『日本思想史学』43(2011年9月)、111-127頁掲載。
蔡温(1682-1762)は中国に留学していた経歴があるのだが、中国語の会話はできなかったらしい。そう、自分で言っている(『自叙伝』)。そのかわり漢文は大丈夫とは、これも本人の言である。中国系沖縄人で琉球王国時代を通じ通事(通訳)として活躍した久米三十六姓(唐栄)の出でも、そういうことはあるのだなと、あらためて思ったりしたが、しかし実際には通事に任命されており、のちには都通事(上級通事)に昇格もしている(「ウィキペディア」
「蔡温」項)。もしかしたら謙遜の辞かもしれない。
従来、中国朱子学の徒とされる蔡温だが、佐久間氏の調査によれば使用語彙などから陽明学の影響も強いという。そうすれば、当時の中国(清)のどこで、誰から学んだのかが問題となる。清は、考証学も興っていたが、あくまで官学は朱子学であった。
さらに佐久間氏は、蔡温は、陰陽五行説と風水を本当に信じていたと言う。だとすれば
「三府龍脈碑」の銘文は、本気の言ということになる。『杣山法式』における彼の実学リアリズムを知る身には、ちょっと信じられぬ。彼についてのほぼ唯一のまとまった伝記である真栄田義見『蔡温 伝記と思想』(月刊沖縄社、1976年9月)は、留学から帰還後の彼は、それらを政治的な修辞として使うだけでもはや信じてはいなかったとしている。