河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2096- ペトルーシュカ、火の鳥、グザヴィエ・ロト、都響、2016.4.12

2016-04-12 23:11:18 | コンサート

2016年4月12日(火) 7:00pm 東京文化会館

ストラヴィンスキー ペトルーシュカ(1911年版) 36′
Int
ストラヴィンスキー 火の鳥(1910年版)  45′


フランソワ=グザヴィエ・ロト 指揮  東京都交響楽団


他人(ひと)より耳がいいとか、自分の感覚に音の響きを近づける仕方をわかっているといったことが群を抜いているのだろうか。実現方法の具体的な手法を自分の中で確立しているのだろう。自分の感覚というのは、今の風、先の風、これこれこうだからどうすれば前へ進めるか、といったことの、世界の、より普遍的な感覚を、自分の中に同質化できる才能とそれを表現する方法をマスターしているという話ですけれども、そんな思いをロトの指揮で演奏を聴いていると感じます。彼も棒を持たないスタイルですが、途中から指揮棒を持たなくなった日本人指揮者達への違和感とはまるで異なるもの。例えばブーレーズのような指揮スタイルを感じるわけですね。
いわゆる現代ものを皮膚感覚で出来るうんぬんくんぬん言うのは、やっぱりちょっと違っていて、このように理知的にやることの集積値、彼の場合は積分値みたいなものでしょうが、そういった才覚がやっぱりどうしても必要で、考え抜かれたものが響きとなって具現化していると思います。具体的な音楽表現の実現ですね。

火の鳥でいうと、前半の音静かなシーンにおいても、最初から、すべてのインストゥルメントの基本は全部スタッカートで表現しよう、と言ったかどうかわかりませんけれども、そういった粒立ちの良さ、音が一つずつ沸き立つようなエクスプレッションというのは、具体的な指示があってあのような音の響きになるわけでしょうし、その表現がのべつ幕なしに全部と言う話でもなくて、ほかにも、アンサンブルの束、メロディーラインの束、それぞれ楽器群の単位毎に明確に分離し同じ強さ感覚で別々に響きあうこの分解能の高さというときもあるし、はたまた、ダイナミクスがアッというほど幅広くなったかと思えば、それはパースペクティヴの妙とも関連するわけですけれども、遠近感覚であってダイナミクスとはやっぱり違うものも表現しているなぁ、などと本当に色々なことを次々と音で実現していると屈服せざるを得ない、この説得力と思うわけです。また、アゴーギクは副次的なエレメントのような気もします、というよりも別世界のことかもしれない。テンポ、リズムの出し入れを忘れさせてくれる指揮者で、これはこれで凄いものとあらためて感じるところでもあります。
オーケストラル演奏だけだと少し長すぎると感じる1910年版の火の鳥の前半シーン、このような具合で弛緩することのない、そして色々な引出しから多彩な響きが次々と出てくる演奏でむしろ短いと感じるぐらい。後半シーンの強靭でクリアなサウンドは前半ともども見事なもので、明確なフレージングで曲のフレームをロト感覚で鳴り響かせていくあたり、もはやナチュラルな爽快感がホールを満たす。

腕達者が多く、硬質なサウンドのオーケストラにストラヴィンスキーは最適で、ロトとの組み合わせでストラヴィンスキーのオーケストラル全集など作ってほしいと思うぐらいです。このオケはセッション収録でも力を発揮すると思いますので、海外戦略を打ち出せるような高レベルな録音を望みたいところ。うまいオーケストラの動かぬ証拠が刻めると思います。

この日は演奏会通して、指示通りやっただけといった雰囲気が漂わなくもなかったのですが、前半と後半のプログラムの出来の違いは、そのオーケストラ側の意識の違いが原因とも思いませんけれど、その通りでしたと逆に思わせるぐらいの日常のレベル感のポテンシャルが全編にわたり欲しいところです。自発的行為としての演奏といったあたりのことですね。個人プレイからアンサンブルへのつながりの意識とでもいいますか。
前半のペトルーシュカは火の鳥ほどの完成度には至らなかった。部分的にちょっとボテ系のところがあり、音を押している感じのところありました。オケの少し強引なプレイがあったと思います。
響きが限りなく薄められて、横に広がっていくような、ひとつずつの線が有機的につながっていくようなスリルある響きがこの人形の劇にはほしいところ。線むき出しの大胆で際どい響き全開にまでは至らず。この曲のスペシャルな演奏は難しいと思います。
おわり