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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

広瀬元恭 『理学提要』(1856・安政三年)

2013年10月27日 | 自然科学
 (京都大学附属図書館所蔵 富士川文庫セレクト [理学提要])

 青地林宗『気海観瀾』(1825・文政八年)について、「難しい内容を記しているのに言葉が足らず、その上書くべき内容をとばしている時もある」と批判するのだが、自身も随分文章が読みにくい。この版本では訓点が施されており、それが目に障って気が散るせいかとも思ったが、どうも行文自体が拙いようだ。書いた広瀬本人も、「自分は文章(漢文)が下手だ」と言っている。
 どうやら、こんにちであれば高校の教科書に参考書程度の漢文の文法知識と、四書とそれからせいぜい十八史略程度の文言文の語彙量の上に、日本漢語(学術語含む)を載せて走らせたもののように思える。中学生か出来の悪い高校生の長文英作文みたく、調子がガクガクなのである。
 それはさておき、内容についてメモしておく。
 「総論」。ニュートン力学の説明等あり。「理」は完全に「物理(自然法則)」のみの意味で用いられている。「分子」「重力」他、志筑忠雄の訳語をそのまま使っている。ただ独自の訳語もあるような。原子(「元素」)の概念と存在についても言及。「理科」という言葉が見える。
 「巻一 大気」。「秒」の語がみえる。ただし「本邦の半時を六十分したその一を秒という」とわざわざ割注で説明しているから(この原書は(ひいては訳書も)初学者向けだと最初に断ってある)、一般には知られた言葉でも概念でもなかったのだろう。
 「巻二 水」。当然のことだが、「理」は「論理」の理としても用いられる。「理として然り」など。これは形式論理の意であり、やはり倫理的規範の謂ではまったくない。同じく、「性」は「性質」の性であって「性即理」の性ではない。
 「巻三 土」。「風土」「地理」という言葉が出てくる。どちらも歴とした漢語だが、ここではその上にclimate, geographyという新しい意味が被さって使われているのが興味深い(ただし完全には本来の意味が払拭されたわけではないようだ)。「原因」はcauseの意味で使用されている。

川本幸民 『気海観瀾広義』 坪井信良 「序」(1851・嘉永4年刊)

2013年10月27日 | 自然科学
 (古典籍総合データベース - 早稲田大学) 

 漢文。「理」とは天地の運行、人や動物の生き死に、土や水の変化、草木の繁り枯れる様に金属の硬柔、これら万物の自ずから有する至妙の理である、これ以外に在らずと言い切っている。そしてそれを学び究めるのが理科の学であるとも。

李有棠 『遼史紀事本末』

2013年10月27日 | 東洋史
 同じ撰者の『金史紀事本末』同様、「攷異」(考異)のかたちで関係史料あるいはそれらの関係部分が当時としてはおそらくは網羅的に集められているのがとても有用であり、有難い。
 しかしそれにしても、西遼は本当に漢文史料が少ないと痛感する。この国についてはこの書の最後(巻四十)に「耶律達実〔大石〕之立」として纏められてい、「攷異」部分で『十駕齋養新録』のような清代の考証物まで掻き集めてあるのだが、それでもあまりない。

(北京 中華書局 1983年1月 全2冊)

李有棠 『金史紀事本末』

2013年10月27日 | 東洋史
 金代史といいながら、政治と軍事の話(宋ほか対外のそれを含む)ばかりである。そうでないのは「河決之患」(巻三十三・黄河の治水対策)だけで、この本からはそれ以外の金朝時代の事情はさっぱりわからない。出版された当時の評判は、過褒であろう。そのことと金代女真人の後裔である満洲族王朝の清代という時代的背景とが関係しているのかどうかは判らない。
 『金史』「煕宗紀」には、煕宗が南宋の高宗を皇帝に封ずる詔が載っていないが、『金史紀事本末』には「攷異」で、『弘簡録』からとして、冊文を引用している。それによれば、「冊爾為帝、国号宋、世服臣職(汝を冊して帝と為す、国号は宋なり、世々臣職に服せ)」と、国号まで決めて貰った体裁になっている。

(北京 中華書局 1980年8月 全3冊)

ジョン・カサヴェテス監督 『グロリア』(1980年)

