書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

間野英二/堀直/中見立夫/小松久男著 『内陸アジア』

2012年10月17日 | 地域研究
 コンパクトだが事実の沢山盛られた内容。その分、すこし記述の密度が濃くて読みにくいかもしれない。
 それは別として堀直氏の「中国と内陸アジア」。(現代)ウイグル人について、「民族が国境によって創られた」「発明」と形容している(170頁)。
 
 〔...〕民族問題の解決を急ぐ大国の国家のための政策決定のほうが、彼ら〔新疆地域のムスリム〕よりも先を進んでいた。すでに言語によるトルコでの、生業・居住区分によるソ連での民族の画定が、人種をも無視して、進んでいたのである。これらを参考に、新疆での彼らの答えのひとつがウイグルの名の発明であった。実は今まで本書で使ってきたウイグルとは、一九二一年ソ連のタシュケント市で開かれた諸民族会議で提唱され、一九三四―三五年頃、〔略〕盛世才(一八九五―一九七〇年)の親ソ政策の時期から公用されはじめ定着していった民族名である。〔略〕要するに中国支配の下のトルコ系イスラーム教徒がウイグルとなったわけで、民族が国境によって創られたということができる。 (同上)

 実際には「中国支配の下の(あるいはもと中国支配の下にあった)トルコ系イスラーム教徒」によるウイグルの名の提唱は、もうすこし以前から始まるようだが、基本的に事実関係としてはこうなのだろう。しかし1921年の会議は、ここではタシュケントだが別の文献ではアルマアタ(現アルマトィ)とされていたり、どうもはっきりしない。

(朝日新聞 1992年7月)

NHK「新シルクロード」プロジェクト編著 『NHKスペシャル 新シルクロード』  1 から

2010年03月06日 | 抜き書き
 副題「楼蘭 四千年の眠り トルファン 灼熱の大画廊」。

 しかし、やがて王室はこの地を離れ、十四世紀も末になると、トルファン地域もついにイスラム帝国の支配下となる。一五〇〇年近くこの地で繁栄した仏教は滅び去った。/この地から仏教徒がいなくなると、ウイグルという呼び名も長らく忘れさられていた。/トルファンの人は、自分たちのことを、「トルファン人」とだけ呼んでいたのだ。/ウイグルという呼び名がひろく復活したのは、実は、二十世紀になってのことである。それは、為政者である中国共産党の思惑も複雑にからんだ復活であった。そして、一九五五年、中華人民共和国最大の自治区として、八〇〇万人を超すウイグル族を中核とする新疆ウイグル自治区が生まれたのだ。 (「十 忘れられた仏教王国 民族の十字路トルファン」 本書191頁)

 NHKを媚中だという向きもあるが、それはちょっと一般化がすぎるだろうという例証。「ウイグル」の名の(民族ではない)復活は、「おそらくはソ連共産党の思惑も複雑にからんだ」とでもすべきところを、「中国共産党の」とするまでに、中国を“敵視”しているではないか。
 この呼称がロシア人のトルコ学者マローフによって提唱された1921年は、中国共産党はまだ中国の為政者ではなかったし、中国(新疆省)でこの民族名が正式に採用された1935年においても、同様。

→2009年12月12日「濱田正美 『モグール・ウルスから新疆へ 東トルキスタンと明清王朝』 を読んで
→2009年12月03日「竺沙雅章監修 間野英二編 『アジアの歴史と文化』 8 「中央アジア史」から ④

(日本放送出版協会 2005年2月)

護雅夫/岡田英弘編 『民族の世界史』 4 「中央ユーラシアの世界」

2009年12月10日 | 東洋史
 2009年12月02日「竺沙雅章監修 間野英二編 『アジアの歴史と文化』 8 「中央アジア史」 から」より続き。

 「第2部 トルコ系民族」を中心に読む。
 ムタル・エルマトフという学者は、その著『ウズベク族の起源と形成』(1968年)のなかで、中央アジアでは紀元前3000年ないし2000年にトルコ系諸民族が出現し、同時期に同地域における遊牧と定着農耕が成立したという。さらにエルマトフによれば、スキタイもサカもトルコ系であり(イラン系もなかにはいたが)、はては月氏もクシャン朝も、エフタルもみなほとんどトルコ系であるという。突厥はいうもがなである。
 これだけでもすでに謬論だが、さらに、加藤九祚氏の要約に従えば、彼は、「中央アジアにははるかな昔からトルコ系(主として中央アジア北部)とイラン系(主として中央アジア南部)の住民が共存し」ていたのであり、「しだいにトルコ系が優勢を占めた」と主張する。そして、その結論として、「十―十二世紀には中央アジアの地に、のちにウズベクと呼ばれるようになったトルコ系民族とタジクと呼ばれるようになったイラン系の民族が形成された」となる(加藤九祚「第Ⅱ章 中央アジアとシベリアのトルコ民族」)。
 つまり、「古ウズベク族」「古タジク族」ともよぶべき二つの実体が、紀元前3000年もしく2000年の昔から存在し、その間、隣接しながら混淆も融合もおこなわれず、5000年あるいは4000年の時をそのままに過ごして別個の存在のままこんにちの「ウズベク民族」「タジク民族」へと至ったということだ。妄言にちかい。
 
