河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1024- ヘルベルト・フォン・カラヤン ベルリン・フィル ベートーヴェン第九1979.10.21 来日公演1979年=5=

2010-06-13 23:00:39 | コンサート


1979年聴いたコンサートからボツボツと書いてます。
今書いているのは1979年カラヤン、ベルリン・フィルの来日公演より。


1979年のカラヤン、ベルリン・フィルの来日公演は9回。そのうち2回潜入しました。マーラーの6番とベートーヴェンの第九。

それでは第九の当時の感想を例によってそのままアップします。



1979年10月21日(日) 7:00pm 普門館

ベートーヴェン 交響曲第9番

ソプラノ、アンナ・トモワ=シントウ
メゾ、ルーザ・バルダーニ
テノール、ペーター・シュライヤー
バス、ホセ・ファン・ダム

ウィーン楽友教会合唱団

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ベルリン・フィルハーモニカー

このような豪華な組み合わせはもう日本ではあまり考えられないのではないだろうか。全くメンバーを見ただけで感動してしまいそうである。
しかし、僕の感動は別のところからきた。その出だしからである。特別な思い入れもない気負いもないと思われるのに、まるで初めて聴くような気がしてならないのである。実演でさえ大学の時にマズア指揮ゲヴァントハウス管弦楽団で聴いたことがあるというのに。
 その思い入れのない無機的な早めの速度で淡々とそうされる第9の第一楽章。古典的な出だしである。そして最後までこの楽章は終始このペースが保たれる。カラヤンはこの第一楽章を完結させない。単なる第一楽章目としかとらえていない。しかし、既にこの楽章の後半には第4楽章の興奮が隠されている。
 第二楽章がまた素晴らしい。一瞬、ムラヴィンスキーの指揮した田園の第一楽章を思い出した。このスケルツォがまたカラヤンでもある。あのような音の細かい音楽をあのような速度で奏したときどうなるか。まるでうるさくなく、古典そのものであった。モーツァルトでも聴いているような錯覚に襲われた。ベルリン・フィルの完璧なアンサンブル。すばらしい第二楽章であった。
 そして第三楽章。緩徐楽章こそカラヤンの真骨頂であることは言を俟たない。またもや筆舌に尽くしがたいベルリン・フィルの驚異的なアンサンブル。バランス調和、ハーモニー、そして切れ目のない音群。軽くあくまでも軽くそして透明に飛び交う音たち。つまり、何故初めて聴いたような気がしたのか、ということがようやくわかった。このような解釈の演奏を初めて聴いたのである。第二楽章もそうだがベルリン・フィルを指揮する指揮者は曲の速度と難易度をあまり考えて演奏する必要がない。この楽章もよくこれだけ音が透明なまま長く維持できるものだとびっくりした。
 第四楽章こそベルリン・フィルの実力である。ばか騒ぎする必要はまるでないのである。音が地の底から光り輝くとき、ベルリン・フィルの栄光のときである。あのいぶし銀のような金管。きちがいみたいに強奏する必要は少しもない。ピッチが合えば音は増幅し自然に感動へと導かれる。音そのものにより感動に誘われる。僕は本当に感動した。そして、それを増長するようかのように、あの初めて聴くウィーン楽友教会の合唱。けじめのあるアクセント・フレーズ、自由自在な音の戯れ。まるで一つの楽器のようにベルリン・フィルに溶け合って進行する。すばらしい第四楽章だ。そして華麗なる独唱群。一瞬、ドイツにいるような錯覚に襲われた。カラヤンが体全体で指揮し、それにつられて波打つように演奏するベルリン・フィル。そして波が干渉するように揺れ動く合唱団。僕は初めてドイツ、オーストリア、そしてヨーロッパ、何よりもベートーヴェンの音楽に初めて触れたような気がした。芸術は人の心を動かし変える力があると初めて思った。ベートーヴェンの作った音楽に欠陥などない。完璧な芸術である。そして今、このステージの上にいる音楽集団も完璧な演奏芸術を心に刻んでくれる。
 このひ弱な精神しか持っていない僕を勇気づけてくれるもの、それは音楽しかない。もっともっと高くなろう。心は高くならなければならない。音楽、ベートーヴェンこそ、精神を高くしてくれる唯一の守護神だ。
 唯一の現実を与えてくれたベルリン・フィル、そしてカラヤン、シントウ、シュライヤー。もう一度ベルリンで聴いてみたい。
 精神とは高揚するものだ。

新宿で帰りに酒を飲んでいたら、偶然にも同じ場所にLeisterとVoglerがあらわれた。言葉がわからなくてもなんとなく通じるものである。実に楽しい一晩であった。














ザイフェルトやライスターのサインもみえます