書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

溝口雄三ほか 『「朱子語類」訳注』 1~3巻

2012年09月09日 | 東洋史
 第1巻 溝口雄三/小島毅監修 垣内景子/恩田裕正編。巻1-3(「理気上」「太極天地上」「理気下」「天地下」「鬼神」)
 第2巻 興膳宏/木津祐子/齋藤希史翻訳 巻10-11(「読書法上」「読書法下」)
 第3巻 垣内景子訳注 巻7・12・13(「小学」「持守」「力行」)

 「聖人学んで至るべし」の“聖人”は、結局、朱熹の頭のなかにあるイメージ、像でしかない。しかし、それは朱熹が頭の中だけで捏ねあげたものではなく、彼の経書・史書・そして文学書の読書による該博な知識と彼なりに根拠と自信のある文献読解の上に成り立つものである。更に彼の非凡なところは、それらの事実と解釈の断片を、彼自身の独創した論理によって精密に体系化したことであった。
 たしかに、講学(講義)をし、弟子たちに自由に自説について疑問や矛盾とみえる点を容赦なく質問させたとはいっても、この語録・問答録を見る限り、彼にとってはそれは弟子を教え導く機会でしかない。よしんば彼らによってよ自説の弱点を気づかされることがあったとしても、たちどころに修復可能な程度のそれでしかないものであったようである。朱熹と弟子たちとでは、学識も知力も、なにより独創性において懸隔がありすぎた。だから結局、「聖人学んで至るべし」は「某(それがし)学んで至るべし」と化(な)ってしまったのだった。朱熹の言う“聖人”とは朱熹の作り上げた“聖人”、つまりは朱熹その人だったのであるから。
 ただし、朱熹は同時代の弟子たちにも、そして後世においても、自分が無謬の教祖扱いされることを、必ずしも望んではいなかっただろう。知識において、テキスト読解において、そしてそれら断片的事実と解釈群の論理的整合作業の過程とその結果造りあげられた体系そのものの整合性において、彼は、根拠に基づく誤謬の指摘を歓迎したであろうし、また彼と同等かそれ以上の知的水準の相手がその独自の体系とともにおのれの前に現れた際には、虚心に相手を受け入れ、あるいは弟子の礼を執ることを、けっして躊躇しなかった筈と思える。明代に王陽明が現れたことは、泉下の朱熹には、却って幸福であったろう。

(汲古書院 2007年8月・2009年7月・2010年11月)