 十―十二世紀のカラ・ハーン朝の時代に、現在のウズベク共和国(ウズベキスタン)においてトルコ系言語が住民の共通語になり、一二二一年、中央アジア全土がチンギス・ハーンの支配下に入ったことはこの傾向を強めたと彼は強調している。 (「中央アジアとペルシアのトルコ系民族」 本書213頁)

 なるほどこれではティムールがウズベク族の英雄になってもおかしくはない。バリバリのモンゴル人にして不信者であるチンギス・ハーンまで恩人扱いでは、おなじくモンゴル人(バルラス部)でもサマルカンド近郊で生まれ、言語風俗もトルコ=テュルク人化した、もちろんイスラームであるところのティムールを同胞扱いするなど造作もないことだろう。
 本の出版年月を見ればわかるが、エルマトフは旧ソ連時代の学者である。ソ連崩壊後のウズベキスタンの民族観、歴史観は、基本的に旧ソ連時代のままであるらしい。学問が政治に奉仕する伝統を含め。

(山川出版社 1990年6月1版1刷 1992年8月1版2刷)

竺沙雅章監修 間野英二編 『アジアの歴史と文化』 8 「中央アジア史」から ④

2009年12月03日 | 抜き書き
 元来タリム盆地のオアシス定住民は,固有の民族名称を持たず,異教徒に対してはムスリム,異邦人に対してはイェルリク(土地の者)と称するのみであった。事柄は東トルキスタンに固有の現象ではなく,西トルキスタンの定住地帯においても同様であった。しかし,ソ連で「民族的境界区分」のために民族とその自治領土の確定がいわば人工的に強行されると,ソ連に在住していた東トルキスタン出身者(その多くは1881年にイリ渓谷から移住した人々およびその子孫)は,トルコ学者セルゲイ・マローフの提案に基づいて、古代のウイグルという名称を復活させて,自らこれを名乗ることを決定した。1921年アルマアタでの出来事である。以後この名称は,新疆でも次第に知られるようになり,1935年には公式に採用され,その際に維吾爾という漢字表記も決定された。新たな民族名称は,タリム盆地の人々の民族意識が結晶する核となった。 (濱田正美「Ⅲ 現代の中央アジア 1 中央アジアと中華民国および人民共和国」 本書201頁。太字は引用者)

 *“1881年にイリ渓谷から移住した人々”とはつまりタランチのことであろう。
 *学究であったマローフがどうしてこんな畑違いの政治的な言動に出たのか、不明。

(同朋舎 1999年4月)

竺沙雅章監修 間野英二編 『アジアの歴史と文化』 8 「中央アジア史」から ③

2009年12月02日 | 抜き書き
 15世紀中ごろから16世紀にかけて、ウズベク、カザフ、オイラト、キルギズなどの遊牧勢力が拡大していく中で、もっとも大きな影響を受けたのは、天山からセミレチエ方面を支配していたモグーリスターン・ハーン国であった。モグール遊牧民のなかには、ハーンのもとを離れて新勢力に合流する者も多かったが、15世紀末には、ユーヌスの子マフムード・ハーンがタシュケントを支配し、その弟のアフマド・ハーンは東方ヘ勢力を伸ばしてトゥルファンを征服するなど、依然として中央アジアの一大勢力であった。しかし、1503年に両ハーンがシャイバーニー・ハーンと戦って敗れると、国は弱体化し、モグールらはタリム盆地のオアシス地帯へと移住せざるを得なくなった。
 アフマドの次子サイード(在位1514-33)はカーシュガルからヤルカンドに進出し、ヤルカンド・ハーン国を設立した。そして、17世紀初頭までに、タリム盆地のオアシス都市は、チャガタイ家のハーンを戴くモグールの支配下に入った。しかし、14世紀中ころには16万あったというモグールも、16世紀中葉にはわずか3万人に減少したといわれ、ハーン権力は、アミール〔地元部族の指導者〕たちの台頭もあって必ずしも安定したものではなかった。
 オアシス住民に大きな影響力を持っていたのは、ナクシュバンディー教団の指導者たちであった。とくに、16世紀にカーシュガルにやってきたイスハーク・ワリーと、17世紀中ごろ新たにやてきたアーファークをそれぞれ教祖として教団が組織された。教団の指導者はホージャと呼ばれ、各方面からの寄進を受けて経済的にも強力となった。17~18世紀には、彼らの権威はハーン権力と並ぶほどであったといわれる。
 このようにして、タリム盆地のオアシス地帯においても、16世紀以降徐々に、今日につながる新ウイグル民族の社会が形成されていったのである。 (堀川徹「Ⅳ 民族社会の形成 民族形成の動き」 本書154-155頁)

