どちらも偶然ながら、中公文庫。
孔融(153-208)とキケロ(前106-前43)は厳密には同時代人ではないが、後世の粗雑な眼からは、東西ところは違えど近接した時代の人と見える。その錯覚のうえに立つと、行蔵まで似ているように見えてくるから不思議である。
孔融は、おのれの文才と孔子の子孫という自らの家柄を恃んで成り上がり者曹操を見下し、公私に渉って強烈な嫌みを言い続けた結果、ついに堪忍袋の緒が切れた曹操によって一家もろとも殺された。
キケロは、当時のローマ政界の三実力者カエサル、アントニウス、オクタビアヌスを全て、自身の文才と雄弁の才に任せて批判した。カエサルの暗殺を支持し、オクタビアヌスを「トレンドゥム(「誉むべき」の意味。ただし「殺すべき」という意味もある)」と皮肉り、かと思えばアントニウスを潰すためにそのオクタビアヌスを持ち上げて公開演説でアントニウスを糞味噌に貶したあげく、怒った当人が放った刺客に殺された。死体から頭と片手を切り取られてそれをローマの広場で晒されるという、凄惨きわまりない最期だった。その際、さきに言わでもの嫌みを言ったおかげで、自分が肩入れしていたオクタビアヌスは助けてくれなかった。
両人とも結末は覚悟の前だったのだろうが、自業自得としか評しようがない。もし"イチビリ”という形容が当てはまるとしても、すいぶんと腰の据わったイチビリではあったろう。
孔融(153-208)とキケロ(前106-前43)は厳密には同時代人ではないが、後世の粗雑な眼からは、東西ところは違えど近接した時代の人と見える。その錯覚のうえに立つと、行蔵まで似ているように見えてくるから不思議である。
孔融は、おのれの文才と孔子の子孫という自らの家柄を恃んで成り上がり者曹操を見下し、公私に渉って強烈な嫌みを言い続けた結果、ついに堪忍袋の緒が切れた曹操によって一家もろとも殺された。
キケロは、当時のローマ政界の三実力者カエサル、アントニウス、オクタビアヌスを全て、自身の文才と雄弁の才に任せて批判した。カエサルの暗殺を支持し、オクタビアヌスを「トレンドゥム(「誉むべき」の意味。ただし「殺すべき」という意味もある)」と皮肉り、かと思えばアントニウスを潰すためにそのオクタビアヌスを持ち上げて公開演説でアントニウスを糞味噌に貶したあげく、怒った当人が放った刺客に殺された。死体から頭と片手を切り取られてそれをローマの広場で晒されるという、凄惨きわまりない最期だった。その際、さきに言わでもの嫌みを言ったおかげで、自分が肩入れしていたオクタビアヌスは助けてくれなかった。
両人とも結末は覚悟の前だったのだろうが、自業自得としか評しようがない。もし"イチビリ”という形容が当てはまるとしても、すいぶんと腰の据わったイチビリではあったろう。