河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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2053- モーツァルトPfcon27、ブルックナー1番、バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリン、2016.2.9

2016-02-09 23:57:30 | バレンボイムSKB ブルックナー

2016年2月9日(火) 7:00pm サントリー


モーツァルト ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595  14′8′9′
       (カデンツァ:モーツァルト)
Int

ブルックナー 交響曲第1番ハ短調WAB101  12′11′8′13′
       (ノヴァーク版第1稿(リンツ稿))


ダニエル・バレンボイム ピアノ、指揮
ベルリン国立歌劇場管弦楽団


久しぶりに観るバレンボイム&シュターツカペレ・ベルリンの味わいは深くて格別。
今回の来日公演は来日団体としては日本演奏史上初のブルックナー交響曲全集。弾き振りでモーツァルトのピアノコンチェルトが演奏会レングスに合わせ随所にフィッティングされており、プログラム・ビルディングを眺めるだけでもエポックメイキング的。と言っても彼の場合、来るときはリングサイクル×3回とか、だいたいエポックメイキングな集中攻撃なのですが。


バレンボイムが振る後半プロのブルックナー1番は完成品という印象が強い。既に確立した作品に独自のニュアンスを色々と加味していてさらに作品自体の偉大さを高めているようにさえ感じる。
3主題の切り分けが実に克明でクリア、主に主題毎のテンポの大幅な相違がまずそれを感じさせる。第1主題の快活さ、第2主題はぐっとテンポを落とし、しなやかさよりもハーモニーの清涼感、そしてうねり、部分的にワーグナーフレーバーを大いに感じさせつつ、過激ではないが相応なアチェルランドで第3主題のブラスの咆哮、ここらあたりまでくるとテンポのことよりも極端なダイナミズムによるパースペクティヴな世界に引き込まれクラクラする。完成された作品に対する色々な出し入れはショートな経過句でさえ味わい深く感じるようになってくる。まぁ、彫が深くてディープで濃い演奏。
ブルックナーでは譜をめくりながらの演奏だが前半のコンチェルトの時と同様撫でる様な棒捌きは独特で音楽との連動を強く感じさせつつオーケストラとの一体感を思わずにはいられないもの。
第2楽章の弦は聴きもので黒くて淀まない響きは独特、透明な沈殿物が川底に沈んでいるようなおもむき。また前記楽章第2主題との親近性を感じさせる解釈でベースの動きを中心にワーグナーモードになったかと思えば、高弦の繊細な歌わせ方、形式感の上に乗りつつ作品の深みを表現していく進行は味わい深い。そんななかウィンドのほのかな明るさとアンサンブルはブルックナーの安息を感じさせてくれる。コーダからしぼんでいく様は唯一、まだ1番なんだということを思わせてくれる素朴な作品と感じたところ。
この楽章はこの日のバレンボイム棒では、第1楽章よりショートなタイミングとなっており、自分が持っている22個のブル1音源には無いもの。4楽章全て相当飛ばした演奏でしたがこの楽章は特にスピーディー。あまりそういうことを感じさせない深彫り感に気持ちが集中していくような濃い演奏でした。

1,2楽章で既にワーグナーが顔を出しておりましたし、3楽章以降はもうそんなことはどうでもよくなってしまい、何も考えず音を浴びるフィーリングで。
この3楽章はプログラムの解説にもありますけれどモツ40やシュベ5のスケルツォ楽章と雰囲気似ています。もっともっと爆発系だとは思いますけれど。
撫でる様なバレンボイム棒のなかによく見るとリズムを刻みこんでいっているのがわかります。反応するオケの刻みは深くモツシュベのような快活さも確かに感じさせてくれますね、音楽をやっているという実感。
あっという間の出来事で簡素なトリオもスケルツォの再帰も終わってしまう。

