河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1027- マーラー炎上 こんなのあり? 超高速71分爆演 マーラー 交響曲第6番 悲劇的 ウラディミール・アシュケナージ N響 2010.6.16

2010-06-18 00:56:21 | インポート

2010年6月16日(水) サントリー

マーラー 交響曲第6番 悲劇的 20-14-11-26

ウラディミール・アシュケナージ 指揮 NHK交響楽団

このような激しい演奏は聴いたことがない。第1楽章提示部はリピート、第2楽章、第3楽章をひっくり返し(これは超高速にはあまり関係ない)、そして第4楽章の序奏に5分たっぷりかけている、のに結果的には71分の圧倒的ハイスピード。なにかが剥けたのか?
アチェルランドもリタルダンドもない、‘タメ’と歌を全て完全に排した演奏、音符音価を延ばして作るようなタメではだめなんだ、スコアの中の正しい音価の中で作り上げる表現こそこの音楽の全てなんだ、そのようにアシュケナージが言っているようだ。いわく、全てアチェルランドであったと言えるかもしれない。

アシュケナージのオーケストラのドライブは圧倒的であり、すべてを掌握しているというよりも、ただひたすら駆り立てる。ドライブのためのドライブのようでもあり、このように完全に意識された確信犯的猛スピードの演奏からはたして何が生まれてくるのか。

美しさを排しているわけではない。でも、しゃくり上げ、ぶつけるようなアインザッツに揃いも不揃いもない。ただただグヮングヮンと進む。
N響の美しさは圧倒的であり、7プルトまで拡がったストリングはマーラー独特の大きく弧を描くような美しさを見事に表現、耳を見張る。ウィンドのハーモニーはこの息せき切った演奏においてさえ冷静さを失わない。ブラスは今日は異常に大変な一日であったことだろう。次々と過酷なまで押し責める棒、それに完全に応えるブラスセクション群の抜群の安定感。
パーカッション群、ハープ、カウベル、ハンマー、ムチ、、、、
総動員でした。


もしかして、6番ってこうゆう曲だったのかもしれませんね。

第1楽章はアレグロ・エネルジコ・マ・ノン・トロッポ
激しく、しかしきびきびと
たしかに言われてみればこの通りの演奏に違いない。第1楽章は冷徹なソナタ形式であり、マーラーをあまり振らなかったジョージ・セルのような指揮者がこの曲の造形を見事に示してくれる演奏があるわけです。今日のアシュケナージの演奏解釈はそのソナタ形式をなぎ倒したわけではないけれど、形式感を忘れさせてくれるぐらい激しい演奏が最初から最後まで続く。継続は力なり、激しさも力なり。
タメは完全に排除されている。音楽のふくらみは正しい音価の長さの中において表現すべきであり少しの間延びも許さない。ある意味見事と言える。コーダでは上から下まで飛びまくる音、響きは短調から長調への解決以上の生理的解放感を感じさせる。このような激しい解釈は初めて聴いた。

第2楽章、第3楽章は入れ替えている。昔1987年頃、サイモン・ラトルがベルリン・フィルを振った同曲も同じく入れ替えていたと記憶するが、昨今、あまりこの入れ替え演奏は聴いたことがない。アシュケナージが2001年にチェコ・フィルを振った演奏も第2楽章はスケルツォでした。
それで、この日の演奏は第2楽章がアンダンテ・モデラートになってます。プログラムが間違えていて、訂正文が挟み込まれているので、もしかして、今日突然入れ替えた?
それはそれとして、効果はいかに。
第1楽章があまりに激しすぎ草木をなぎ倒しすぎたせいか、微妙にほっとできる瞬間であり、これはこれでよかったのかもしれない。
でも、こちらの脳みそがリフレッシュする間もなく、音楽は動き始める。なぜこうも先を急ぐのか、というのはもはや愚問に近く、ただ聴くしかない。
調性感が不安定な楽章ですが、ホルンの崩れ調性によるソロは奏者ともどもお見事。演奏後アシュケナージが最初にスタンディングさせたのはトランペットとホルンだけ。トランペットの方はオレ?みたいなびっくり感があったけれど松崎さんのほうは当然だべ、みたいな感じ。いずれにしろ、この入れ替え第2楽章は音楽の構成バランスというよりも、興奮度の鎮静化の部分に関して、正解と思えた。

第3楽章にスケルツォがくる。
当然と言えば当然。ソナタ形式の古典音楽ならこうだ。ベートーヴェンが第九でやっちまったので、形式は壊して再創造、ベートーヴェンの偉大さはこれまた圧倒的なんですが、この悲劇的はアシュケナージが元に戻した。
でも激しさはかわらない。ロシア人は変拍子は苦にならないらしいのでなんにも問題はない。基本コンセプトは三拍子ながら、スコアをみればわかりますが、わりとややこしい。
このスケルツォにきて、アシュケナージの棒はまた激しさを増し、第1楽章の想像的回帰に脳みそを誘う。
スケルツォがあればトリオがある。素朴な歌ではなく張りつめた音群の響きであり、やっぱり交響的様相を呈してきたと言えるようだ。この第3楽章まできてようやく全体のフォルムが完成に近づいた。

第4楽章こそは極度に肥大化したソナタ形式。5分かかる序奏はもったいづけにもほどがあるといいたいところだが、30分の曲なんでバランス的には正解なのであり、聴き手側にも全体を俯瞰する能力が要求されるとともに、音楽の長さに対し相対的な聴き方も必要とされる。やっぱり1回じゃこの曲は無理。
そして、二つの主題提示があって展開部へ。こう書くと普通のソナタ形式のようだ。でも、鳴り物の活躍は、とんでも系。ハンマーはこの日、2回でおさめられた。改訂版ということになるのだろう。アシュケナージはここ、やっちまってもよかったかもしれない。が、彼はそのような面白おかしさをねらっているわけではまるでない。あまりに真摯すぎというのも妙な言い方だが、この息せき切ったような激しい演奏をまじめにめざしている。
彫りの深さ、強弱、濃淡の陰影、そのようなものも目指していない。むしろアクセルふみっぱなしから来る隙間のない響きの追及のよう、そして圧倒的前進性。展開部の音楽は圧巻。この展開部は序奏の展開もあるが、これまた明瞭で何一つ間延びしない。ここのブラスセクションは聴きものでしたね。そして音圧でめくれてしまいそうなフル音響の絶奏がこれでもかと続く。最後はあまりのアクセルにブラスが先を超えて弦のピチカートの前にファンブル・エンディングしていたが、前のめりになればなるほど、みんなもっと前のめりになるのだろうか。不思議な現象だ。それはそれとして、
この演奏から一体何が生まれてくるのか、行為は確信犯的であったが、それからなにが生まれてくるのか、ある意味、アシュケナージ自身わからないのではないだろうか。聴衆に結果は投げられたのであって、それは自身にも投げられた。
アシュケナージにあるのは、みなぎる自信であって、場当たり的な解釈でないのは、聴いて観てよくわかるので、この音楽造形、演奏造形、ソナタ形式の解釈なのかどうかも含め、6回ぐらい六本木通りの坂道で立ち止まって考えてみる価値は大いにあると思われた。


この種の演奏は、録音にすると沸騰がまるでわからないケースと、他の指揮者との違いが明確にあらわれるケース、二通りあるような気がする。後日、放映、放送があると思うのでそれが待ち遠しい。

それとこの日の激しい演奏については、席の関係もあるかもしれない。6列目で聴いていたからか?
おわり


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