2013年10月25日 | 映画
 シャロン・ストーン主演のリメイク(1999年)ではなくてオリジナルのほう。
 ジーナ・ローランズという女優さんは、『ナイト・オン・ザ・プラネット』(ジム・ジャームッシュ監督、1991年)でしか知らないのだが、10年以上前に撮られたこちらのほうが老けて見える。人生に疲れた中年女の演技だったということだろうか。
 宮崎駿監督が何かの対談で、この映画について触れて、主人公も連れて逃げている男の子も、本当はどちらも死んでいると言っていた。私が自分の目で観てみた感想は、男の子は解らないが、グロリアのほうはまずそうだろうというものだった。宮崎監督が言うように、最後グロリアを運んでくるリムジンにネームプレートがないのは異常である。それに、マフィアのボスの部屋からあの状況で、あのエレベーターで逃げられたとは思えない。最初に一階からそのエレベーターを使って部屋へ上がる際に、「遅い」と主人公がわざわざ文句を付けているのは、これから起こる真の結果をそれとなく示すためかと思えた。最初から映画の結末を知っているが故の我田引水の深読みかもしれないが。
 男の子――フィル――のほうも死んでいるのかもしれない(つまりその場合、ラストシーンのピッツバーグ墓地での再会はあの世での話、あるいはそうあってくれればいいなという観客にとっての夢の部分ということになる)。だがそうではないかもと思うのは、その墓地で、フィルがある墓石に向かい、その墓石をグロリアに見立てて、"Gloria, I know you are dead. I want you to know that I know you are dead. I made it to Pittsburgh..."と語りかけるシーンがあるからである。

朱謙之整理 『朱舜水集』 上下

2013年10月24日 | 東洋史
 冒頭の「出版説明」で朱舜水(諱之瑜。舜水は号)のいわば“偉さ”の理由について、三つを挙げている。

 1. 「朱之瑜是明清之際出生於地主家庭的進歩思想家」(本書2頁)

 2. 「経世致用的思想」 (同上)

 3. 「中日文化交流之中做出」的「貢献」 (同上)

 つまり、
 1. 地主出身だが進歩的な思想を抱いていたから。
 2. 世の中の役に立つ実用的な思想の持ち主だったから。
 3. 中国と日本の文化的な交流において貢献を為したから。

 1については、よく解らない。意味があまりない発言とも思える。
 2については、「答野節問」(上巻、386-387頁)で窺える。空理空論ではなく、実際の現実の問題に即して事を論じるといった風である(注)。そして日々の生活や職務における、あるいはその必要に基づいた教えの実践・適用を重視する。(ちなみにこの「出版説明」ではさほど重視されていないが、日本に来る前の彼は、明復興の大義を掲げて諸方に奔走する志士・活動家だった事実も忘れてはならないだろう。)

 注。「巻十一 問答三 答野節問」の一節。

  太守以臨民為業,以平治為功,若欲窮盡事事物物之理,而後致知以治国平天下,則人壽幾何,河清難矣。故不若随時格物致知,猶為近之。至若「居敬」工夫,是君子一生本等,何時何時,可以少得?僕謂治民之官與経生大異,有一分好處,則民受一分之惠,而朝廷享其功,不專在理学研窮也。晦翁先生〔朱子〕以陳同甫〔陳亮〕為異端,恐不免過當。 (386頁)

 3については、これは2とも関連するのだが、水戸藩で水戸光圀の主として学問的な顧問もしくは師父となり、『大日本史』編纂その他の文化的な政策・事業に直接・間接に関与しつつ自身の儒学(朱子学)を体系的にその地に移植したこと、その結果創められた水戸学が江戸時代を通じて、また幕末ひいては明治後の日本においても、多大の思想的影響を行使したことを意味していることは、言うまでもない。それは確かに日中の文化的な交流における貢献であろう。

(北京 中華書局 1981年)

川本幸民訳述 『気海観瀾広義』巻一(1851・嘉永4年刊)

2013年10月23日 | 自然科学
 (古典籍総合データベース - 早稲田大学) 

 「真性」条。

 分子は微細無量にしてこれを分かつも終〔つい〕に涯際なき者か。或は己に気孔なく復〔また〕分かつべからずして。終に物質原始の成分となる者か。尚ほ知るべからず。蓋〔けだ〕し物質の界域至大なるが故に。人智未だ至らざる所あり。然れども其の終に分かつべからざるに至らば。暫〔しばらく〕これを気孔なく固硬なる原始の成分ありとすべし。(「分性」項。もと片仮名表記、〔〕内は引用者による読み)

 分子論について、原著の青地林宗『気海観瀾』(1827・文政10年刊)では記述が曖昧だった分子と原子の区別について、前者を存在が確認されているもの、後者をまだ仮説にすぎないものとして、明確に分けている。

井筒和幸監督 『パッチギ!』(2004年)

2013年10月23日 | 映画
 再見である。面白い。出演者には関西出身でない人もだいぶいるが、劇中交わされる関西弁はアクセントを含めてほぼまともだとの印象。関東出身の小出恵介さんや真木よう子さんの口跡が驚くほど自然であった。しかし京都弁かとなると微妙である。朝鮮語については、私自身ができないので判らない。
 いや、面白いでは失礼だろう。好い映画だった(素人だからあまりこういう言い方はしたくないのだが、ほかに表現が思いつかない)。
 それにしても沢尻エリカさん、この人のことはよく知らないのだが、いかにも京都弁らしい喋りだと感じた。それにシーン毎のしぐさがきめ細やかで、つまり演技の上での注意が行き届いていて、ただ者でないと思った。