河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1781- 東京春祭、ワルキューレ、ヤノフスキ、N響、2015.4.4

2015-04-04 23:36:38 | コンサート・オペラ

2015年4月4日(土) 3:00-7:50pm 東京文化会館

ワーグナー  ワルキューレ

ActⅠ  62′
Int 30′
ActⅡ  82′
Int 30′
ACTⅢ  62′

(In order of voice’s appearance in concert style)
1.ジークムント、テノール、ロバート・ディーン・スミス
2.ジークリンデ、ソプラノ、ワルトラウト・マイヤー
3.フンディング、バス、シム・インスン
4.ヴォータン、バスバリトン、エギリス・シリンス
5.ブリュンヒルデ、ソプラノ、キャサリン・フォスター
6.フリッカ、メッゾ、エリーザベト・クールマン
7.ヘルムヴィーゲ、ソプラノ、佐藤路子
7.ゲルヒルデ、ソプラノ、小川里美
7.オルトリンデ、ソプラノ、藤谷佳奈枝
7.ヴァルトラウデ、メッゾ、秋本悠希
7.ジークルーネ、メッゾ、小林沙季子
7.ロスヴァイゼ、メッゾ、山下美紗
7.グリムゲルデ、メッゾ、塩崎めぐみ
7.シュヴェルトライテ、アルト、金子美香

マレク・ヤノフスキ 指揮 NHK交響楽団


東京春祭り、まぁなんというかとんでもないオールスターキャスト。でもその前に、
第2幕のエンディングは2回あるといつも言っていますけれど、一つはヴォータンがフンディングを終わらせることによって劇中の過去をクロージングさせる。それが鳴り終わった後に、同じヴォータンが約束破りの娘ブリュンヒルデを懲らしめるために探しに行くという今後の展開を示したところで2度目のクロージング。ワーグナーのストーリーテーリングと音楽は見事と言うほかない。
コンサートスタイルだとこのようなシーンの面白さが半減、また、今回映像付きとはいっても昨今のディープなものとはかけ離れた、見るべくもないもので幻滅。
そして、このシーンに代表されるように、このようなコンディションを補って余りある演奏を展開してくれたヤノフスキはやっぱりえらかった。エンディングを並べた一見奇妙なシーンにおける指揮者の凄まじい説得力。時系列配列なのに、なにか二つのエンディングが同時に見えて鳴っている、そんな錯覚にとらわれました。ヤノフスキの脳内回路をようやく見た気がしました。

ワルキューレは登場人物が少なくてまた、幕毎にちらばってロールが登場するので、綺羅星ソリストたちの歌を堪能できる。この日のキャストはそれにふさわしい。
一人譜面を見ながら歌っていたフンディングのインスンは妙なことかどうかヤノフスキのテンポ感に一番合っていたようでした。他の方たちは譜面なしで、見たところプロンプターやそれに代わるようなものもなかったので、コンサートスタイルでの出入りがあるとはいえ、役どころに相応しい歌いっぷり。みんなお山の大将と言うのはちょっと語弊がありますが、オールスターキャストのグレイト・シンガーたちの見得を切る立振舞いはコンサートスタイルであればこそとも言えるようなところもあり、かっこいい。探したくなるアラなどという邪念は彼方の果てへと木端微塵に飛んで行ったのでありました。


それで、まずは3人だけの登場となる第1幕、コンサートスタイルでは一般的にテンポがアップするとはいえヤノフスキのはそんなこととはたぶん無関係に最初から、とにかく速い。これが普通なのだと思うまでには時間がかかるのだろうとは思います。
これに合わせていく歌い手たちは大変だろうなと余計な心配は本当に杞憂なことでしたけれども。
スミスの贅肉の無いスタイリッシュな声質は黒光りのヘルデンテノールサウンドのような輝きが増してくるものとはやや異なり、現代風の歌。舞台の動き付きであればどうなのだろうかと掻き立てられる部分はあります、役どころに慣れていそうですし。
それで第2幕の死の告知の局面まで引き延ばすワーグナー、あすこらあたりでのスミスの解脱感、コントロールされた死のようなものなのか。概ね理知的に制御されている感がありました。第2幕からの出番となるキャサリン・フォスターのような最初からぶっ飛ばしのスタイルとは逆ですね。このキャストの面々、どっちがいいとかは愚問以外のなにものでもありませんが。
スミスの第一声はこの森の中でのスタートに相応しい。物語が動き始める第一声です。

