司馬遼太郎氏の『街道をゆく』で教えられて、これも大学図書館で読む(館内閲覧)。
著者もまえがきで断っているように、倭寇といっても、本土からの来訪者・移住者の謂いである。なぜなら、飛行機のない時代は海外で出るには船によるほかはないわけで、そして海外に出るのは漫然と船に乗るためではなくそれは大方は商業目的でありつまりは商人であった。そして当時の渡航商人というのは航路の安全が保障できぬ以上自衛手段として武装せざるをえなかった。くりかえすと海外に乗り出す日本人というのはほとんど倭寇と同意義だったのである。だからこの書は、つまりは琉球諸島における本土からの来航者および移住者史跡の研究ということなのだ。
たとえば、私なりに印象深いその一例を挙げるとすれば、以前名の出た石垣島のオヤケアカハチと島内の覇権を競った仲間満慶(なかまみつけ)という勢力者の史実が関連遺跡とともに触れられるが、彼の父親は本土から来て土着した人間だったという。母親はサカエという土地の女性で、彼の名乗る“仲間”という名字は、母方のそれである。さらには仲間満慶がオヤケアカハチに殺されたあと、彼の余衆をまとめて率いたのは、“うるか屋まやまと”という人物だったそうだが、「まやまと」という名は、稲村氏の説明によれば、接頭辞「ま」+「やまと」、つまり「日本」という意味である。氏はそれ以上何も言っておられないが、この“うるか屋まやまと”も本土系の人間ではなかったか。そして、仲間満慶がもと率い、のち彼が引き継いだ集団も、本土の血や文化をひくグループではなかったかなどと、いろいろ空想が湧く。
それにしても、司馬さんはこの本を読んで居られるはずであるのに、『街道をゆく』の文中、竹富島の祝詞で、「懐良」が「良懐」になっている理由がわからないと書いておられたのはどうしたわけだろう。そもそも南北朝時代の歴史を少しでも知っていれば、懐良親王が「日本国王良懐」として明の冊封を受けていたことは常識のはずである。それともここにはなにか微意があったのだろうか。
(吉川弘文館 1957年9月)
著者もまえがきで断っているように、倭寇といっても、本土からの来訪者・移住者の謂いである。なぜなら、飛行機のない時代は海外で出るには船によるほかはないわけで、そして海外に出るのは漫然と船に乗るためではなくそれは大方は商業目的でありつまりは商人であった。そして当時の渡航商人というのは航路の安全が保障できぬ以上自衛手段として武装せざるをえなかった。くりかえすと海外に乗り出す日本人というのはほとんど倭寇と同意義だったのである。だからこの書は、つまりは琉球諸島における本土からの来航者および移住者史跡の研究ということなのだ。
たとえば、私なりに印象深いその一例を挙げるとすれば、以前名の出た石垣島のオヤケアカハチと島内の覇権を競った仲間満慶(なかまみつけ)という勢力者の史実が関連遺跡とともに触れられるが、彼の父親は本土から来て土着した人間だったという。母親はサカエという土地の女性で、彼の名乗る“仲間”という名字は、母方のそれである。さらには仲間満慶がオヤケアカハチに殺されたあと、彼の余衆をまとめて率いたのは、“うるか屋まやまと”という人物だったそうだが、「まやまと」という名は、稲村氏の説明によれば、接頭辞「ま」+「やまと」、つまり「日本」という意味である。氏はそれ以上何も言っておられないが、この“うるか屋まやまと”も本土系の人間ではなかったか。そして、仲間満慶がもと率い、のち彼が引き継いだ集団も、本土の血や文化をひくグループではなかったかなどと、いろいろ空想が湧く。
それにしても、司馬さんはこの本を読んで居られるはずであるのに、『街道をゆく』の文中、竹富島の祝詞で、「懐良」が「良懐」になっている理由がわからないと書いておられたのはどうしたわけだろう。そもそも南北朝時代の歴史を少しでも知っていれば、懐良親王が「日本国王良懐」として明の冊封を受けていたことは常識のはずである。それともここにはなにか微意があったのだろうか。
(吉川弘文館 1957年9月)