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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

稲村賢敷 『琉球諸島における倭寇史跡の研究』

2011年05月19日 | 日本史
 司馬遼太郎氏の『街道をゆく』で教えられて、これも大学図書館で読む(館内閲覧)。
 著者もまえがきで断っているように、倭寇といっても、本土からの来訪者・移住者の謂いである。なぜなら、飛行機のない時代は海外で出るには船によるほかはないわけで、そして海外に出るのは漫然と船に乗るためではなくそれは大方は商業目的でありつまりは商人であった。そして当時の渡航商人というのは航路の安全が保障できぬ以上自衛手段として武装せざるをえなかった。くりかえすと海外に乗り出す日本人というのはほとんど倭寇と同意義だったのである。だからこの書は、つまりは琉球諸島における本土からの来航者および移住者史跡の研究ということなのだ。
 たとえば、私なりに印象深いその一例を挙げるとすれば、以前名の出た石垣島のオヤケアカハチと島内の覇権を競った仲間満慶(なかまみつけ)という勢力者の史実が関連遺跡とともに触れられるが、彼の父親は本土から来て土着した人間だったという。母親はサカエという土地の女性で、彼の名乗る“仲間”という名字は、母方のそれである。さらには仲間満慶がオヤケアカハチに殺されたあと、彼の余衆をまとめて率いたのは、“うるか屋まやまと”という人物だったそうだが、「まやまと」という名は、稲村氏の説明によれば、接頭辞「ま」+「やまと」、つまり「日本」という意味である。氏はそれ以上何も言っておられないが、この“うるか屋まやまと”も本土系の人間ではなかったか。そして、仲間満慶がもと率い、のち彼が引き継いだ集団も、本土の血や文化をひくグループではなかったかなどと、いろいろ空想が湧く。
 それにしても、司馬さんはこの本を読んで居られるはずであるのに、『街道をゆく』の文中、竹富島の祝詞で、「懐良」が「良懐」になっている理由がわからないと書いておられたのはどうしたわけだろう。そもそも南北朝時代の歴史を少しでも知っていれば、懐良親王が「日本国王良懐」として明の冊封を受けていたことは常識のはずである。それともここにはなにか微意があったのだろうか。

(吉川弘文館 1957年9月)

昇曙夢 『奄美大島と大西郷』

2011年05月19日 | 日本史
 ロシア・ソ連文学研究者にして『大奄美史』の筆者なら、学術的な研究であろうと思っていつもの大学図書館で借りたところ、ほとんど小説だった。著者もそれはわきまえていて、この手法が考えたうえで選択であったことを「序」で述べている。

 「謂はば、奄美大島の民族史乃至文化史を背景とした南洲翁の遠島物語といつたやうなもの」
 (本書4頁)

 もしかしたら先達がすでに指摘しているかも知れないが、いまひとつ、第二の目的として、西郷を救い親しくその世話をした沖永良部島(奄美群島の一)の人、土持政照の顕彰という意図もあったのではなかろうか。

 館内閲覧のみだったので、必要箇所をメモしてきたが、最後に出版月をチェックするのを忘れて帰った。

(春陽堂 1927年)

琉球新報社編 『新琉球史 近世編(下)』

2011年05月18日 | 東洋史
 執筆者は紙屋敦之、田名真之、豊見山和行、田里修、仲間勇栄、黒島為一、高良倉吉、糸数兼治の各氏。
 2011年05月16日「沖縄歴史研究会編 『新版 沖縄県の歴史散歩』」よりつづき。

 沖永良部島だけでなく、宮古・石垣諸島全体の人頭税が定額制であったことを知る(黒島為一「人頭税」)。問題は、税体制や税額・税率(ちなみに先島の税制は人頭税が基本だった)ではなく、琉球王府と庶民の中間にいる在島の役人達の恣意的な搾取(かれらの私有地耕作への勝手な夫役申しつけを含む)がより大きな原因であったこと。またそれに関連して、年齢性別などによる等級付はあったものの、各人均一を原則とする人頭税という税制の理念に対して不均衡な土地占有面積という現実との齟齬こそが、さらにその奥にある構造的な原因であったこと。
 人頭税は先島だけでなく、元来は沖縄本島でも施行されていた(17世紀末頃まで。その後も国頭郡の一部では残った)こと。
 八重山でのいわゆる間引きや強制移住なるものは、先に述べた役人の中間搾取のほか、甘藷の導入による人口の急激な増加(17世紀末から18世紀中頃の間に5倍に増えた)によるものでもあること。
 ちなみに、有名な与那国島のクブラ・バリや宮古平良のブ・バカリ石は、人頭税とは何の関係もない(後者は天体観測用か)らしい。
 まだ勉強中のメモ。

