書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

「『子育てに悩み、すべてから逃げたかった』2児遺棄の母」 から

2010年08月02日 | 抜き書き
▲「asahi.com」2010年8月1日3時3分。(部分)
 〈http://www.asahi.com/national/update/0731/OSK201007310132.html

 大阪市西区のマンション室内から幼い姉弟の遺体が見つかった事件で、母親の下村早苗容疑者(23)=死体遺棄容疑で逮捕=が「子育てに悩み、すべてから逃げたかった。自分の時間がほしかった」などと供述していることが、大阪府警への取材で分かった。調べに「取り返しのつかないことをしてしまった」と反省の言葉も漏らし始めたという。

 あくまで伝えられる報道がすべて正しいとしての話だが――。
 夜遊びに目ざめて、「私にも私の人生があるし」というところではないのか。それが根本で、子育てに悩んだというのは、後付けとまではいわないにしても、第二番目以下の理由だろう。要は邪魔になったのである。邪魔だから、こんなむごい死なせ方をした。そうとしか思えない。
 死なせてしまったあとで悔やんでみても、死んだ子供は帰っては来ない。というより、死んでしまってもういないから安心して後悔しているのではないかとさえ思いたくなるむごさである。もし真に子育てに悩んだ結果だったとしても、到底ゆるす気にはならない。

『現代朝鮮歴史 高級1 朝鮮高級学校教科書(日本語訳)』

2010年08月02日 | 東洋史
 「朝鮮学校への税金投入に反対する専門家の会」編。同会代表・萩原遼氏によるまえがき「朝鮮学校『現代朝鮮歴史』の翻訳・刊行にさいして」。
 
 朝鮮戦争は南朝鮮(韓国)が開始したものとして書いてある。

 米帝のそそのかしのもと、李承晩は1950年6月23日から38度線の共和国地域に集中的な砲射撃を加え、6月25日には全面戦争へと拡大した。 (「第二編 祖国解放戦争(1950.6~1953.7) ②朝鮮戦争の開始と拡大」 本書79頁)

(星への歩み出版刊行 2010年4月)

口約束の効用(極私的人間判定基準)

2010年08月02日 | 思考の断片
 知り合いの中国人と話していて、「日本人は概して真面目だから、口約束を信じるね」という話になった。実際はそうでもないだろうと思ったが、自信がないので口には出さなかった。
 むかしの武士には、「金打(きんちょう)」といって、刀をちょっと抜いてからもとどおり鞘に収め、その際に発する金属音をもって、口頭で交わした誓い(約束)を必ず守るしるしにした。金打を交わした以上、これはおのれの面子にかけてやぶれぬ約束となり、もし破れば、まさに「武士の風上にもおけぬ」ということになって、後ろ指をさされて、いたたまれずに逐電して浪人するか、腹を切らねばならなくなった。
 しかし、そもそも武士というのは、金打なしでも、いったんだした言葉はあとになって引っ込めたりしない、できないのがならいである。武士はその倫理的緊張感のゆえに、それ以外の階層(いわゆる農・工・商)から尊敬もされたし、畏れられもした。『葉隠』を一読すれば、この緊張感のすさまじさが、よく分かる。
 ラフカディオ・ハーンの作品のひとつに、さる事情で身柄を拘束されて、人と会う約束の期限に間に合わなくなった武士が自刃して、魂魄となって相手に会いにいったという話がある。ここまでくればもちろん理想型に属するとはいえ、これは確かに日本の武士のあるべき姿であることに違いはない(ちなみに、ハーンの夫人は出雲藩の武士、しかも上士の出で、よく知られているように、ハーンの『怪談』をはじめとする日本譚、日本知識のほとんどは、この武家出身の夫人の話が種子になっている)。
 つまり、武士にとっては、証文になっていようといまいと、いったんかわした約束は必ず守るべきものであったということである。武士の沽券にかかわるというやつである。ただしこの倫理は、それ以外の階級(いわゆる農・工・商)には関係がない。
 何でこういうことを言っているのかといえば、いまの世、口約束を平気で破る手合いはいくらでもいるからである。
 私個人は、そういう手合いに出合うたびに、相手のあっけらかんさにショックを受ける。違約というのは要は裏切りである。たとえそれがささいなことであったとしても、他人を裏切って恥じるところがないのはどういう神経をしているのだろうかと、理解に苦しむ。
 「状況が変わった」とか「努力はしたんだけど」とか言い訳する前に、せめて謝ったらどうなのだろうかとも思う。しかし彼らには彼らなりに、もし自分に非があってもそのとおり自分の非を認めることはできないという、別趣の沽券があるらしい。私にはさっぱり理解できない沽券ではある。他人の信を失うことで守られるおのれの面目とはどのようなものか。
 もっともそれ以前に、守れない約束ならば最初からするなと思うのだけれど、しかし「嘘」を「社交辞令」と言い換えることでおのれの良心を眠らせることができるような、そんな己に甘い人間には、そういった慎みを求めるのは難しいのかもしれない。
 とまれ、口約束をどれだけ守るかで、その人間がどこまで信用できるか決めるという人物判定法はかなりいいアイデアではないか。中国人はする側もされる側も最初から口約束は信じていないから中国ではそんな基準は意味がないという、くだんの中国人の知人の声が聞こえてきそうだが――。