書籍之海 漂流記

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「荻生徂徠『論語徴』、韓国で初めて完訳」(上・下) から

2011年02月01日 | 抜き書き
▲「Chosun Online 朝鮮日報日本語版」2011/01/30 02:52:20・02:52:26、金翰秀(キム・ハンス)記者。(部分)
 〈http://www.chosunonline.com/news/20110130000001
 〈http://www.chosunonline.com/news/20110130000002

 荻生徂徠は、『論語』を正しく解読するためには、『論語』よりも古い文献や、『論語』が書かれた時代の文献と比較しながら読み進めなければならないと主張した。荻生徂徠は、『論語』二十編を甲から癸までの十編に分け、ユニークな解釈を加えた。まず、『論語』の冒頭にある一文、「学びて時に之を習う、亦説(よろこ)ばしからずや。 朋(とも)有り遠方より来たる、亦楽しからずや。 人知らずして慍(いか)らず、 亦君子ならずや(学而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎)」に対する解釈から見てみよう。荻生徂徠は、「朋」を「友人」ではなく「弟子」、「人」を「他人」ではなく「上司」と解釈した。また、『論語』の中核思想である「仁」については、「愛之理、心之徳」とする朱子の解釈とは異なり、「人々を安んずること(安民)」と解釈した。さらに「聖人を手本として、全く同じ聖人になろうとする欲に陥っているのが朱子の過ち。聖人とは、学ぶことでなせるものではなく、手本にできるものでもない」と主張した。(下)

 『論語徴』から1世紀後に完成した〔丁若の〕『論語古今註』は、その名の通り、漢・唐、宋・明時代の中国の学者から伊藤仁斎、太宰春台といった江戸時代の日本の学者による註釈まで、『論語』に関する重要な解釈を網羅している。もちろん、荻生徂徠も検討の対象になっている。句節ごとに異なる学者の『論語』解釈を紹介し、最後に「補曰」「駁曰」などの形で自分の意見を提示した丁若は、荻生徂徠ほどユニークではないが、朱子の『論語』解釈には批判的だ。丁若もまた、「仁」を抽象的・形而上学的な原理ではなく、具体的な実践行為(行事)と理解している。朱子が『論語』を過度に観念化・抽象化している、というのが丁若の主張だ。(下)

 丁若はやはり荻生徂徠を読んでいたのか。姜在彦氏はちゃんと指摘されているのかもしれない。こちらの鈍才と視野狭窄のせいでアンテナにひっかからなかったのだろう、たぶん。氏の研究をおさらいしたほうがいいらしい。学而時習之・・・。