副題「リスペクト・フォー・アクティング」。
いろいろなものを「もしこれが、私にとっての何々だったら」と置き換えることが、直後の行動を生み出しています。あなたが見たことのある、知っている記憶=過去を使うのは、現在〔劇の世界〕のアクションをリアルに行うため。あなたの思い出を、そっくりそのまま演技のなかにはめ込んで使うのでは、ありませんよ。(略)現在(=劇の世界)があなたにとってリアルに感じられるよう、まず知っているものと置き換えてみるのです。(略)人物や出来事、劇のなかで使うものを「もしこれが、○○だったとしたら?」と置き換えるだけで終わってはいけません。完全に、劇の中のものと同化させてください。劇のなかのものが、あなたにとって本当なんだと信じられるように、移し変えましょう。そうなれば、もともと何を使って置き換えたか、忘れてしまうかもしれません。それでいいのです! (「第3章 置き換え」本書63頁)
「これが私よ」というイメージは、一つではありません。あらゆる人の特徴が、私のなかのどこかに存在しているのです。(略)自分自身で「いやだなあ」と思う特徴も、見逃さないようにしましょう。(略)「私にも、そういうところがるなあ」と認めることで、「私らしさ」への認識を広げて欲しいのです。 (「第2章 アイデンティティ」本書40-41頁)
役者個人の「感情の記憶」を重視したリー・ストラスバーグを代表的提唱者とするメソード演技法と、それを真っ向から否定し、脚本の緻密な読み込みと想像力さえあればその役を演ずるにあたって必要な感情は自然に生まれると説いたステラ・アドラー。このウタ・ハーゲンの方法論は、ちょうどその中間に属する。
アドラーは、ストラスバーグのメソード演技を、スタニスラスフキイの教えを曲解したものとして退けた。個人、なかんづく現代大衆社会の個人の限られた経験や貧しい感情だけでは、「サイズ」の違うキャラクター(たとえばシェークスピア)は演じられないと。
ハーゲンは、アドラーが卑小な現代人の裡にはまったくないとした、大きな「サイズ」を、同じ人間である以上、だれもが持ち得ると考える。それを呼び起こす手段が「置き換え(
substitution)」である。もっとも、ハーゲンも最初から誰にでも有るといっているわけではない。普遍的に存在するのはあくまでその一端であり、「サイズ」の差はハーゲンとて認めている。ただ、彼女は、その差はうめることが出来るとする。「置き換え」でたぐり出した端緒を、想像力によって役に相応しい大きさにまで育て上げることができるというのである。
メソード演技法は米国で盛んで、有名なアクターズ・スタジオはそのメッカである(リー・ストラスバーグは設立者ではないがのちその運営者・教師として象徴的な存在となった)。ロバート・デ・ニーロやアル・パチーノがここの出身であることも有名だが、そのアクターズ・スタジオの主催する
インタビュー番組で、デニーロは、「自分ばかり見つめていても始まらない」と、メソード演技に対する批判を述べている(同じインタビューによれば、デ・ニーロは修業時代、ステラ・アドラーから教えをより多くうけたらしい)。パチーノにいたっては、自他共に認めるリー・ストラスバーグの愛弟子であり、現在はアクターズ・スタジオの共同学長(三人のうちの一人)を務める身であるにもかかわらず、やはり同じインタビュー番組で、「(いまは)『感情の記憶』はあまり使わない」(つまりメソード演技法にはあまり頼らない)と、明言している。察するに、二人とも(すくなくともデ・ニーロは)演技者としてはハーゲンに近い位置にいるようである。
(フィルムアート社 2010年5月)