 モグーリスターン・ハーン国はもとの東チャガタイ・ハーン国。モグールはモンゴルの訛。西チャガタイ・ハーン国(のちティムール帝国、ついでシャイバーン朝)とおなじようにイスラム化・テュルク化がすすんではいたが、西チャガタイ・ハーン国とは異なり、その名が示す通り、モンゴル的な遊牧民としての伝統をまだ色濃く残していた。
 ここでも16世紀が画期とされている。東西トルキスタンは人文地理的に一つで、連動していたからといえばそれまでだが・・・・・。
 いずれにせよである、彼らモグール人もまた、現代ウイグル人の直接の祖先の一つであるということだ。

(同朋舎 1999年4月)

竺沙雅章監修 間野英二編 『アジアの歴史と文化』 8 「中央アジア史」から ②

2009年12月02日 | 抜き書き
 ティムールとその後裔が、中央アジアからイランにまたがる地域を支配していたころ、北方の草原地帯において遊牧民たちが新たな民族形成をなしとげつつあった。その一つがウズベク族で、現在のウズベク族と区別して、遊牧ウズベク族とも呼ばれる。 (堀川徹「Ⅳ 民族社会の形成 民族形成の動き」 本書150頁)

 以下の第二の引用を見れば解るが、現代のウズベク人と当時のウズベク人は同じものではない。後者が前者の祖先のひとつとなったことはたしかだが。

 シャイバーン朝は、ハーンやスルターンたちに率いられたウズベク遊牧軍団の軍事力に支えられた国家であった。〔略〕彼らは、タシュケント周辺、ザラフシャン渓谷やカシュカ河・スルハン河地域に駐留したほか、多くがアム河を渡ってアフガニスタン北部へと移っていった。〔略〕
 遊牧ウズベク族が移住した当初、ウズベクという呼称はオアシス定住民を意味するサルトの反対語として用いられ、粗野で文化水準の低い彼ら遊牧民を、侮蔑する意味も含んでいた。しかし、やがてこの征服者=遊牧民の呼称が、元からの定住民をも含めた民族呼称として使われるようになった。現在のウズベク民族はこうして形成されていったのである。 (堀川徹「Ⅳ 民族社会の形成 シャイバーン朝時代の社会と文化」 本書160頁)

 遊牧ウズベク族の中央アジア移住、シャイバーン朝(シャイバーニー朝)の成立は大体15-16世紀頃である。
 この説明では、現代の“ウズベク民族”のなかに、なぜサマルカンドのウズベク人のように、ウズベク語(と名付けられたテュルク語の一種)よりもむしろタジク語(と名付けられたペルシア語の一種)を母語とする人々も多く含まれているのかという問いに、十分には答えることができない。

 ちなみに、遺伝子的には、現在のウズベク人は、インド・ヨーロッパ系よりもモンゴル・テュルク系の要素のほうが強いらしい。

  The Uzbeks are descended to a large degree from Turkic invaders whose invasions span literally millennia from the first millennium AD with the early migrations of the Göktürks to later invasions by the Uzbeks themselves during the early and mid period of the 2nd millennium. Throughout the centuries, these migrating Altaic peoples began to outnumber the native Iranian people of Central Asia and appear to have assimilated the vast majority through intermarriage, while mainly the Tajiks survived albeit with some Turk intermingling as well. Thus, in the case of Uzbekistan and most other Central Asian states, it was not only a process of language replacement, such as what took place in Turkey and Azerbaijan, but also a mass migration and population replacement that helped to shape the modern Turkic people of Uzbekistan and other Central Asian states. (『Wikipedia』「Uzbeks」 太字は引用者)

(同朋舎 1999年4月)

