書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

権威に訴える論証と衆人に訴える論証と

2009年05月24日 | 思考の断片
▲「ウィキペディア」、「権威に訴える論証」項 (部分)

 権威に訴える論証(英: Appeal to authority、argument by authority)とは、権威、知識、専門技術、またはそれを主張する人物の地位などに基づいて、真であることが裏付けられる論理における論証の一種。ラテン語では argumentum ad verecundiam(尊敬による論証)または ipse dixit(彼自身がそれを言った)。宣言的知識を獲得する方法の1つだが、論理的には主張の妥当性は情報源の信頼性だけから決定されるものではないため、誤謬である。この逆は人身攻撃と呼ばれ、発言者の権威の欠如などを理由にその主張を偽であるとするものである。

 中国は権威に訴える論証()が正当な論理とされる社会である。人身攻撃が多くかつ激しいのもおそらくはこれが理由。

  :聖人曰く・孔子曰く・マルクス曰く・レーニン曰く・スターリン曰く・毛主席曰く・総書記曰く・指導者曰く・党曰く等々。

 さらには、衆人に訴える論証もまた、中国においては正である。多数がそう考える、言う、振る舞うから、それは真であるという思考。
 ここで考えるべきは「天命」=「民衆の意志」の伝統か。

 天の視るは我が民の視るに自(したが)ひ、天の聴くは我が民の聴くに自ふ。 (『書経』「泰誓」中)
 民の欲するところ、天必ずこれに従ふ。 (『書経』「泰誓」上)

 天は言(ものい)わず。行ないと事とを以てこれに示すのみ。 (『孟子』「万章」上)
 これを天に薦(すす)めて天もこれを受け、これを民に暴(あらわ)して民もこれを受く。 (『孟子』「万章」上)

 つまり天命に従うとは衆人に訴える論証に他ならない。
 だが日本ではこの論法が誤謬であること、権威に訴える論証に同じい。

 西洋の論理学は形式論理学を発達させたが中国の論理学は意味論方面に発達を遂げただけの違いに過ぎないという加地伸行氏の指摘が正しいとしても、一般の日本人と中国人の間では対話が著しく困難という現実の問題は依然としてそこにある。彼らの未開な思考様式にこちらが合わせるわけにはいかない。

加地伸行 『中国人の論理学 諸子百家から毛沢東まで』 から

2009年05月24日 | 抜き書き
 現代の記号論によれば、記号論(広い意味の論理学)には、三つの領域があるとする。すなわち、(一)記号と対象との関係を扱う意味論(semantics)、(二)記号とその使用者との関係を扱う語用論(pragmatics)、(三)記号と記号との論理的結合の関係を扱う結合論(syntactics)である。いわゆる伝統的形式論理学や記号論理学などは、(三)の結合論の領域に属する。これは〈狭い意味の論理学)である。
 この記号論としての議論、広い意味での論理学上の議論が、春秋戦国時代に、さまざまな形で開花していたのである。
 ところが、よく人はいう、中国には論理学は存在しなかった、と。この意見は正しいか。それに答えるには、その「論理学」の意味を確かめねばなるまい。もし、広い意味での論理学。すなわち記号論の意味としてならば、この意見は正しくない。また仮に、狭い意味での論理学、主として伝統的形式論理学(アリストテレス体系論理学)の意味ならば、ある程度は正しい。とはいうものの、それはあまり意味のある意見とは思えない。
 というのは、西洋における伝統的形式論理学がアリストテレスを源にして完成したとはいうものの、アリストテレス以前においては、別に体系的というような状態ではなかった。前述の春秋戦国時代のときのように雑多な議論がいろいろとあっただけである。それが、アリストテレスによって、伝統的形式論理学、いいかえれば、結合論という方向に進められ、アラビアを経て中世を通じて体系化されたということなのである。
 一方、中国ではどうであったか、というと、アリストテレスよりすこしあとぐらいに生きていた荀子らによって、それまでいろいろな方向に向かう可能性を持った状態が、はっきりと意味論的な方向に進められ、それが後に受けつがれていったのである。そのため、伝統的形式論理学のような内容、いいかえれば結合論的内容が未熟になった、ということにすぎないのである。 (「第二章 古代中国人の論理学意識」、本書49-50頁)

(中央公論社 1977年1月初版 1985年1月4版)

津田左右吉 『支那思想と日本』 から②

2009年05月24日 | 抜き書き
 一体に支那の思想家は、啻に反省と内観を好まないのみならず、客観的に事物を正しく視ようとつとめることが無い。なほ彼等の思惟のしかたを見ると、それは多く連想によつて種々の概念を結合することから形成せられ、その言説は比喩を用ゐ古語や故事を引用するのが常であつて、それに齟齬と矛盾があるのも、相互に無関係な、或は相反する、思想が恣に結び合はされてゐるのも、之がためであるが、今人の眼から見てさういふ論理的欠陥のあることは、支那の学者には殆ど感知せられていない。或はまた五行説などに於て最も著しく現れてゐる如く、一定の図式にあらゆる事物をはめこむことが好まれるが、これもまた一々の事物の本質を究明せず何等かの類似点をその外観に求めることによつてそれらを結び合はせるのであり、畢竟、同じ考へかたから来ている。 (「日本は支那思想を如何にうけ入れたか」、本書25頁。原文旧漢字、太字は引用者)

 その実、支那思想は支那人に特殊な方法による理説から成立ち、その理説は事物の表面上の知識を外面的につなぎ合はせるところにその特色がある。実践を目ざす教でありながら常に現実から離れ、或はそれを無視してゐるのも、一つはかういふ思惟のしかたから来てゐよう。思惟が極めて放縦になり、或は強ひて一定の型にはめこまれるからである。彼等に批判的精神がなくその能力が無いのも、論理的な頭脳が無いのと現実を直視し事物の本質を究明することができないこととに重要なる理由があろう。 (「日本は支那思想を如何にうけ入れたか」、本書26頁。原文旧漢字、太字は引用者)

(岩波書店 1938年11月)