2015年4月25日(土) 2:00pm サントリー
ブラームス ピアノ協奏曲第1番ニ短調 22′13′12′
ピアノ、アンジェラ・ヒューイット
Int
ブルックナー 交響曲第7番ホ長調(ハース版) 22′25′10′14′
ピエタリ・インキネン 指揮 日本フィルハーモニー交響楽団
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ヘヴィー級のプログラムが2本並びました。例の計測によるとブラームスの合計が、ブルックナーの前半2楽章と同じ経過時間。また、この前のカンブルランを引き合いに出すのはアレかもしれないが、アレとはタイミングがまるで異なる。
2015.4.10カンブルラン(ノヴァーク版)、18-18-10-10 t 56
2015.4.25インキネン(ハース版)、 22-25-10-14 t 71
15分違う!版違い芸風違いによるわけですが、インキネンのブルックナーはひきずるような歩みでもないし胃にこたえる重さがあるわけでもない。むしろさわやかな風が吹いているような進行具合で、目で見るタイミングと感じる音楽はだいぶ距離があったように思う。
その開始、原始霧は聞こえなくてよいというインキネンの理解だと思います。対向セカンドヴァイオリン、確信的なピアニシモからのスタートとなりました。音を出すというよりも体の動きのセットアップで、音楽が始まるというのがわかる雰囲気。これでいきなり空気が変わってゆく感じを体感できました。
第2主題はカンブルランよりも速いぐらい。第3主題の鳴らし方にかなり時間をかけているのと、後半に進むに従い、ゲネラル・パウゼが長めにとられてゆく。
全体的に丁寧な運びで一つずつ味わいながら進む。テンポを噛みしめる感じで後ろ髪ひくようなところはない。重心もストリングのベース中心にズシンとくるが、ブラスセクションは塗りたくる感じは無い。
それからウィンドが別働隊みたいな感じで、別枠で動いていく。ウィンドのアンサンブルと言うよりも集合体のようなものをかなり意識した流れになっていたように思います。セクション単位の感覚と言いますか。
こんな感じで、ばらばらのパーツがスポークを形成していくように音が絡められていき、スポークの骨組みで車輪が出来上がってもまだチャリとはならないわけですけれど、その全体構築のところはこれからといったところです。
ただ、例えば第4楽章は3主題がシンプルなのと展開・再現が、第1,2楽章に比べて練り不足で短い、というのをインキネンはわかっていて、あのようなゆっくり目の表現になったかと、全体バランスを考える指揮者だと思います。
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前半の協奏曲、シンフォニックすぎる曲で、ピアノ交響曲とでも名前をかえたらどうかとたまに思う。だいたいそのつもりで聴いている。そのほうが構造的理解が進むというより、それに関心を余計に払っている分だけ気が散らないで集中できる。大業な曲ではある。
響きが内向きで積極性をもって聴かないとはいってゆけない。本格シンフォニー派にとってはこれも一つの醍醐味。
ヒューイットは昨年、カンブルランがトゥーランガリラを振った時にピアノをつとめた女流ピアニスト。響きが太いと思ったが、今回の協奏曲ではちょっと埃っぽいと言いますか、もっと締まったサウンドが欲しい。この曲の伴奏オケに埋もれることは無いが、デカ音に自然さが無い、強引な強音を紡ぎだしているようなところが見受けられる。鋭く響かせて一音ずつ際立たせていくのが今風な明快な演奏と思う、それが出来るか出来ないか、するかしないか、出来る、する、といったあたりの選択肢を少しく見せてほしかった。
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ブルックナーが終わって指揮者が最初に奥に引っ込もうとした瞬間、2階LA席のかぶりつきから物が投げ落とされました。私の席は1階センター前寄りですので一部始終が見えたのですが、ドスンという感じで、最初は外で配っているチラシの束を誤って落としたのかと思いましたが、花束を下を歩くインキネンに投げたのでした。この無知で不注意なオバサンの行為で、下のヴァイオリン奏者の楽器を持つ手にあたってしまい被害を受けた模様でした。サントリーでこの種の野蛮行為は初めて見ました。あのオバサンはフィギュアスケートでプレイ後に観客が花束を投げ入れるような感覚だったのかもしれません。
自分が近くに座っていたら厳罰に処していたと思います。演奏後とはいえ退場ものの行為で、そのようなことも不理解のまま、さっさとLAかぶりつきから階段をのぼり消えていきました。
いいとか悪いとか、許すとか許さないとか、言う前に、丸出しなんですよね、アフォ。
指揮者、奏者、このオバサン以外の聴衆、みんな大人の対応でその場はあまり不快感をもつことなく過ぎていったのですが、時間が経つごとに気分が悪くなっていった一夜でした。
ワインヤードならではの行為で、そういう意味では30年に一人の逸材といえるかもしれません。
おわり