終楽章は1,2,3楽章をまとめてさらに爆発させた演奏で、モードは1楽章と同様な表現、ゲネラルパウゼの強調がここでは印象的。初期の作品越えで完成品の体現とこうゆうところでも感じるわけです。ブラスのコントロールが凄いですね。
展開部は手応え実感、形式のバランスは相応にいいものだとふと思う。再現部への切り替えの見事さは指揮者が形式感を感じているのは明白で、コーダからアチェルランドしてGPを強調しつつ登り詰めていって爆発エンドまでのプロセスは冷静な中にチリチリするブルックナー表現となっている。
あっという間の出来事でしたけれど、静けさと爆発、呼吸と流れ、色々と感じさせてくれる素晴らしく多様性にとんだ演奏でした。
よく言われるFとの近似性については、Fがブル1を振ったことがあったのかどうかはわかりませんけれども、信念が上か音楽が上か、換言すると思い込みが上か音楽が上か、微妙なところですがバレンボイムにおいては音楽がバランスしているという思いは感じるところではあります。ここでは、まだ、ブル1だから、と。


後半がブルックナーの1番、前半はモーツァルト、ラストのピアノコンチェルト。番号絡みのオペレーションは無いと思います。
いい演奏でした。バレンボイムの心の落ち着きが見えてくるような表現でした。

弾き振りですのでプレイヤーたちが指揮を見やすいようにピアノの蓋をはずしているわけですが、このホールいたるところの位置で観聴きしてきた経験でいうと、あらためてこのホールはピアノにとっては風呂場サウンドでところによりガラスの割れたような響きがしたりで良くないということ。以前どなたかの演奏会でピッチがずれているように感じたことがありましたが、そのときは自分だけでなく他の方々も同じように感じたということがありました。どうも落ち着きのない音響で、そこだけとるとあまり魅力のある響きホールではない。この日みたいに蓋を取っているとそのようなことをさらに実感しました。

バレンボイムの弾き振りは手慣れたもの。かれこれ半世紀ぐらいこれやっているわけで。
ベートーヴェンのコンチェルトの弾き振りも聴いたことがありますが、ちからの入れ具合、加減などどれをとってもお見事。それにこのオケとの結びつきも四半世紀におよび、このスタイルの演奏会も板についたものでしょう。プレイヤーたちがバレンボイムの振りを凝視する姿は、オレにはあれは出来ないという思いもあるのかもしれませんね。才能にひれ伏すというか。N響なんかもそうですが、才能にひれ伏すといい演奏が出来る団体というものはあるもんです。

スッキリした作品でピアノの独白に耳を奪われます。音の粒がひとつずつわかる感じで、実にコクがあって味わい深い。

閑かさや耳にしみいる音の滴。
しずかさやみみにしみいるねのしずく。
(少し拝借)

ラルゲット楽章は静謐、心の落ち着きを音楽で体現している。ポツポツとぶれない音、隙間を感じさせない、音楽がつながっていく感じがいい。モーツァルト、シンプル・イズ・ザ・ベスト。Fが言った偉大なものは単純である、の順序逆。再創造する声とモーツァルトの創造する声の違いがここにはある。
Fはバレンボイム幼少時のピアノ演奏を聴いたことがあり、個人的にも殊の外、一連の歴史のつながり的なあたりのことは興味深いもの。
バレンボイムがズーンと左手を響かせると、それにしもてのベースがズシーンと応える。このシンクロされた演奏は、弾き、振り、オケ、三位一体の最良のコンビネーションを感じさせてくれる。
自分の中に27番が刻み込まれました。いい演奏でした。


モーツァルト、ブルックナー共通するのは遠いかなたの憧憬のようなものではなくて、リアルで現実感あふれた演奏であったというのが全体的な印象。
ゲルギエフやレヴァインなんかもそうですが、演奏会やオペラ上演が彼らの栄養源みたいなところがあり、リアルな現実感もそういったあたりから強く感じる。

あと、バレンボイムで思うのは、この指揮者はにやけない。日本の指揮者たちを観る機会が個人的に多くなりまして気になるのがニヤニヤにやけながら振る指揮者たち。そこ、いいね、満足よ、といった意味合いもあるかもしれませんが、バレンボイムの代弁でいうと、あなたがた満足するのは1000年早い、そう言っているかもしれませんですよ。ニヤケル前にすることたくさんあるでしょう、と。

今回の有料プログラムは1500円。内容的にはオリジナルな内容が割とあって、リーズナブルなものですね。冒頭にお偉いさんのごあいさつから始まるプログラムはあいかわらず日本的冊子物の順序で苦笑物ではありますが。
おわり