恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

謹賀新年

2024年01月01日 | 日記
皆さま、新年あけましておめでとうございます。
旧年中は当ブログをお読みいただき、誠にありがとうございました。本年も何卒よろしくお願い申し上げます。

さて今、改めて昨年を顧みると、私個人としては、気候変動のほかに、ウクライナとパレスチナの戦乱が懸念とともに最も心にのこりました。

とりわけ、二つの戦乱について憂慮したのは、報道等で見聞する現地の悲惨さもさることながら、この戦争の持つ意味、その背景についてでした。それも、戦乱の地政学的側面や経済的影響よりも、ここに作用している宗教的な力です。このことを改めて思い直しました。

パレスチナの戦闘は、その根底にユダヤ教とイスラム教の長年にわたる相克があります。そして、この相克には、アメリカ合衆国社会の社会的・政治的分断に強く影響している、キリスト教福音派の隠然たる力が働いています。

また、ウクライナ戦争では、ロシアの大統領が、自ら始めた戦争の正当性の主張にロシア正教を持ち出してきました。そして、ロシア正教は、最近まとまったウクライナ正教と厳しい対立関係にあります。

ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、ヤハウェを唯一絶対の神とすることにおいては同じである、一神教です。

唯一絶対の神を奉じ、つまり、唯一絶対の真理を背負う宗教は、時として熱狂的信仰や不屈の信念を生じやすいものです。それは人々の心を高揚させ、行動の大きなモチベーションになりますが、同時に、「唯一絶対」であるがゆえに、妥協や譲歩が有効な場面に、容易に思考や行動を変えられません。下手をすると、対立相手の絶滅まで主張しかねません(神に逆らった悪魔の徒、だから)。

一神教同士が「共存」できるのは、共同体が政治・経済的に比較的に安定している時で、その共存も互いの「許容」の範囲内のみです。互いに宗教的な見解や態度を露骨に相手に示さず、日常生活に埋没できれば、それが「許容」でしょう。

しかし、一度対立が表面化し、それが戦闘に発展すれば、相手を殺戮するという、極端な意志と行動を正当化し・強化する宗教の扇動力は今なお大きく、戦闘におけるその影響において、科学技術の力に決して引けをとりません。

私が最初にそれに気づいたのは、1978年のイラン革命の時です。当時大学生だった私は、よもやこの時代に宗教を前面に押し出した革命が勃発するとは、夢にも思いませんでした。そして結果的に、当時の東西冷戦の最中、どちらにも与せぬ政治勢力を確立してしまったのです。

すでに『正法眼蔵』に取り組んでいた私は、宗教を今で言う「オワコン」とは思っていませんでしたが、まさかこれほどの実力を示すとは考えていませんでした。その後、今度は日本で、オウム真理教事件が起き、ここでも想像を超える事態を宗教が引き起こすことになりました。

それ以来私は、宗教を政治・経済・社会的な側面から検討するように心がけました。最初から存在不安を内包する人間にとって、宗教の力は常に、強力に、多方面に作用するからです。

一神教に対して、「諸行無常」の仏教は、それほど強い動員力は持ちえません。この立場からすれば、「絶対の真理」は錯覚でしょうし、仮に「真理」があるとしても複数でしょう。だから、アマゾン奥地の「未開のジャングル」にまで出かけて、一方的に「宣教」するようなモチベーションを、仏教は持たないのです。

この仏教的態度は、基本的に諸宗教の「共存」を可能にするはずです。仮に一神教並みの「戦闘的態度」を作り出そうとするなら、外から「一神教的要素」を引き込むか、政治的主張と混交して、「諸行無常」の成分を薄めなければならないでしょう。

もう一つ問題なのは、「諸行無常」が強力な扇動性を持たないにしても、この考え方は「一神教」と相容れず、考えようによっては、一神教同士の対立より、はるかに根本的な対立になることです。「神が存在する」と思う同士の対立より、「存在する」派と「存在しない」派、あるいは「神を必要としない」派の対立の方が深刻です。

以前、私はイスラム教徒の一般人と話をしていて、彼から笑いながら「君はブッダにだまされているんだ」と言われたことがあります。この人は欧米の企業に勤めるインテリでした。こういうことを平気で言う人物から笑顔が消えた暁には、事態は容易ならない方向に進むでしょう。イスラム教によってインドから仏教が駆逐された歴史は、今もなお無視しがたいところです。

おそらく、気候変動が人類を絶滅させず、自意識と言語を持つものが存在する限り、宗教は持続し、その力は善くも悪しくも残り続けるでしょう。もし、テクノロジーが自意識を呑み込み、言語を無効にする時が到来するなら、その時初めて、宗教も宗教の力も消滅するのです。