(琉球新報社 1990年3月初版 1998年5月第6版)

曹長青 「五四運動を否定するところから始めよう」 を読んで

2011年05月17日 | 思考の断片
▲「曹長青網站」2011-05-04、「从否定五四运动开始」
 〈http://caochangqing.com/gb/newsdisp.php?News_ID=1899

 もと『開放』2009年5月号掲載。

  即使不以法治观点,哪怕以最基本的伦理,政府官员再有错,甚至有罪,也不可家被砸,屋被烧,人被当众殴打。但当时太多的中国文化人为爱国这个群体主义(而非保护个人权利)的口号疯癫,只要是为了所谓人民、国家,怎样牺牲个体,都在所不惜;而且什麽手段都可以使用。从五四的火烧赵家楼,就可依稀看到後来毛泽东的湖南农民(实为暴民)运动的烧杀火光,更可看到文革红卫兵打砸抢的刀光剑影。共产党就是这样一路以“为国家”、“为人民”的群体主义口号,发动群众,暴力革命,最後夺取政权,实施集权统治。
  另一明显的事实是,陈独秀和五四,煽动起无数早期共产党人的造反激情,成为中共诞生的接生婆。两年後共产党就成立,绝非偶然。毛泽东就说过,对他来说,陈独秀“也许比其他任何人的影响都大”,甚至称陈是“思想界的明星”,高喊过“我祝陈君万岁!”所以,当陈独秀等人成为五四的主要精神领袖时,这场运动的性质就已决定,它是一场促成共产主义在中国兴起的运动,是给中国人带来共产专制的开端。
  其次,五四运动的两个主要口号“反帝反封建”更是把中国带向歧途。反帝,导致盲目排外、拒绝西方文明。把一切过错都推给西方列强,煽动义和团式封闭排外,而回避了真正的自身反省。今天人们看得更清楚,中国的问题主要出在自身∶传统文化中缺乏自由、尊严、个人权利等价值。成为一代代封建王朝御用文化的儒家文化,是根植在集体主义价值基础之上的。在一个极需引进西方个人主义思想、个人权利意识,从根基上反省中国落後的原因之际,中国知识份子却去煽动反帝,排斥和拒绝西方的先进制度。这场“反帝”煽动起来的民族主义狂热,至今仍是共产党继续一党专制的灵丹妙药,因为民族主义既是共产党热衷的集体主义、集权主义的最坚实基础,也是最有力工具。他们以此排斥西方文明、建立党天下,用“我们和他们”、“中国和外国”的对立,来混淆正确和错误,真实和虚假。


 『中国はなぜ「軍拡」「膨張」「恫喝」をやめないのか』でも、『新日本学』平成23年春号の論文でも、私は「中国のこんにちは五四運動の失敗にある」という立場に立っているが、曹氏は、そもそも五四運動そのものが中途半端で間違っていたと言う。
 私が科学的思考様式の重要性を説いたとして評価する陳独秀についても、陳のあれは口先だけの文飾、リップサービスで、陳自体は科学的思考様式(=科学)はおろか民主のなんたるかも理解していなかったとしてほとんど全否定している。

  而在中国,早在火烧赵家楼之前,据历史学家袁伟时引述的史料,五四运动的主要领袖陈独秀“辛亥革命前在日本留学,不满意清政府对留学生监督,几个人就将那个官员抓起来,陈独秀抱腰,其他人将他的辫子剪掉。当时将辫子剪掉可是大事。他就是这样很极端的人。” 男人留辫子,被他们视为代表封建的丑陋。但为了你认为的进步和美丽,是否就可以强行给人家剪掉?
  以目标正确的名义,剥夺他人权利,甚至践踏个体生命和自由,这就是自五四火烧赵家楼以来,中国共产党的理论和实践;也是人类所有暴虐的根源之一。因为近代历史的所有灾难,都是在“爱国” “为人民” 的“善” 的名义下发生的。早已有包括哈耶克在内的很多名家指出,“人类最深重的灾难,都是由好人以最正义的名义施行的。” 恶并不可怕,因为它一目了然,容易辨识;而在错误理论指导下的“善” ,才给人类带来更大的灾难。
  “火烧赵家楼” 开启了中国以“爱国” 名义剥夺个体权利、以“人民” 、“正义” 的名义实行暴力的历史。直到今天,“爱国” 仍不仅是中国政府最热衷高举的旗帜,更是令无数知识份子、年轻学生热血沸腾的春药。“火烧赵家楼” 的火,不仅仍在燃烧,更有无数文化人们在往里添柴、浇油。
  90多年了!在被“火烧赵家楼” 烧成一片人道主义荒漠的中国大地上,个人主义、个体生命、个人权利价值的概念仍鲜见萌芽,更不知要待何时才能生长出一片葱绿,最後覆盖那块土地。90多年了!一个多麽深重的悲哀!
 (「“火烧赵家楼”烧毁中国」

