書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

成田美名子 『花よりも花の如く』 8

2010年08月25日 | コミック
 テレビドラマで始めて現代劇を演じることになった憲人。役作りに打ち込むうち、役と自己同一化していく。

 ここしばらく岡崎藤哉の気持ちでいましたが/そのためでしょうか
 映画「エイリアン」のように/体内に岡崎藤哉が巣くい/私を支配し/食い破って出てきたような
 そして役者の業というのか/私はそれを/ゾクゾクしながら見つめている
 (本書17-18頁)

 気分としてよくわかる。翻訳者も、原作者を演じるという点、役者と通じるところがおおいにあると、私はつねづね思っている。原著あるいは原作者と同じ(自分が探り当てた)気持ちを作って、はじめていい翻訳ができる。少なくとも自分が納得できるできばえにはならない。翻役者とでも称すべきか。ただし、これは人文科学、なかでも文学・歴史系の翻訳に限るかも知れない。
 ともかくも、私の場合、そのときどきの仕事の種類によって精神的におおいに影響を受ける。簡単にいえば、性格が変わる。そしてそれを楽しんでいる。福澤諭吉はたしか「一身にして二生を経るがごとし」と言ったが、訳(役)者の私はそれどころではない、幾生も生きる気分だと。
 以前はそんな自分の翻訳者としてのありかたを、リー・ストラスバーグのメソード演技法になぞらえていた。メソード演技法を、自分なりに翻案のうえ、仕事のなかに組み入れて行ったりもした。だが、ある時期から、それでは対象が何であっても結局自分の文体にひきつけて訳してしまうことになると思って、極力使わないようになった。何を演じても同じなのは大根役者である。
 畢竟、私の翻役者としての“演技”は、ステラ・アドラーの「テキストを緻密に読み、想像力を働かせる」手法や、「感情の記憶」ではなく「感覚の記憶」による「置き換え」を用いよとしたウタ・ハーゲンのそれに期せずして近いものらしい。取り組む相手と自分の“サイズ”の差を縮めるのに最も苦しむ。

(白泉社 2010年7月)

「6カ国協議議長来日へ 再開に向け28日」 から

2010年08月25日 | 抜き書き
▲「京都新聞」2010年08月24日 23時20分、共同通信。(部分)
 〈http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20100824000185

 北朝鮮核問題に関する6カ国協議の議長を務める中国の武大偉朝鮮半島問題特別代表が28日、来日することが分かった。与党や外務省の幹部らと相次ぎ会談し、協議再開に向けて協力を要請する見通し。

 特A諸国とはいっさい付き合うななどと唱える威勢のいい「ネトウヨ」は、誰かがいみじくも評するように「ひきこもりの世間知らず」なのであろう。国家にせよ国民一人一人にせよ、関係をまったくもたないどということが、現実問題としてできるはずはない。自分の着ている服の襟裏をみてみよ。

 外交筋によると、今月中旬に訪朝した武氏は北朝鮮側の動向を日本側に伝達する予定。韓国海軍哨戒艦沈没事件を理由に早期再開に難色を示している日本政府の翻意を促したい考えだ。/これに対し岡田克也外相は24日午後の記者会見で「武氏がどういう考えか、現状認識をうかがう必要がある」としながらも、現時点での再開は時期尚早との認識を重ねて表明。武氏との協議は平行線に終わる可能性もある。

 問題は、付き合ううえで相手に対していかにこちらの立場をまもり、できれば通すかということである。