双子兄妹ロールのマイヤーは老けましたがあいかわらず声はでかく健在。CDとか放送録音ではよくわかりませんが、マイヤーは声がでかくてびっくりします。メトで昔聴いたシェリル・ミルンズなんかもそうですね、でかい声。マイヤーもこの声有ってホールの隅々までうならせることが出来たものでした。それは今も変わらない。それに彼女の場合、恐ろしいまでの暗譜。オペラだけではない。ピッチの正確性や安定感などにもうなるばかりで、まぁ、彼女の才はオールオーヴァーにわたる頭の良さからくるところがおおいにあると思っています。
この日この幕の白眉はヴェルゼーを割と軽く通過していって、音楽が奇跡的に長い盛り上がりを見せてくれる冬嵐の前後のあたりから逃避行の最終局面まで、ここでのワーグナーの息の長い盛り上がりは本当に芸術を感じさせてくれるし、この双子ロールは空気の隙間を感じさせないびっしりと詰まった音楽を表現してくれたと思います。これが芸術だ。
それと、早すぎ速すぎとこちらが勝手に言っている指揮者のヤノフスキは歌の伴奏となるあたりでの弱音コントロールが素晴らしくよく効いている。指揮台から横に立っている歌い手たちのことを見て把握しながら、オーケストラのピアニシモ伴奏への配慮が行き届いている。歌が効果的に浮き彫りになり、音楽の演奏表現に膨らみがグッと出てきます。縦の切り口というよりもやはり流れでしょうか、ヤノフスキも。
棒よりも音が極端に遅れて出てくるオーケストラ演奏スタイルが好きでないというヤノフスキですけれど、それがアインザッツの正確性に欠かせないとはいえ、彼が求めるのは細やかにさりげなく風のように、それでいて多彩で微妙なニュアンス、このような多面性を同時に流れるように表現する、それはワーグナーにおいても変わらないのだよ、と言っているかのようですね。
締まった第1幕でした。
コンサートスタイルのいいところは、ノートゥングが抜けなかったらどうしようといった心配をしなくてもいいところですね。


第2幕、仁王立ちのキャサリン・フォスターはいきなり聴衆全員をぶっ飛ばすような全力投球の叫びから始まりました。第1幕でマイヤーにしびれた自分もなんだか、上には上がありそうだと一瞬思ってしまいました。グラーネ越えの素晴らしい馬力とピッチ。それに破壊力ですか。これぞ物語のブリュンヒルデに相応しい。スミスの方向とは真逆ながらすべてを包括できるワーグナー音楽、極まれり。無尽蔵のエネルギーパワーに、聴くほうも手応えと心地よい安心感の両方を同時に手に入れた。
第3幕での親子表現より、この2幕のジークムントへの死の告知のあたりのほうがウエット感がにじみ出ていているようでした。冒頭の叫びから、ヴォータンとの約束の反故、それはジークムントに自分の心模様を投影した心的アヤの表現に他ならない、単刀直入的な切込みではあるのですが、そこに至るまで、息をもつかせない緊張感の持続があり得ないレベル。まぁ、聴き手の受け止め方によるところも大きいのですが。

去年クプファーのパルジファルで痛い脇腹表現が白眉のアンフォルタスを5回歌い5回とも観てしまった自分があらためて感心したシリンスがこの日のヴォータン。柔らかくて深いバス、いいですね。余計なりきみがないというか、りきみはあるのでしょうが、それよりも深彫りされた表現が素晴らしい。役になりきると言いますか。
彼のディープで深刻な歌はその柔らかいバスできれいに表現される。アクを感じさせない、存在感のあるヴォータン、語りの部分は最高!深い!きれいなバスだと思います。なんか誠実そうで、そんなところまで身体からにじみ出てくる感じですね。もう一人のヴォータンみたいな感じ。

でも、その前に、山の神がいるのですね。
オールスターキャスト屹立、語りの前にクールマンがいるのです。このフリッカの存在感!、フォスターのハイトーンの叫びを押しとどめてしまうぐらい素晴らしくぶ厚いメッゾ。本当にぶ厚い声でした。ヴォータンはたぶんあの胸にやられたんでしょうとなんだかリアルに感じる、他のロールを圧するメゾソプラノなどと言うものはそんなにめったに聴けるものではない。毒々しさの無いフリッカ、声の説得力がそんなことをはるかに凌駕している。リング劇の大カーヴとなっているワルキューレ第2幕、全てはフリッカに収束し、そして波紋が広がる、そんな感じを大きく抱かせるクールマン、最高でした。

