支那人の(思考)方法は或る程度まで帰納的であるが、或るところまで行くとその帰納は止まつてしまひ、演繹が始まるといふことであります。即ちこの民族の方法は、元来は非常に帰納的であります。先例を尊重するといつても、尊重する先例は単に「五経」ばかりかといふと、必ずしもさうではない。「君子は多く前言往行を蓄へる」で、多くの事実を知り、それから道理を抽出して行かうとする。その点は非常に帰納的でありますが、その帰納は、「経」の言葉まで来ると、そこで行き止まりになり、そこから演繹が始まるといふことは、単に自然科学を貧困にしたばかりではなく、過去の支那人の生活における大きな弱点であります。これはやはり古典の過度の尊重から来たもののやうに思ふ。 (「支那人の古典とその生活」、本書141頁。原文旧漢字。太字は引用者、以下同じ)
勿論、如何なる民族においても、古典は尊重さるべきであります。「五経」の中に示されてゐるものが、支那人にとつて重要なものであることを、私は否定するのではありません。その中には永久に変わらざる道理を、多分に含んでゐると考へます。殊に支那人にとつてはさうでありませう。しかしながらそれは道理そのものではないといふことを、まづ支那の人に考へて貰はなければならない。もし既に幾分かは考へられてゐるとするならば、もつと一生懸命に考へて貰はなければならぬ。そうして道理は「五経」よりも更に高いところにあり、その最もよき具現が「五経」であるといふことにならなければならない。 (同上、本書149頁)
その為にはむしろ暫く支那人に、「五経」から離れて貰ふことが必要であらうと、私は考へるのであります。(略)即ち道理を単に「五経」にのみついて考へずに、暫く「五経」を離れて、道理そのものに対する思索を進める為には、哲学が必要であります。また人間の言葉におき換へられた自然を、自然そのものであるとする誤解を除く為には、一度「五経」を離れて、直接に自然そのものに眼を見開いて貰はなければならない。その為には自然科学こそ必要でありませう。更にまた自然科学によつて飽くなき帰納を知つてほしい。よい位なところで止まる帰納ではなくて、飽くなき帰納を知つてほしいのであります。 (同上、本書149-150頁)
(岩波書店 1945年10月第二刷)
勿論、如何なる民族においても、古典は尊重さるべきであります。「五経」の中に示されてゐるものが、支那人にとつて重要なものであることを、私は否定するのではありません。その中には永久に変わらざる道理を、多分に含んでゐると考へます。殊に支那人にとつてはさうでありませう。しかしながらそれは道理そのものではないといふことを、まづ支那の人に考へて貰はなければならない。もし既に幾分かは考へられてゐるとするならば、もつと一生懸命に考へて貰はなければならぬ。そうして道理は「五経」よりも更に高いところにあり、その最もよき具現が「五経」であるといふことにならなければならない。 (同上、本書149頁)
その為にはむしろ暫く支那人に、「五経」から離れて貰ふことが必要であらうと、私は考へるのであります。(略)即ち道理を単に「五経」にのみついて考へずに、暫く「五経」を離れて、道理そのものに対する思索を進める為には、哲学が必要であります。また人間の言葉におき換へられた自然を、自然そのものであるとする誤解を除く為には、一度「五経」を離れて、直接に自然そのものに眼を見開いて貰はなければならない。その為には自然科学こそ必要でありませう。更にまた自然科学によつて飽くなき帰納を知つてほしい。よい位なところで止まる帰納ではなくて、飽くなき帰納を知つてほしいのであります。 (同上、本書149-150頁)
(岩波書店 1945年10月第二刷)