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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

高橋ツトム 『ヒトヒトリフタリ』 2・3

2012年09月06日 | コミック
 オビで釈由美子さんが、「逆スカイハイですね」と言っていた(「逆イズコ」だったか?買ってすぐオビは棄ててしまったので不確か)。どちらにしても、なるほどそうだという感想。
 『デーヴ』が最初部のヒントになっていることは明らかだが、進路はまったく違う。

(集英社 2012年5・8月)

佐久間正 「蔡温の思想 琉球王国における儒教と風水」

2012年09月06日 | 日本史
 『日本思想史学』43(2011年9月)、111-127頁掲載。

 蔡温(1682-1762)は中国に留学していた経歴があるのだが、中国語の会話はできなかったらしい。そう、自分で言っている(『自叙伝』)。そのかわり漢文は大丈夫とは、これも本人の言である。中国系沖縄人で琉球王国時代を通じ通事(通訳)として活躍した久米三十六姓(唐栄)の出でも、そういうことはあるのだなと、あらためて思ったりしたが、しかし実際には通事に任命されており、のちには都通事(上級通事)に昇格もしている(「ウィキペディア」「蔡温」項)。もしかしたら謙遜の辞かもしれない。
 従来、中国朱子学の徒とされる蔡温だが、佐久間氏の調査によれば使用語彙などから陽明学の影響も強いという。そうすれば、当時の中国(清)のどこで、誰から学んだのかが問題となる。清は、考証学も興っていたが、あくまで官学は朱子学であった。
 さらに佐久間氏は、蔡温は、陰陽五行説と風水を本当に信じていたと言う。だとすれば「三府龍脈碑」の銘文は、本気の言ということになる。『杣山法式』における彼の実学リアリズムを知る身には、ちょっと信じられぬ。彼についてのほぼ唯一のまとまった伝記である真栄田義見『蔡温 伝記と思想』(月刊沖縄社、1976年9月)は、留学から帰還後の彼は、それらを政治的な修辞として使うだけでもはや信じてはいなかったとしている。

『木氏宦譜(影印本)』

2012年09月06日 | 東洋史
 麗江軍民府土知府木氏の家系譜。土司(のち土知府)は世襲職だから、その代々の公式記録でもある。木氏は初代の木得以来、最後の第27代木まで、すべて漢名と同時に民族名を持っており、各代の表記は、まず太字で民族名をしるし、その後に漢名木+諱、字は~、号は~と続ける体裁になっている。木氏は清雍正年間、改土帰流によって土司職を廃され土知府となったが、木氏による世襲は代わらず、辛亥革命を過ぎた民国時代まで土知府木氏として存続している。

(雲南美術出版社 2001年12月)

山田勅之 「明代雲南麗江ナシ族・木氏土司による周辺地域への勢力拡張とその意義」

2012年09月06日 | 東洋史
 副題「中華世界とチベット世界の狭間で」。
 『史学雑誌』118-7(2009年7月)、1330-1356頁掲載。

 木氏による周辺チベット地域への勢力拡大は、中国側からは藩塀の行い――褒むべきあるいは当然の義務としての――として観られていたが、実際は自らの勢力拡大の為の行動であったという指摘。そして、土司としての木氏は、現実には中国からの掣肘をほぼまったく受けていなかったという、いまひとつの重大な指摘。

清水太郎 「北京におけるベトナム使節と朝鮮使節の交流 15世紀から18世紀を中心に」

2012年09月06日 | 東洋史
 『東南アジア研究』48-3(2010年12月)、334-363頁掲載。

 交流の事実や交歓時における詩文のやりとりなど、史料が残されているのは大部分朝鮮側で、ベトナム側には記録がほとんど残っていないらしい。記録に使われたのはいうまでもなく漢文(古典中国語)である。実際の交流の際にはそれにくわえて、本人によるあるいは通事を介した当時の口語漢語が用いられたであろう。母語でない外国語であったハンデは両方同じである。すなわち、そのことを記録することに対する熱意の差があったのではないか。

徐建新 『好太王碑拓本の研究』

2012年09月06日 | 東洋史
 論旨がくねくね進むのでわかりにくいが、結局のところ李進熙説は間違いで酒匂拓本は改竄されていないという結論である。この結論は本の中途で提出されているので、余計わかりづらい。
 思うに、著者は中国人でかつ社会科学院研究員である立場上、日本帝国主義や帝国陸軍に関わる人と物は褒めるわけにはいかなかったのであろう。だから、その日本帝国主義の批判者である李をまず持ち上げなければならず、しかる後に学者として前者のほうが正しく後者は間違いと言わねばならない結果、行文が晦渋になったのではないかと、勝手ながら推測。

(東京堂出版 2006年2月)