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2009-2010シーズン聴いたコンサート観たオペラより
2009-2010シーズン聴いたコンサート観たオペラ一覧はこちら
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今日はマーラーの復活の公演。
都響の定期演奏会700回記念公演より
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マーラー 交響曲第2番 復活
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メゾ、イリス・フェルミリオン
ソプラノ、ノエミ・ナーデルマン
二期会合唱団
エリアフ・インバル指揮
東京都交響楽団
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実測
第1楽章 21分
第2楽章 10分
第3楽章 12分
第4楽章 5分
第5楽章 31分
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三日前のアシュケナージによる衝撃的な6番の興奮が冷める間もなく、今度はインバルによる復活公演。こちらのほうはチケットにプレミアがついたりしていて聴衆の先走り感があったようだ。
インバルは1970年代40歳前後だと思うが、フランクフルト放送交響楽団相手に多量の演奏会を行っており、録音の良さも相まってNHK-FMでさかんに放送された時期がある。多くは当時の現代音楽であり、たまにマーラーの大地の歌などもやることがあったが、いずれにしても当時のNHKはわりと先をいっていた。
1989年には別々のオーケストラと2回来日して、マーラーの交響曲を何曲も振った。2番の復活も聴きました。(1989年聴いたコンサート観たオペラの一覧はこちら)
1989年当時、インバルはマーラーを一通り振り終え、マーラーが言ったという、自分の時代が来る、その通りマーラーはブレークし、同じくインバル自身もブレークしたのであった。それから20年以上たち、こうやって熱狂の嵐のなかに、まだいるインバル。感慨深いものがあるが、自分の中では終わっていたように思われていたのだが、時とともに聴衆の年代もサイクルし、また、マーラー生誕150年ということもあり繰り返し演奏されている。
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インバルはどちらかというとドライな感じで、透明感のある棒。バーンスタインの棒などとは正反対だったと思う。(バーンスタイン、ニューヨーク・フィルは670- 671-)
あまり引っ張ることもなくひきずることもなく、スコアのデフォルメはあまりしない。
この日のマーラーを聴いていると聴衆の後押しのせいかどうか、自分のしたい通りなのかどうかと思ってしまう。たしかに丸くなったというか滑らかさはあるが、それは曲の振りすぎであって、ある部分想定内というものだろう。それよりも、この人がマーラーを振ればお祭りになる、みたいな雰囲気が出てきてしまっている。名演奏が予定されているような。
インバルにとって迷惑かもしれない。自分が本当にしたい方向とは違ってきてしまっているのではないか、でももう棒を振れる時間もそんなにないかもしれないし、自分の中での折り合いもあるのかもしれない。即物的なものの疲弊?
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オーケストラの音は硬いけれど、わりと良く響き、勢揃いしたブラスに弦が負けることもなく微妙なニュアンスを明確に指示するインバルの棒通りの音が美しく響く。ティンパニのポイントをついたアクセントも全体の引き締めにはいいメリハリとなっている。
第1楽章は聴きようによってはあっという間だ。ソナタ形式を感じて聴いているとちょっと底の浅い音楽かもしれない。この曲はむしろマーラーの一筆書きのような感覚で全曲を聴いた方が聴きがいがある。インバルにもはや手練手管という言葉は不要、その言葉には疲弊感がただよう。振り慣れた曲を振っている。
第2楽章は、なんだか懐かしい。弦の音が殊の外厚みがあり、さすがに聴かせてくれる。
合唱とソロは第2楽章と第3楽章の間に登場する。違和感があるが、第3楽章の流れる音楽、そして爆発するブラス、いつのまにか第4楽章の下地を作りながら終わる。インバルはこのように、先を感じさせてくれるような響き、ツボを心得たというか、昔振りまくりの現代音楽のツボのようなものを、こうゆうフレーズで聴かせてくれるのがなんともうまい。先をいっていた音楽家が気がついてみたら取り残されていた、そういってはあまりに酷というものだろうね。
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第4楽章のブラスの祈りはちょっと難がある。どこも間違ってはいないけれど、もう少し余裕のある響きが欲しいところだ。精いっぱいの祈りは余裕の技術から。
原光におけるフェルミリオンの声は素晴らしく、柔らかく、太い。オーケストラの響きと対極にあるようなやわらかさ、力が抜けていて、変に気張らなくてもホール全体を大きく包み込む。CDできく歌曲等やっぱり所詮録音ものだ。
第5楽章は途中、バーがなくなってしまうような個所もある奇天烈な楽章。いろんなものがミックスされた音楽の雑踏。インスピレーションの塊と言えるかもしれない。一筆書きここに極まれり。
マーラー閃きの楽章だが、バーンスタインのように超変形拡大を目指すわけでもなく、スコアを踏み外さない。たしかに表現が難しい曲だ。指揮者が自己主張のためにやろうと思えばできてしまうような楽章ではあるのだが、インバルはいたって普通。スコアの引き延ばしも想定内。あまり熱狂的なものではない。
これも以前聴いたゲルギエフの棒、キーロフのオーケストラによる公演では、自分がまるでオーケストラに中にいるような熱狂の感覚を味わった。小澤征爾ボストンは薄く、あくまでも透明感を前面に押し出したものだった。
インバル、フランクフルトはどちらかというと小澤と似てる感じ。
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最後のブラボー・サウンドは、復活最後の大音響に負けじと言わんばかりのもの。比例した絶叫が空虚に響く。
終わり
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