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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

David Brophy, "Uyghur Nation"

2016年09月26日 | 地域研究
 副題:"Reform and Revolution on the Russia-China Frontier"
 出版社による紹介

 非常に興味深い。
 セルゲイ・マーロフはその人生の早い時期にブルハン・シャヒディと出会っている。1913-1915年の間のいつか(1914年2月?)、ウルムチにおいて。本書51頁。ブルハンの『新疆五十年』にも載っていたかどうか。1921年アルマアタ(もしくはタシケント)会議のことは出て来ないが、1934年に彼が行った”唯一公的な”関係コメントとして、“クラプロートが主張しているように、新疆のテュルク系住民はウイグル人の伝統を受け継ぐ者であると科学的見地から言うことができる”(大意)という発言が紹介されている。本書229頁。
 ただ、この“ウイグル人”認定の全過程において、マーロフのような言語学者の果たした役割は偶発的・副次的なもので中心的なものではまったくなかったと著者は断じている。ただしその根拠は示されていない(同上頁)。

2016年9月30日注記。

 『新疆五十年』(北京、文史資料出版社 1984年2月)を、念のため「楊増新統治時期」の終わりまで繰ってみたが、マーロフの名は出て来ない。

(Harvard University Press, April 2016)

清水由里子 「『新生活』紙にみる「ウイグル」民族意識再考」

2012年12月20日 | 東洋史
 一読後、しばらく置いてあったものをあらためて読む。面白い。1930年代、「テュルク」と「ウイグル」意識のせめぎ合い。注23でブルハンのことを「アクスに祖籍をもつと自称するカザン生まれのタタール人」と書いているのは手厳しい。まあその通りなのだけれど。

(『中央大学アジア史研究』(35), pp. 45-69, 2011-03)

包爾漢 『新疆五十年』

2012年09月05日 | 地域研究
 著者の包爾漢はブルハン・シャヒディ。30才年少だが革命前の新疆(北疆)で生まれ革命後数年までをそこで生きたムニール・イェルズィン氏の自伝は最初から本人でしか書けない、当時の現地における実体験の連続である。しかるに著者のこの自伝は、冒頭タタールスタン出という自らの生い立ち記の後、著者本人の実体験談があまりない。ドイツ留学中で新疆にいなかった時期や下獄中の新疆まで書いてある。釈放後の省主席時代は別だが。大局的な当時の歴史の叙述が多いところ、先日の『堯楽博士回憶録』と同じか、あるいはそれ以上である。
 ブルハンは、自伝にことよせて中華人民共和国建国までの新疆の同時代人からみた歴史を書こうとしたのだろうか。1949年以後に筆を進めていないのは例の「歴史決議」があるから、というよりそれに繋げるためか。
 ならばそれならそれで、史書らしく出典や参考文献を明示すべきだろうと思う。ところが本書は、記述のよってきたる処をほぼ全く示さないから、真偽を確かめる術がない。 そこも「歴史決議」と軌を一にする。
 そもそも、漢語で書かれたこの本は、ウイグル人である(或いはタタール人とも)本人がどこまで書いたか疑問である。国家と党による、やや一般向けの”解放”前、とくに民国時代の公定新疆史という意味あいがあったのではないかと臆測したりする。

 メモ
 ①楊増新について、公式唯物史観の枠内ではあるが、相当程度に評価高し。(数少ない引用文献のかなりの部分を楊の書簡と日記が占む。)
 ②盛世才については極めて悪し。
 ③金樹仁については評価の言葉乏し。論外の如し。
 ④楊増新暗殺については世上の異説を表記することなし。

(北京 文史资料出版社 1984年2月)

大石真一郎 「テュルク語定期刊行物における民族名称『ウイグル』の出現と定着」

2009年11月25日 | 東洋史
 〈http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/89/contents-49.pdf

 「ウイグル」の名称が歴史上初めて現れるのは唐時代の漢籍史料においてである。テュルク系遊牧民のウイグルは、744 年に突厥帝国が解体した後、これに代わってモンゴル高原に支配権を確立するが、840 年にクルグズ(キルギス)の襲撃を受けて四散し、その主力は東部天山山脈に本拠を移して西ウイグル(天山ウイグル)王国を築いた。定住化を進めるとともに仏教を受容し独自の文化を担ったウイグルの政権は、13 世紀末頃まで東トルキスタン東部に存続した。その後西からのイスラーム化が進んだ東トルキスタンにおいて「ウイグル」は「仏教徒」と同義に扱われ、16 世紀初頭に東トルキスタンから仏教徒がいなくなると、「ウイグル」という名称もまた忘れ去られた。 (「1. 問題の所在」)

