河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2476- 町人貴族、人魚姫、大野和士、都響、2018.1.10

2018-01-10 23:06:24 | コンサート
2018年1月10日(水) 7:00pm サントリー

シュトラウス 町人貴族  4-2-2-4-2-2-4-3-9

Int

ツェムリンスキー 人魚姫  15-12-13
(アントニー・ボーモント校訂版(第2楽章カット有りの改訂稿))

大野和士 指揮 東京都交響楽団

2016年2017年と1回ずつ人魚姫を聴いて今年2018年お正月にこうやってまた聴ける。ツェムリンスキールネッサンスにはほど遠い状況ながらポツポツと聴けるようになったのはうれしい。この作品の生演奏に接するのは4回目だと思う。記録の整理がついていなくてもしかするとほかにも聴いているかもしれない。
神経過敏なロマンティシズムが漂う作品、どっぷりと浸かったものではなくて細やかな回路が集積していくような味わい。標題とそのストーリーから思い浮かべる色模様はそれはそれとしてイメージされて聴くのも良し。シンフォニックな聴きこみも良し。色々と楽しみ方はある。繊細なデリカシーと絵模様が綯い交ぜになりながらも交響的な様相も大きく魅せてくれる。魅惑的な作品。
冒頭、シリアスな序奏風進行にはやや力みがあると感じるが、聴き進むにつれその後の展開は冒頭りきみを納得させるだけの楽章規模とも思えてくる。大きな線よりも繊細で淡い響きが徐々積み重なっていき聴き手を離さなくなる。作曲家の標題表現が見事にちりばめられたもので大きな楽章ですね。
中間楽章はスケルツォ的なざわめき、それも長続きはしない。断続的なもの。泡のようだ。解説によると今日の演奏は初演時と同じく「海の魔女の地」をカットしてある改訂稿での演奏との事。初稿はカット無し。改訂稿はカット有り。
これでも十分な規模で、これでカットが無かったらそうとうな膨らみとなっていることだろう。3楽章形式の中間楽章として相応な重みを感じる。反面、終楽章にやや尻つぼみ的なバランスを感じさせる要因となっているのも否めない。
その終楽章はドラマチックな装いを魅せながらも最後は静かなエンディングをむかえる。素晴らしい。
指揮の大野は譜面不要、渾身の棒。彼は1995年に同曲をN響で振っており、また、先立つ1992には東フィルと、フィレンツェの悲劇の日本初演をしている。まぁ、作曲家そして作品と、共感の棒ですな。
細やかなことが積み重なってくる作品、大野棒は肩肘張らず同じく小さなところから始め、気がつくといつの間にか巨大なものが姿を現している。そんな感じのシンクロ棒で全くもって鮮やかでお見事というしかない。惚れ惚れするものでした。
オケの響きがそれらに寄与していたのは多分にあり、都響のクリアで明瞭、曇りのないリアルサウンド。ツェムリンスキーのナイーヴなロマンティシズムの表現にはまことにふさわしいもの。3者の一体感。素晴らしい。
これでティンパニが歌いアンサンブルすればさらに良くなることだろう。騒々しい太鼓。
ツェムリンスキーの作品には管弦楽やオペラをはじめとして歌曲まであるので色々と聴いてみたい。

人魚姫
1995年7月29日 サントリー
バッハ(マーラー) 組曲 第2番より序曲
マーラー 亡き子をしのぶ歌 Br小松英典
ツェムリンスキー 人魚姫
大野和士 N響


抒情交響曲(ここ何年かに聴いたもの)



大野和士による他作品の演奏ライブ

1992年9月18日 オーチャード
フィレンツェの悲劇 (日本初演)
大野和士 東フィル
伊原直子、若本明志、多田羅迪夫


前半のシュトラウスの町人貴族、これも佳演でした。小編成で上て半分に管3列、その後ろパーカス。下てに弦。楽器によるサウンド特質が見た目聴いた耳にも明確に分離。二つの色模様を同時に聴いているような趣向で面白い。管2列目は手前バスーン、奥フルート。バスーンの響きがホルンのように響いてきましたね。3列目のホルン2本と合わせ下吹き上吹きのような具合。時折分離プレイになったりする弦の線は一本ずつが見えるよう。
これも楽しめました。
おわり