現代の記号論によれば、記号論(広い意味の論理学)には、三つの領域があるとする。すなわち、(一)記号と対象との関係を扱う意味論(semantics)、(二)記号とその使用者との関係を扱う語用論(pragmatics)、(三)記号と記号との論理的結合の関係を扱う結合論(syntactics)である。いわゆる伝統的形式論理学や記号論理学などは、(三)の結合論の領域に属する。これは〈狭い意味の論理学)である。
この記号論としての議論、広い意味での論理学上の議論が、春秋戦国時代に、さまざまな形で開花していたのである。
ところが、よく人はいう、中国には論理学は存在しなかった、と。この意見は正しいか。それに答えるには、その「論理学」の意味を確かめねばなるまい。もし、広い意味での論理学。すなわち記号論の意味としてならば、この意見は正しくない。また仮に、狭い意味での論理学、主として伝統的形式論理学(アリストテレス体系論理学)の意味ならば、ある程度は正しい。とはいうものの、それはあまり意味のある意見とは思えない。
というのは、西洋における伝統的形式論理学がアリストテレスを源にして完成したとはいうものの、アリストテレス以前においては、別に体系的というような状態ではなかった。前述の春秋戦国時代のときのように雑多な議論がいろいろとあっただけである。それが、アリストテレスによって、伝統的形式論理学、いいかえれば、結合論という方向に進められ、アラビアを経て中世を通じて体系化されたということなのである。
一方、中国ではどうであったか、というと、アリストテレスよりすこしあとぐらいに生きていた荀子らによって、それまでいろいろな方向に向かう可能性を持った状態が、はっきりと意味論的な方向に進められ、それが後に受けつがれていったのである。そのため、伝統的形式論理学のような内容、いいかえれば結合論的内容が未熟になった、ということにすぎないのである。 (「第二章 古代中国人の論理学意識」、本書49-50頁)
(中央公論社 1977年1月初版 1985年1月4版)
この記号論としての議論、広い意味での論理学上の議論が、春秋戦国時代に、さまざまな形で開花していたのである。
ところが、よく人はいう、中国には論理学は存在しなかった、と。この意見は正しいか。それに答えるには、その「論理学」の意味を確かめねばなるまい。もし、広い意味での論理学。すなわち記号論の意味としてならば、この意見は正しくない。また仮に、狭い意味での論理学、主として伝統的形式論理学(アリストテレス体系論理学)の意味ならば、ある程度は正しい。とはいうものの、それはあまり意味のある意見とは思えない。
というのは、西洋における伝統的形式論理学がアリストテレスを源にして完成したとはいうものの、アリストテレス以前においては、別に体系的というような状態ではなかった。前述の春秋戦国時代のときのように雑多な議論がいろいろとあっただけである。それが、アリストテレスによって、伝統的形式論理学、いいかえれば、結合論という方向に進められ、アラビアを経て中世を通じて体系化されたということなのである。
一方、中国ではどうであったか、というと、アリストテレスよりすこしあとぐらいに生きていた荀子らによって、それまでいろいろな方向に向かう可能性を持った状態が、はっきりと意味論的な方向に進められ、それが後に受けつがれていったのである。そのため、伝統的形式論理学のような内容、いいかえれば結合論的内容が未熟になった、ということにすぎないのである。 (「第二章 古代中国人の論理学意識」、本書49-50頁)
(中央公論社 1977年1月初版 1985年1月4版)