書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

大野晋 『文法と語彙』

2016年09月25日 | 抜き書き
 現代社会には、各国に異なる政治的経済的諸制度が行われている。その制度を比較すれば、A国の正義は、B国では不正とされ、B国の善は、A国では必ずしも善でない。これは常識的事実である。
 しかし、人間の思考に関しては、万人に妥当する論理があると信じられている。つまり同一律、矛盾律、排中律、充足理由律の原則の四つは、国境を越え、民族の別なく、妥当する論理の基礎とされている。この同一律は英語なら A is A. 矛盾律は A is not Non A. で表現される。そして日本語ではこれを「AはAである」「Aは非Aにあらず」と訳している。だが、日本語には「AはAである」と並んで「AがAである」も存在する。A is A. は果して、そのどちらに当るものであるのか。「AはAである」という表現は、本当に A is A. に当るのであるか。もし A is A. が必ずしも「AはAである」と等しくないならば、日本語によっては、いわゆる「思惟の法則」は正しく理解されない懼れがあるのではなかろうか。
 (「Ⅰ 文法 2 日本人の思考と日本語」 本書25頁)

(岩波書店 1987年2月)

漢典 「欠佳」項

2016年09月25日 | その他
 http://zdic.net http://www.zdic.net/c/0/160/359984.htm
 
 「欠佳」とは「あまりよくない」という意味のことば。私は個人的には漢語を品詞に分類するのはあまり意味がないと思っているが、この言葉は品詞分類はされていない。単語か熟語かどうかの説明もない。それはさておき、文言文の例文が一つもない。『國語辭典』の方にある唯一の例文「他因態度欠佳而被父親責罵」は白話文である。新語か。出典の指示がないから文脈その他を閲しようがない。そんな必要もないほど、日常多用される表現ということなのかもしれない。
 「佳」という字は、文言文の、それもわりあい古い時代から抽象的な意味あいを持ったことばであるように見えるところが、興味深い。『楚辞』「大招」、「姱修滂浩,麗以佳只。



冨谷至 『中華帝国のジレンマ 礼的思想と法的秩序』

2016年09月25日 | 抜き書き
  主権者が定める準則・命令、成文法を絶対とする、これはいわゆる法実証主義にほかならず、人間の善なる性を前提とする自然法とは根本的に相容れない考えである。性善説に縛られず、また天と人との分離を宣言した荀子、韓非にあっては、立法権を有する君主が定める成文法規のみに依存する現実主義、法実証主義へと傾斜すること、理の当然と言ってもよいかもしれない。〔中略〕さらにこのことを言っておこう。荀子から韓非へ、そして秦漢からはじまる律と令、それはきわめて現実的かつ現世的な法規であり、そこには神明は存在しないとも。 (「Ⅱ 中国古代法の成立と法的規範」 本書133頁。下線は引用者、以下同じ)

 荀子の礼論の背景には、自然 (nature) としての天と、人間の性 (human nature) との相関関係の否定があった。礼は自然に人性に備わっているのではなく、外から規範として人為的に創作されたもので、情欲を抑制し、人間を理性的にかつ善なる方向に教化するものとした。
 それは、荀子の教えを受け継いだ韓非の法理論へと踏襲されていく。韓非の法は、為政者が制定した度量衡的基準であり、それでもって犯罪を測り、決められた刑罰を適用するためのマニュアルであった。荀子や韓非の説く礼と法は、ともに人間の放恣な行動を制御し、社会の安定秩序を目した手段にほかならず、両者の違いは放恣な行動を未然の段階で教化によって防ぐか、犯罪が起こってから制裁という形で処理して、そこから一般予防、秩序の安定をはかるかにあった。しばせんは、それをこう一条で説いている。
  夫(そ)れ礼は未熟の前に禁じ、法は已然の後に施す。 (『史記』太史公自序)
 (「総論」 本書206-207頁)

(筑摩書房 2016年2月)