『風俗史学』52、2013年5月、同誌6-29頁。
1609年薩摩侵攻後の琉球では、日本・中国、そして先島諸島への出張を、日本語文書では「旅役」と称した。琉球王府では伝統的に日・漢両言語が文書言語として用いられていたが、ただしこの時期、羽地朝秀の日本化政策により、日本語の比重がまし、その結果日本式の公式文書形式や書風その他、様々な日本の技術・学問・芸能の習得に努力が傾注されるようになった。琉球王府役人の旅役(“大和旅”)の一環としての薩摩への諸芸留学(“稽古”)は、その背景下で行われたものである。儒学すら、中国でなく日本で学ぶほうが上達が早いとして(主として言語的原因の由)、日本での学習が好まれる傾向があったという。この情況は羽地の死後も続く。
1609年薩摩侵攻後の琉球では、日本・中国、そして先島諸島への出張を、日本語文書では「旅役」と称した。琉球王府では伝統的に日・漢両言語が文書言語として用いられていたが、ただしこの時期、羽地朝秀の日本化政策により、日本語の比重がまし、その結果日本式の公式文書形式や書風その他、様々な日本の技術・学問・芸能の習得に努力が傾注されるようになった。琉球王府役人の旅役(“大和旅”)の一環としての薩摩への諸芸留学(“稽古”)は、その背景下で行われたものである。儒学すら、中国でなく日本で学ぶほうが上達が早いとして(主として言語的原因の由)、日本での学習が好まれる傾向があったという。この情況は羽地の死後も続く。