2016年12月14日(水) 7:00pm サントリー
ドヴォルザーク ヴァイオリン協奏曲イ短調 11+12′10′
ヴァイオリン、ヨゼフ・シュパチェク
(encore)
イザイ 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番、第4楽章 3′
Int
マーラー 交響曲第1番ニ長調 16′7′11+21′
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フルシャがこれまでに演奏してきた一連のマルティヌーもの、続きは来週聴けるので楽しみに取っておいて、今日のプログラムは前半のドヴォルザークがなんといっても素晴らしい。
シュパチェクは強い弾きで音幅があり聴きごたえ満点。共感のドヴォルザークですね。ものすごく巨大な作品に見えました。彼の演奏は初めてですが、ドヴォルザークの作品ということよりもヴァイオリンの楽曲をたくさん聴きたくなるような魅力ある演奏。
このドヴォルザーク、頭の1,2楽章の弾きは圧倒的で渾身の没我プレイ。あまりの素晴らしさにのけぞりました。横に流れるというより縦に効いていて音一つ一つがツボにはまっていく感じ。
これに寄り添うオーケストラがこれまた良い。響きに余裕があり、よく、こなれている。ゆらゆら音が余裕の揺れ。鋤いて戻すようなおもむきのフルシャの棒が心地よい。指揮者の思うつぼ通りの演奏。スバラシイ。
後半のマーラーは、指揮者、オケ両方とも懸命にエモーショナルではあるのだがその質方向にちょっとずれがある。思いが少し別のところにあるのかなという感じ。
オケは一生懸命なのだが、一生懸命プレイしても指揮者が思い描いているものと同じというわけではない。オケの技術レベルはあるのだが、それが目的化している。換言すると音楽の表現の手段としてもっている技術レベル、それ以外に思い浮かぶものがあまりない。ほかに何かをつかむべきなのだということ、それがない。音楽表現の内面化に欠ける。
フルシャは皮相的な滑らかさやドラマチックなものあるいは音響的効果、それよりもほかにしたいことがあるのにそれがドヴォルザークほどには出来ていない。自分の主張がうまく伝播していないのではないか。押しの弱さの問題かもしれないし、マーラー演奏に一家言を持つオケの自意識の眼があって、それやこれやで双方の技があまり良い方向に作用していないのではあるまいか。マルティヌー会長がマルティヌー演奏で魅せる際立った主張はここにはないもどかしがある。
都響は、今回のプログラミングは、ドヴォルザーク~マーラー~マルティヌー、このチェコ風味の流れを感じながらの演奏が実感できていればよかったとも思う。
演奏は、ストレートと伸縮自在の中間ぐらい。方向感のつかめないもの。内容も前半のドヴォルザークには比さずともおよばない。
マーラーの方向感というのはヴァツラフ・ノイマンが最晩年にキャニオンに収録したマーラー、薄いと思えるぐらい澄み切ったパフォーマンス、チェコフィル独特の髪を梳くような流れ。フルシャはインターナショナルな活躍指向なのかどうかは知りませんけれども、満足のゆくことをして欲しいですね。
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マーラーでは2列目3番ホルンの隣にトロンボーン1個ありました。音量効果狙いだと思いますが、音量は、もう、いいような気もしますがね。
おわり