2009年12月02日「
竺沙雅章監修 間野英二編 『アジアの歴史と文化』 8 「中央アジア史」 から」より続き。
「第2部 トルコ系民族」を中心に読む。
ムタル・エルマトフという学者は、その著『ウズベク族の起源と形成』(1968年)のなかで、中央アジアでは紀元前3000年ないし2000年にトルコ系諸民族が出現し、同時期に同地域における遊牧と定着農耕が成立したという。さらにエルマトフによれば、スキタイもサカもトルコ系であり(イラン系もなかにはいたが)、はては月氏もクシャン朝も、エフタルもみなほとんどトルコ系であるという。突厥はいうもがなである。
これだけでもすでに謬論だが、さらに、加藤九祚氏の要約に従えば、彼は、「中央アジアにははるかな昔からトルコ系(主として中央アジア北部)とイラン系(主として中央アジア南部)の住民が共存し」ていたのであり、「しだいにトルコ系が優勢を占めた」と主張する。そして、その結論として、「十―十二世紀には中央アジアの地に、のちにウズベクと呼ばれるようになったトルコ系民族とタジクと呼ばれるようになったイラン系の民族が形成された」となる(加藤九祚「第Ⅱ章 中央アジアとシベリアのトルコ民族」)。
つまり、「古ウズベク族」「古タジク族」ともよぶべき二つの実体が、紀元前3000年もしく2000年の昔から存在し、その間、隣接しながら混淆も融合もおこなわれず、5000年あるいは4000年の時をそのままに過ごして別個の存在のままこんにちの「ウズベク民族」「タジク民族」へと至ったということだ。妄言にちかい。
十―十二世紀のカラ・ハーン朝の時代に、現在のウズベク共和国(ウズベキスタン)においてトルコ系言語が住民の共通語になり、一二二一年、中央アジア全土がチンギス・ハーンの支配下に入ったことはこの傾向を強めたと彼は強調している。 (「中央アジアとペルシアのトルコ系民族」 本書213頁)
なるほどこれではティムールがウズベク族の英雄になってもおかしくはない。バリバリのモンゴル人にして不信者であるチンギス・ハーンまで恩人扱いでは、おなじくモンゴル人(バルラス部)でもサマルカンド近郊で生まれ、言語風俗もトルコ=テュルク人化した、もちろんイスラームであるところのティムールを同胞扱いするなど造作もないことだろう。
本の出版年月を見ればわかるが、エルマトフは旧ソ連時代の学者である。ソ連崩壊後のウズベキスタンの民族観、歴史観は、基本的に旧ソ連時代のままであるらしい。学問が政治に奉仕する伝統を含め。
(山川出版社 1990年6月1版1刷 1992年8月1版2刷)