書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

吉川幸次郎 『支那人の古典とその生活』 から

2009年05月21日 | 抜き書き
 支那人の(思考)方法は或る程度まで帰納的であるが、或るところまで行くとその帰納は止まつてしまひ、演繹が始まるといふことであります。即ちこの民族の方法は、元来は非常に帰納的であります。先例を尊重するといつても、尊重する先例は単に「五経」ばかりかといふと、必ずしもさうではない。「君子は多く前言往行を蓄へる」で、多くの事実を知り、それから道理を抽出して行かうとする。その点は非常に帰納的でありますが、その帰納は、「経」の言葉まで来ると、そこで行き止まりになり、そこから演繹が始まるといふことは、単に自然科学を貧困にしたばかりではなく、過去の支那人の生活における大きな弱点であります。これはやはり古典の過度の尊重から来たもののやうに思ふ。 (「支那人の古典とその生活」、本書141頁。原文旧漢字。太字は引用者、以下同じ)

 勿論、如何なる民族においても、古典は尊重さるべきであります。「五経」の中に示されてゐるものが、支那人にとつて重要なものであることを、私は否定するのではありません。その中には永久に変わらざる道理を、多分に含んでゐると考へます。殊に支那人にとつてはさうでありませう。しかしながらそれは道理そのものではないといふことを、まづ支那の人に考へて貰はなければならない。もし既に幾分かは考へられてゐるとするならば、もつと一生懸命に考へて貰はなければならぬ。そうして道理は「五経」よりも更に高いところにあり、その最もよき具現が「五経」であるといふことにならなければならない。 (同上、本書149頁)

 その為にはむしろ暫く支那人に、「五経」から離れて貰ふことが必要であらうと、私は考へるのであります。(略)即ち道理を単に「五経」にのみついて考へずに、暫く「五経」を離れて、道理そのものに対する思索を進める為には、哲学が必要であります。また人間の言葉におき換へられた自然を、自然そのものであるとする誤解を除く為には、一度「五経」を離れて、直接に自然そのものに眼を見開いて貰はなければならない。その為には自然科学こそ必要でありませう。更にまた自然科学によつて飽くなき帰納を知つてほしい。よい位なところで止まる帰納ではなくて、飽くなき帰納を知つてほしいのであります。 (同上、本書149-150頁)

(岩波書店 1945年10月第二刷)

郭煥圭 『台湾の行方 Whither Taiwan?』 から②

2009年05月21日 | 抜き書き
 台湾政府は李登輝から今の陳水扁政権に至るまで意図的に日本における知的支持基盤を求めた。その動きに応じたのが右翼ナショナリストたちである。漫画家の小林よしのりがその最たる例であろう。 (「第四章 日本と台湾問題」 本書102-103頁)

 小林のように日本右翼インテリと結びついた在日台湾独立運動家たちの動きを「連鎖するコロニアリズム」と揶揄する作者も居るが、私見ではそれほど重大な問題ではない。そのような結びつきは今の日本では政治的インパクトは僅少だろう。日本の右翼というよりか、むしろナショナリズムをもてあそぶインテリたちと呼んだ方が良い人たちは、たまたま台湾を例に自分たちの皇国史観を正当化できないかと思っただけである。 (「第四章 日本と台湾問題」 本書103頁。太字は引用者)

 例とはダシの謂なるか。

 利用したのはむしろ台湾側である。〔中略〕彼等の知名度に託して日本でもっと台湾問題が正確に伝えられるのを、そして今の中国一辺倒の政策が是正されることをも願っているのが台湾側のホンネである。 (「第四章 日本と台湾問題」 本書103頁)

(創風社 2005年8月)