポでもないのに、全曲にかかる時間が比較的長めなのは、この入りの入念さが増したからです。この一音目の大切さは、音楽は沈黙から始まり、そのことの連続、そしてまた沈黙がくる。バレンボイムの言を俟たずとも明確にわかるところでもありますね。
音楽はなにかの表明でも存在でもない、生成であって、どのようにしてそこに至り、どのように去るのか、あるいは、どのように次のステップにトランジットするのか、そういったものだ、Fの言葉の通りです。

音の浸透、と自分では感じています。十分な時間とか深さとか色々と思い浮かびます。


この日は、一連のブルックナー演奏をしているサントリーホールではなくミューザ川崎。とぐろを巻いたような妙なデザインの客席、3階の横位置で聴きました。観づらい席で失敗買いでした。音はきれいに、よく響いてきました。
客席は85~90パーセントぐらい。フライングではないが余韻を楽しめない早めの拍手、このせっかちな拍手、なんだか、感動の拍手というより、曲や演奏の中身に関係なくぞんざいな拍手のように聴こえました。これまでのサントリーでの拍手とは少し違っていました。

8番の保有音源は95個です。
おわり


2062- イル・トロヴァトーレ、二期会、バッティストーニ、都響、2016.2.18

2016-02-18 18:00:00 | オペラ

2015年2月18日(木) 2:00-4:50pm 東京文化会館

東京二期会プレゼンツ
ヴェルディ作曲
ロレンツォ・マリアーニ プロダクション

イル・トロヴァトーレ

キャスト(in order of appearance)
1.フェランド、清水那由太(Bs)
2.レオノーラ、松井敦子(S)
2.イネス、杣友恵子(Ms)
3.ルーナ伯爵、成田博之(Br)
4.マンリーコ、城宏憲(T)
5.アズチェーナ、中島郁子(Ms)
6.ルイス、大野光彦(T)

二期会合唱団
東京都交響楽団
指揮、アンドレア・バッティストーニ

 

(タイミング)
第1幕 28′
第2幕 41′
Int
第3幕 25′
第4幕 39′


やっぱり、前作のリゴレットに比べて物足りない作品。ドラマチックなものと静寂、悲哀、のあたりですね。
重唱、ソロ、聴きごたえありました。みなさん非常に大きく通る声でクリア。直前で2人ほど歌い手の変更があったようです。
舞台はシンプルです。緞帳を本来の役目としての幕とストーリーの上での役目と両方にあてているのが印象的。
指揮のバッティストーニは、終始舞台を観ながらの指揮でオペラ棒です。
歌い手たちのフレージングまでコントロール、オーケストラをドライヴする。ただ、歌わないオケで、バッティストーニは大きく腕を広げながら促すも反応がない。テンポのドライヴにはついていっているのにと少々残念。
おわり