 1921 年アルマアタで開催されたソ連在住東トルキスタン出身者の大会において、ロシア人トルコ学者マローフСергей Ефимович Малов の発議に基づき、「ウイグル」という名称を復活させて自ら名乗ることが決定されたといわれる。ロシア人学者の提案によるものであり、ソ連が後に中央アジアで「民族的境界画定」を行うための準備作業の一つとみなされていることから、この「ウイグル」採用が東トルキスタン出身者たちの自発的な選択であったというよりは、政策上一方的な働きかけによって決められたかのような感を抱かせる。 (「1. 問題の所在」)

 つまり現代のウイグル人と古代のウイグル人には歴史的・民族的にも文化的にも直接の関係はない、別個の存在なのである。言語すら、おなじテュルク系諸言語に属するとはいえ、系統を異にしており、古代ウイグル語は現代ウイグル語の直接の祖先とは見なせないらしい。端的にいえば、この両者は名を同じくする――それも以下に述べる意図的な理由によって――だけである。

 参考:『ウィキペディア』「ウイグル人」項

 ウイグル人の祖先たちを含め、東西トルキスタンのオアシス都市の住民たちは、固有の民族名称をもたず、異教徒に対してはムスリム、よそものに対してイェルリク(土地の者)という意識を持つにとどまっていた。しかしロシア革命により成立したソビエト政権は、民族政策として「民族別の自治」を掲げ、西トルキスタンでも、遊牧諸集団やオアシス都市の定住民たちに対し「民族的境界区分」が施され、諸民族が「創出」されていった。西トルキスタンには、1881年のロ清イリ条約の締結の際にロシア領に移住したタリム盆地出身者が多数おり、彼らは1921年、カザフスタンのアルマトイにおいて、古代のウイグルという呼称を復活させ、自らこれを名乗ることを決定した。この呼称は中国統治下の東トルキスタンにも次第に知られるようになり、従来より当局が用いていた「纆回(ぼくかい)」という呼称を「ウイグル」に改めるよう求める運動がおこった。この改名運動は、盛世才政権のもとで受け入れられ、1934年、省府議会が正式にこの呼称を採用、「維吾爾」という漢字表記もこの時に正式に確定し、現在に至っている(「民族名の起源」)

 このことに関連して、大石氏は、「2. ロシアのテュルク語定期刊行物における呼称」において次のように述べる。

 1921 年にアルマアタで「ウイグル」の名称が採用された時、これに該当するのは東トルキスタン出身のテュルク系ムスリム定住民とその子孫であった。しかし、この時にあっても彼らのなかに同一の集団を構成するという意識が存在していたわけではない。 

 以下、「2. ロシアのテュルク語定期刊行物における呼称」の論点の要約。
 1. 東トルキスタン出身のテュルク系ムスリム定住民とその子孫は、彼らは大きく分けて二つの集団からなっていた。
 ひとつは「タランチ」とよばれた集団で、17 世紀に東トルキスタン北部のイリ(クルジャ)地方を本拠として遊牧国家を築いたジュンガル部が南部のタリム盆地周辺のオアシス住民をイリに移住させ、農耕に従事させた人々の子孫である。ジュンガル滅亡後、統治政策を継承した清朝によっても1760 年以降幾度かに渡って強制移住が行われた。その人々の子孫も同じく「タランチ」と呼ばれる、語原はカルムィク語で、「播種人」を指す(羽田明)。1864 年に東トルキスタン全域で反乱が勃発した時、彼らもイリの清朝勢力にたいして蜂起し政権を樹立したが、1871 年にはロシアがイリを武力占領し、10年間ほど統治下においたあと、1881年のサンクト・ペテルブルグ条約(イリ条約)でイリが清朝へ返還されることになると、報復を恐れた多くのタランチはロシア領のセミレチエ州などに移住した。
 もう一つはカシュガルリクと呼ばれる人々で、「カシュガル人」とか「カシュガル出身者」という意味である。カシュガル人は比較的新しくロシア領に移住し、そのほとんどは商業に従事していた。このため、この「カシュガル人」の名で、東トルキスタン出身のテュルク系ムスリム定住民全般を指すこともあった。
 2. 1910-20年代の西トルキスタンのテュルク語新聞では、東トルキスタンのムスリムオアシス定住民を、西トルキスタン同様に「サルト」と呼ぶ例がまま見られ、さらには、「ウズベク」と呼ぶ例も存在する。「テュルク」と呼ぶ場合もときにあった。
 3. たとえばウルムチ市についての記事『ワクト』紙に掲載したブルハン・シャヒド(カザン出身のタタール人・1949年に新疆省主席となる)は、同紙に寄稿した11編の記事のうちの5編で、東トルキスタンのムスリムオアシス定住民を指して「サルト」の言葉を用いている。
 4. しかし基本的に東トルキスタンのムスリムオアシス定住民は、自称として、「カシュガル人」「アクス人」「ホタン人」というように、自らの居住するオアシスの地名を冠して名乗るか、あるいは信仰する宗教にもとづいて「ムスリム」と名乗った。