 劉暁波氏については、彼は馮道、汪兆銘の道を選んだのだとして曹氏の見地に異を立てることもできないではない(劉氏の個人的資質についての議論はしばらく措く)。だが陳独秀については、私は、曹氏の指摘する彼の言行不一致を認めざるをえない。

「ノーベル文学賞にスキャンダル=中国人作家が審査委員に金銭贈る―中国メディア」 を見て

2011年05月17日 | 思考の断片
▲「レコードチャイナ」2011-05-17 12:42:06、翻訳・編集/KT。
 〈http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=51372

 この Malmqvist という人は、以前からあまり芳しくない評のあった人だ。なぜいまさら騒ぐのだろうと、そのことがかえっていぶかしい。とうとう逃げられない尻尾をつかまれたということだろうか。

白石昌也 『ベトナム民族運動と日本・アジア』

2011年05月16日 | 東洋史
 福澤諭吉=「脱亜論」= アジア蔑視・侵略主張というステレオタイプ。巻末にベトナム語・中国語(漢文)・フランス語・英語などさまざまな外国語のおびただしい参考文献が挙げられているが、日本語の読解力は大丈夫か。『福沢諭吉全集』に収録された「時事新報」論説をそのまま福澤のものと見なしてしまっているのは、この研究が平山洋氏や井田進也氏の研究が出る前のものだから仕方がないにせよ、「処分」即“侵略・分割”とするなど、自分の目と頭でテキストを読んでいるかどうかが問題なのである。この人は、母語でも外国語でもいい、辞典を常に横に置いて、すこしでも解釈に自信がない、自分が知っている意味では文脈上腑に落ちない言葉があったら引くのだろうかと。

(巌南堂書店 1993年2月)

琉球新報社編 『新琉球史 近世編(上)』

2011年05月16日 | 東洋史
 執筆者は高良倉吉、紙屋敦之、豊見山和行、真栄平房昭、上原兼善、梅木哲人、田名真之、池宮正治の各氏。 
 向象賢(羽地朝秀)という人はおもしろい人だったらしい。これまで知っている限りの歴史上の人間像でいえば、中国北宋の王安石、我が国越後長岡藩の河井継之助と似ているような(高良倉吉「向象賢の論理」、梅木哲人「近世農村の成立」)。この人の政策文書集『羽地仕置』を直に読んでみたくなった。また田名真之氏の「近世久米村の成立と展開」もたいへん勉強になった。

(琉球新報社 1989年9月初版 1992年9月6版)

「シン・ミナ、バービー人形も顔負けの脚線美を披露」を読んで(私の僻目かもしれないが)

2011年05月16日 | 思考の断片
▲「中央日報 Joins.com」2011年05月16日09時45分。
 〈http://japanese.joins.com/article/946/139946.html?servcode=700§code=740

 この新聞のエンターテインメント欄を見ていると、韓国の俳優さんは肉体美ばかりを誇っているようにみえる。男性は腹筋であり、女性は脚線である。私はアン・ソンギやソル・ギョング、オ・ジョンヘといった人たちが好きなのだが、ここではとんと名を聞かない(ソル・ギョングはユン・ソナが結婚する時に相手としてよく名前が出た。2年くらい前)。ちょっと寂しい。

YouTube 「テキサス親父 中国漁船の巡視船への衝突ビデオが流出(字幕付き)」

2011年05月16日 | その他
http://www.youtube.com/watch?v=ncjObXGgJaw&feature=related

 字幕がときにうるさいが、内容のおもしろさはそれを補って余りある。
 "commie"(アカ)なんて言葉、ナマの人の口から聞くのは久しぶりだ。『キャノンボール2』(1984年)以来か(バート・レイノルズが言っていた)。いや『JFK』(1991年)でも誰か言っていたかな。ジャック・ルビーあたりとか。
 とにかく、1990年代の初めに私が居た米国中西部の町は、黒人は一家族しかおらず、日本人を含む東洋人は町にある唯一の私立の大学の構内にいるだけで町の人々とは日常接点はなく、町の住民はほとんど100パーセント中欧・東欧からの移民の子孫(つまり白人)で、文化的に均質度がたかく、他民族や他人種は、テレビや雑誌、本の写真でしか知らない存在だった。相手がいないのだから差別は起こりようもなく、当然、その種の差別用語も、まず聞くことはなかった。まったくなかったとは言わない。一度子供に"Jap!"と、石を投げられたことがある。