テレビドラマで始めて現代劇を演じることになった憲人。役作りに打ち込むうち、役と自己同一化していく。
ここしばらく岡崎藤哉の気持ちでいましたが/そのためでしょうか
映画「エイリアン」のように/体内に岡崎藤哉が巣くい/私を支配し/食い破って出てきたような
そして役者の業というのか/私はそれを/ゾクゾクしながら見つめている
(本書17-18頁)
気分としてよくわかる。翻訳者も、原作者を演じるという点、役者と通じるところがおおいにあると、私はつねづね思っている。原著あるいは原作者と同じ(自分が探り当てた)気持ちを作って、はじめていい翻訳ができる。少なくとも自分が納得できるできばえにはならない。翻役者とでも称すべきか。ただし、これは人文科学、なかでも文学・歴史系の翻訳に限るかも知れない。
ともかくも、私の場合、そのときどきの仕事の種類によって精神的におおいに影響を受ける。簡単にいえば、性格が変わる。そしてそれを楽しんでいる。福澤諭吉はたしか「一身にして二生を経るがごとし」と言ったが、訳(役)者の私はそれどころではない、幾生も生きる気分だと。
以前はそんな自分の翻訳者としてのありかたを、リー・ストラスバーグのメソード演技法になぞらえていた。メソード演技法を、自分なりに翻案のうえ、仕事のなかに組み入れて行ったりもした。だが、ある時期から、それでは対象が何であっても結局自分の文体にひきつけて訳してしまうことになると思って、極力使わないようになった。何を演じても同じなのは大根役者である。
畢竟、私の翻役者としての“演技”は、ステラ・アドラーの「テキストを緻密に読み、想像力を働かせる」手法や、「感情の記憶」ではなく「感覚の記憶」による「置き換え」を用いよとしたウタ・ハーゲンのそれに期せずして近いものらしい。取り組む相手と自分の“サイズ”の差を縮めるのに最も苦しむ。
(白泉社 2010年7月)
ここしばらく岡崎藤哉の気持ちでいましたが/そのためでしょうか
映画「エイリアン」のように/体内に岡崎藤哉が巣くい/私を支配し/食い破って出てきたような
そして役者の業というのか/私はそれを/ゾクゾクしながら見つめている
(本書17-18頁)
気分としてよくわかる。翻訳者も、原作者を演じるという点、役者と通じるところがおおいにあると、私はつねづね思っている。原著あるいは原作者と同じ(自分が探り当てた)気持ちを作って、はじめていい翻訳ができる。少なくとも自分が納得できるできばえにはならない。翻役者とでも称すべきか。ただし、これは人文科学、なかでも文学・歴史系の翻訳に限るかも知れない。
ともかくも、私の場合、そのときどきの仕事の種類によって精神的におおいに影響を受ける。簡単にいえば、性格が変わる。そしてそれを楽しんでいる。福澤諭吉はたしか「一身にして二生を経るがごとし」と言ったが、訳(役)者の私はそれどころではない、幾生も生きる気分だと。
以前はそんな自分の翻訳者としてのありかたを、リー・ストラスバーグのメソード演技法になぞらえていた。メソード演技法を、自分なりに翻案のうえ、仕事のなかに組み入れて行ったりもした。だが、ある時期から、それでは対象が何であっても結局自分の文体にひきつけて訳してしまうことになると思って、極力使わないようになった。何を演じても同じなのは大根役者である。
畢竟、私の翻役者としての“演技”は、ステラ・アドラーの「テキストを緻密に読み、想像力を働かせる」手法や、「感情の記憶」ではなく「感覚の記憶」による「置き換え」を用いよとしたウタ・ハーゲンのそれに期せずして近いものらしい。取り組む相手と自分の“サイズ”の差を縮めるのに最も苦しむ。
(白泉社 2010年7月)