 2に関して、「テュルク」は東トルキスタン南部のムスリムオアシス定住民を総称する他称であろうし、4に関しては、「ムスリム」の場合、おそらくは漠然とながら、東トルキスタン南部の都市住民の自称する総称であったと考えられる。ただし、東トルキスタン南部のオアシス都市を総称する「アルトゥシャフル」という言葉は存在したが、それはあくまで地域を指す名称にすぎす、「アルトゥシャフル」という言葉が個々のオアシス住民を互いに結びつける一体感・帰属感をもつものであったかどうかについては著者はどちらかといえば否定的である(本書の注19)。大石氏はまた、彼らが「テュルク」と自称することもほとんどなかったであろうとしている(同上)。

 「3. 『ウイグルの子』」の論点のひとつ。
 ・自らの祖先を古代のウイグル人であるという主張は、1914年、おそらくはもとはクルジャ出身で当時はセミレチエ在住のタランチ、ナザル・ホジャである。彼は既出『ワクト』紙および『シューラー』誌に20編の記事を寄稿しているがそのなかで、同年半ば以降、署名に本名のほかに「ウイグルの子」というペンネームを併せて用いるようになる。

 しかし彼の「ウイグルの子」というアイデンティティーは、自分について、もとは~~オアシスから来た「タランチ」であり、「イスラム」であり、しいていえば「テュルク」であるという以外、自分がいったい何者であるかを語ることのできないことへの焦燥から、いわば渇く者が水を求めるように、その答えを必要としているところへ、ちょうどそこへ「ウイグル」が、ちょうど折良く在ったがために、跳びつき、掴み取ったものではなかったか、すくなくとも、その自己認識の是非についての客観的な証拠の有無や歴史的・文化的その他の正当性を検討した、理性的な判断ではなかったことは確かである。それは大石氏の引用する、以下の彼の激語から窺える。

 昔の時代に「ウイグル」と呼ばれ、現在名無しとなった東トルキスタンのテュルクの生活風景はとても哀れで気の毒なものである。(中略)上で「東トルキスタンのテュルクは初めウイグルと呼ばれて、今や名無しとなった」と私は言った。何故か。土着のテュルクである以外に、あなたは何者かと問えば、私はカシュガル人だとか、コーカンド人だと言う。「それは土地の名前だろ!」と言えば、すぐに「私はムスリムだ」という。否、私はあなたの宗教を尋ねているのではないと言うと、恥ずかしそうに「私はチャントゥです」と答える。カザフやクルグズに混じって暮らしている者たちは「私はサルトです」と言う。要するに、彼らは自分たちが何者であるのかも知らないのである。なんと無知なことか! (「ウイグル語について」、1913年11月出版の『シューラー』掲載)

 ちないに上の「チャントゥ」は「纏頭」、前出「纏回(チャンフイ)」と同じく、漢語の東トルキスタンイスラムオアシス定住民一般を指す言葉である。当時の東トルキスタンはヤークーブ・ベクの乱の後、1884年に省制が敷かれ内地と同じ清朝の直轄支配地となってから30年が経ち、それまでは基本的に漢族の入植が禁止されていた回部もしくは新疆とよばれていた東トルキスタンに漢族が続々と入り込んで漢語が広く使われるようになっていた状況の反映であろう。「カザフやクルグズに混じって暮らしている者たちは『私はサルトです』と言う」のは、彼らのところへはまだ漢人と漢語の影響が及んできていなかったということかと解釈できる。

 1921 年にアルマアタで決定された民族名称「ウイグル」の採用が、ほど遠からぬジャルケントに住むナザル・ホジャのそれまでの文筆活動と全く関係なく行われたとはむしろ考えにくい。であるならば、ロシア人の発議による決定であっても、幾許かは「ウイグル」と呼ばれるようになる側にも主体性があったのではないかと思われる。 (「3. 『ウイグルの子』」)

 それはそうかもしれないが、自らを「ウイグル民族」であるとすることが正しい決定であったかどうかは、言うまでもなくこれとは別の問題である。

(『東欧・中央ユーラシアの近代とネイションⅡ』 スラブ研究センター研究報告シリーズ No.89(2003.3.20)、第5章)