書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

山田慶児 『朱子の自然学』

2012年09月18日 | 自然科学
 はっきりいって、非常に不快な読後感。著者のいうとおり、いくら優れていたといっても、所詮は12世紀の自然学でありその研究者(しかもアマチュア)である。現代の目からみれば自然観察(朱熹はたしかにこの点は綿密だった)と遊離した仮説(結局は四書五経の教え)を立てるだけでも苛々するのに、仮説の検証をほとんどまったく行わないその態度は、愚昧というか、知能に欠陥があるのではないかとすら思えてしまう。「理性=理屈ですべてを説明しようとするのが本来の意味での合理主義である」などと弁護されても「それではああ言えばこう言う詭弁家は理想的な合理主義者か」という反感しか湧かない。
 著者にすれば研究対象であるからその重要性を強調するのはわかるが、これはどうも、それを研究する自分の価値も高めようとしているように見えて、あまり見好い様ではない。たとえば翻訳者が、自分が囲い込んで独占的に訳している海外の文学者を、「次期ノーベル文学賞候補の呼び声も高い~~」としきりに持ち上げるような感じである。

(岩波書店 1978年4月)

三浦国雄 『人類の知的遺産』 19 「朱子」

2012年09月18日 | 東洋史
 周敦頤(濂渓)の『太極図説』は、もともと宇宙の万物が生成される時間的経過を示したものであった。ところが朱熹は、自分の学説の都合上、無時間的な宇宙構造を現した図であると故意に曲解して己の思想の根底核心に据えた。この詐術は研究家界隈では「言ってはいけないこと」なのだろうか。誰も批判しないようであるが。
 私などは、これだけで朱熹は人間としていかがわしく、思想家としてもまがいものと思い、その学説にいたっては、根本のところに虚偽があっては、後がいくら立派なことをいい、業績を残したって駄目だろうと考える。前提が誤っているのだから、たとえ論理が正しくても(実際は論理もおかしいが)、結果が誤っているのは言うまでもない。ついでにいえば、朱熹にはこの種の、根拠のない我田引水で勝手な前提がわりあい多い。部分部分としては採るべきところも多々あると思うが、思想体系としては無価値であると考える。

(講談社 1979年8月)