書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

「新たな日中摩擦 鉄道技術“盗用”の中国が各国に売り込み攻勢(1/2ページ)」 を読んで

2010年11月23日 | 思考の断片
▲「msn 産経ニュース」2010.11.22 19:35、ワシントン=古森義久。(部分)
 〈http://sankei.jp.msn.com/world/china/101122/chn1011221935001-n1.htm

 中国の国有企業が日本の高速鉄道技術を基礎に日本製より速度の高い高速列車を作り、中国独自の製品として諸外国に売り込もうとしていることについて、日本側から「約束違反」との抗議が起き、新たな日中摩擦となりつつある。米紙ウォールストリート・ジャーナルが18日、報じた。

 中国の伝統に知的所有権の概念はない。何かをマスターすれば(あるいは手に入れれば)、それは自分のものなのである。ただ、それだけでは他人のものは俺のもの、そして(うっかりしていると)俺のものは他人のものの範疇を出ない。しかしそのうえに何かを付け加えることが出来れば、もはや非の打ちどころなくおのれ独自のものとなる。試みに歴代の訓詁学者・考証学者の作業(さくぎょう)を見よ。彼らが出典を明示するのは、古典だけである。(ついでに言えば、朱子学・陽明学など、もっとひどい。理学というのは基本的に仏教と道教からのパクリでできあがっている。)
 伝統中国の知識人で、他人のものは俺のものという考え方を拒否して、まったくの独創部分だけが自分のものと称するに足るという考え方を持っていたのは、私が確実に言える限り、黄宗羲と顧炎武だけである。とくに顧炎武については、他人の著作を読んでいて自分と同じ意見や観点を見いだすと、ただちに自分の手稿から該当箇所を抹消したといわれる()ほど、自他のオリジナリティーの区別に対し徹底して潔癖だった。こうして残った部分が、たとえば彼の死後出版された『日知録』である。(この顧の中国人離れした潔癖さがどこから来たのかを考えるのは興味ある問題である。)

 出典失念ス。後デ探スコト。