竺沙雅章監修 間野英二編 『アジアの歴史と文化』 8 「中央アジア史」 から

2009年12月02日 | 抜き書き
 民族主義の高揚が,民族の歴史の「再発見」,より有り体にいえば「都合のよい創造」を伴うことは,ほとんど全ての国民国家がその形成期において経験した現象である。現在の新疆では,就中ウイグルとカザフにこの現象が顕著に認められる。いずれの場合にもその民族神話としての歴史は,さまざまな民族集団が融合分離を繰り返しつつ現在のウイグルなりカザフなりの民族を形成したという歴史的時間軸を180度転倒させ、歴史の出発点に「古ウイグル人」や「古カザフ人」を措定するところに成立する。あるウイグル民族主義者は,今から8000年前に「東は大興安嶺、西は黒海,北はアルタイ,南はヒマラヤ」の間に「古ウイグル人」が存在したとし,中央アジアの歴史は要するにウイグルの歴史にほかならないと主張した。 (濱田正美「Ⅲ 現代の中央アジア 1 中央アジアと中華民国および人民共和国」 本書208頁。太字は引用者)

(同朋舎 1999年4月)

間野英二 『中央アジアの歴史』 ②

2009年11月24日 | 東洋史
 定住化したモグールのハーンと、イスラム神秘主義教団の首長を支配階級の最上級にいただいたタリム盆地のオアシス定住社会は、一六世紀以降、徐々に新ウイグル語と呼ばれる共通のトルコ語を成熟させ、現代につながる新ウイグル民族社会を形成していった。 (「第6章 変貌する中央アジア」 本書193頁)

 「モグール」とはモグーリスタン・ハーン国、「イスラム神秘主義教団」とはナクシュバンディーヤ教団のこと。モグーリスタン・ハーン国はチャガタイ・ハーン国が14世紀にパミール高原を境に東西に分裂したその東半分、東チャガタイ・ハーン国の後の名である(西半分の西チャガタイ・ハーン国は、のちティムール帝国となる)。
 しかし、この説明は、この本が出版された当時に行われていたソ連の中央アジア民族形成史の公式理論に引きずられてはいやせんか。それによれば、ソ連領中央アジアの諸民族は14-16世紀に形成されたことになっていた。もっともソ連崩壊後も独立した中央アジア諸国は基本的にこの公式理論を踏襲しているが。

(講談社 1977年8月第1刷 1985年10月第11刷)

間野英二 『中央アジアの歴史』

2009年11月23日 | 東洋史
 「新書東洋史」シリーズ第8巻。

 中国人による〔中央アジアオアシス地帯の〕政治的支配(「西域経営」という)は、前一世紀のいわゆる西域都護による約七〇年の支配とか、紀元一世紀の末から二世紀のはじめにかけての有名な班超(三二~一〇二)、班勇父子によるおよそ二〇年あまりの支配、さらに七世紀中葉より八世紀なかばに至る、約一〇〇年間の安西都護府による支配をのぞいて、直接的支配と呼ぶべきものは見られなかったからである。/しかも、中国人のこの地帯への政治的進出は、八世紀なかばに行なわれた有名なタラスの戦いにおけるアラブ人にひきいられたイスラム勢力の軍勢に対する完敗を境として、一応の終止符が打たれ、以後、一八世紀の清朝による中央アジア統治まで、およそ一千年の間、中国人がこの地帯を直接に支配することはなかったからである。 (「第3章 屈服と共存」 本書78-79頁)
 
 これが事実である。中央アジアは、中国よりも遊牧民族・国家に支配された時期のほうがはるかに長い。中央アジアをその歴史上、たえず脅かしたのは、東の中国人ではなく、北の遊牧民だった。
 “新疆ウイグル自治区は古代から中国の不可分の一部であり”などとは到底言えないのである。

 中央アジアのイスラム化は、カラハン朝(9世紀中頃 - 1212年)に負うところがおおきいらしい。ホータン、カシュガルといったタリム盆地西部はそれまでまだイスラム教が浸透していなかったが、カラハン朝はジハードを含む積極的な布教活動によって、イスラム化を推進した。ただしこの時代に実際に完全にイスラム化したといえるのは主としてパミール高原以西のオアシス都市部についてらしい。
 またこの王朝は、テュルク系として最初に中央アジアに定住して国家を形成した存在である。東に境を接するおなじくテュルク系民族のウイグル人が定住化して建てた天山ウイグル王国(11世紀-13世紀、マニ教・仏教国)とともに、中央アジアのテュルク化は、この二つの王朝のもとでおおいに進んだされる。

(講談社 1977年8月第1刷 1985年10月第11刷)