第2幕大詰めは、マイヤー、スミス、シリンス、フォスター、圧倒的な共演、
そして舞台は、最初に書いた2回終止を経て第3幕へ。


第3幕、
シリンス、白熱の長丁場。音楽も演奏も歌もなにもかも唖然とするワーグナー作品、これまたここに極まれりですね。
愛と言う名の美酒、ここらあたりのシリンスの見事さは筆舌に尽くしがたいですし、こんな曲を作ったワーグナーはもっとすごい!ちょっと、よくわからないのですが、ここらへんは音符1個単位で転調をしていっている感じで、それも聴いたことも無いような進行和音といつも思うのです。事も無げに歌い尽くすシリンスの凄味が激しい。激しく感動。何度でも味わいたいですね。
ブリュンヒルデのフォスターはたぶんまだ、歌い足りない。
この親子の愛は何だ、舞台だと色々観れますね、やはり槍をもった片目のクールなヴォータン、乞うブリュンヒルデ。父の心を余裕をもって見抜きつつ、若干相手をコントロールしているブリュンヒルデ、親子のウエット感よりもちょっと埃っぽいものを感じなくもない。
第2幕の仁王立ち、グラーネを飛び蹴りする勢いのフォスター、ここにきて細かいニュアンスが出ました。
オーケストラを絶妙にコントロールしつつ、ローゲ・ファイヤー、控えめにわりとあっさりとしたエンディングのヤノフスキ、いつも通り笑みは無いがなんとなくうれしそう。


地響き地鳴りのような拍手を久しぶりに味わいました。
例によってフライング拍手ありましたけれど、その大ばか者は良くも悪くも、一旦拍手を止めたわけですから反省はしているのでしょう。拍手の意味を理解したのだと思います。

第3幕はホルン総入替でした。大変なのはわかります。ここはむしろ品質確保優先だったと感じます。

それからヤノフスキのテンポは確かに快速ですけれど、あまり速いと失われるものもあるという事ではなく、出てこない情感があるかもしれないという話。どっちがどうだという話でもないのです。

映像はかなり不満、場毎に変わるわけでもなくて単なる素の描写、工夫の必要大ありです。昨今の他のコンサートスタイルの演奏会のものに比べだいぶ見劣りした。他のものを研究する余地が大きくあると思いました。

ワルキューレ8人衆、堪能できました。
左手サイドに斜めに並びましたので左側の席では見づらかったと思いますし声もどうだったかわかりません。私の席は右寄りでしたので、充実した響きを堪能できました。ワーグナー公演で脇を固めた日本人キャストたち、これまでもこの日もだいたい最高の歌なんです。これがあるから次のステップが生まれるんだろうといつも思います。

充実の公演、ありがとうございました。
おわり

もう1回あります。ゆきます。



1780- シュニトケ5番、ベートーヴェン5番、大野和士、都響、2015.4.3

2015-04-04 11:36:31 | コンサート・オペラ

2015年4月3日(金) 7:00pm サントリー

シュニトケ 合奏協奏曲第4番=交響曲第5番 5′7′15′7′
Int
ベートーヴェン 交響曲第5番ハ短調 7′9′5′9′

大野和士 指揮 東京都交響楽団


一言で言うと、指揮者は音楽作品にある主張を表現したい、オーケストラは現在の保有スキルや音楽イメージを崩したくない、その競合と葛藤の演奏。ガシッとかみ合っているとは言い難い。
ただ、それら主張の強弱はあるがどちらかの要素加減の多少にかかわらず全体としてマイナス方向へのブレとはなっていない。
手綱を締めておいて、その手綱を放したときにどちらのほうに向かうのか。これからのテーマといいますか、聴くほうの焦点見極めの醍醐味もあるかと考えます。

ベートーヴェンは全般に渡りかなり強めのアタック、目をつむって聴くとよくわかるアクセント多用。それから第4楽章のブラスのファンファーレは浮遊感があり、これはよく伸ばし切ったサウンドで練習でかなり指示されたものだろう。他の小節より明らかに長めの音価レングスであって、大野はここを第1楽章の運命動機のようにある種、独立したフレーズとまではいかないが、一つの枕詞的表現にしたかったのかもしれない。リピートありで3回現われますが都度若干異なる吹奏表現でこれもユニーク。
それで、その連想で、運命動機の枕詞的解釈表現の典型的に極端なのがFの演奏なわけですが、そこのファンファーレよりも、最後のコーダからの突入はFのような急激なアチェルランドこそないが、頂点到達でのテンポはFに迫る勢い。それにいかにベルリン・フィルとはいえ、1943年当時のことであるし比べるもがなの今の演奏のほうが高性能であるのは間違いないところ、ただ、大野のその微熱的解釈表現に、ちょっと冒頭書いたような雰囲気を感じたのでした。
最後のところはFのような急ブレーキはありません。あってもなくても、エキサイティングで全体造形に優れた演奏でした。


前半のシュニトケはタイトルが紛らわしい。まずこうなった理由を知りたいとは思わないのが本音なわけですが、理由がありそうなだけで作品の一端を知る。
作曲家の意向、方針、作品のアウトラインはわかりますが、その曲的なヒラメキのセンスが感じられない、これも本音。このような作品には聴き手としてどこまで踏み込んでいくべきなのかそれを問うているようでもあり、やにっこい作品ではありました。
都響は分解度の高い演奏で、このような作品には向いていると思うのですが、分解度が高いのと音が硬いのは持ちつ持たれつみたいなところはあれど、録音向きというあたり横に置くと関連性は薄いような気もします。
おわり