河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2481- メシアン、トゥーランガリラ、大野和士、都響、2018.1.18

2018-01-18 23:23:22 | コンサート

2018年1月18日(木) 7:00pm 東京文化会館

ミュライユ 告別の鐘と微笑み~オリヴィエ・メシアンの追憶に(1992)  5′
 ピアノ・ソロ、ヤン・ミヒールス

メシアン トゥーランガリラ交響曲  6-9-5-11-6-9+4+12-3-8
 オンド・マルトノ、原田節
 ピアノ、ヤン・ミヒールス
大野和士 指揮 東京都交響楽団


トゥーランガリラはたくさん聴いてきました。昨年はたしかなかったと思うが、最近だと2016年の大友、群響。2015年の鈴木息子、東響。年に1回ペースかな。1990年代からこの作品の演奏会にはなるべく顔を出すようにしてきました。今日の演奏会も楽しみにしていました。結果は残念なものとなりましたけれども、20日にもう一度あるので、解釈の修正はかなわなくてもせめて演奏のほうはきっちりと整えたものを聴きたいです。わけてもいかにもやり慣れていなくてぎこちない、足元のおぼつかないブラスセクションとパーカスには奮起を望む。なんかあってビビっているように見えたのだがどうなんだろう。譜面の音をただ置きにいっているだけのように見えた。

この作品に対する大野の解釈というのは、この作品が完成した時代に流行っていたベートーヴェン以降ロマン派あたりまでの作品を演奏するときのスタイルを思い出させる大時代的なもので、当時のいわゆる現音作品をその当時まで遡って振ったような目まいの錯覚を起こさせる。まして、そこに遡ったとしても当時の現音指揮者ならおそらくしないような時代棒であって、そういう意味では当時でもおそらく聴いたことが無いようなお品解釈で、びっくり、唖然。
一言で言うとギアチェンジ箇所でのアゴーギクの多用。直列になっている毛色の違う主題、リズミックであったり、ハーモニー主体の息の長い主題であったり、そういったものの扱い。アチェルランド、大げさなリタルダンド。一気に昔に戻ったような目まい。マーラーの歌い節ならあのような伸縮性もさまにはなる。ブルックナーだと今どきあのやりかただとかなりの疑問符。今日のトゥーランガリラはブルックナーをそれでやってしまったと言うに相似。いわゆる現代音楽へのアプローチとしては異質で、今時あのようなアゴーギクで現音を振る人はいない。メシアンのこの作品を冒頭に書いたシチュエーションにおける時代に即した作品の範疇にいれているという本人理解での表現棒ならわからなくはないが、それなら、他の同時代作品も同様なスタイルで振るのが普通だと思うのだが、これまで色々と聴いてきて、現実にそのような演奏は無い。
等々、書いているほうも釈然としない。

ブラスセクションにメシアン呼吸は無くて、譜面の音をただそこに置いていっている。貧弱な表現で、メシアンサウンドが生き生きと中空を帯のように飛び回る響きの世界が皆無。自信無げで板についていない。躍動するプレイになっていなかったのは残念。壮観であるはずのパーカス群の攻めない叩きに響きの饗宴は無い。総じて薄めの分解サウンドはオケとしてのこの作品にトライする姿勢が真剣に、あるのかどうか疑わしいとまでは言わなくともかなりあやしいものであった。

ピアノのミヒールスは困難なパッセージを跳ねるような若々しい弾きスタイルで、やや細めの鋭利なサウンドが魅力的。なのだが、オーケストラの目まぐるしく変わる主題がいちいち大時代的なリタルダンドになって延びていって主題チェンジ、といったやり方には慣れていないと見え、指揮者凝視多く、よく見ているのだが、ついていけない箇所が散見。ついていけないというよりも相対的に前のめりに音が出るように聴こえてしまう。彼の相対性原理のほうが今の時代、正しいものだろうとは思う。リハを重ね指揮者の振りスタイルをかみ砕けばこうはならなかったと思う。時すでに遅し、ではない。20日にもう一度あるので。
まぁ、個人的にはミヒールスのスタイルを貫き通してほしい思いのほうが強い。

この作品を330回以上演奏してきたというハイヒールにマント姿の原田には今日の大野解釈でもなんでも朝飯前に違いない。

プログラムの最初に5分ほどの作品がミヒールスのソロで弾かれた。一瞬にしてメシアンの世界に引き込まれる。ミュライユというよりメシアンそのもの。点と響き、研ぎ澄まされた響きが空間を感じさせる。最後の長い空白で感じるメシアンの微笑み。

おわり