テレビや新聞と無縁な生活を続けている。安倍さんがテロリストに殺害されたときから、見る気も読む気もなくなった。それよりは、ネットで多様な意見に耳を傾けていた方が、精神的に健康だと思ったからだ。
今から50年近く前に、西尾幹二氏は『地図のない時代 反時流的考察』を出している。そこで西尾氏は「われわれの都会生活者は、隣近所にの人の顔をまったく知らないで生活していても平気でいるのに、テレビに映る俳優や政治家の顔は、平凡に見慣れているので、微妙な変化にいたるまでたちまち思い浮かぶ。考えてみればおかしなことではないだろうか。われわれの日常生活は具体性を欠く一方である。人と事物、人と人との関係は、間接化し、抽象化していく一方なのである」と書いた。
多くの日本国民は、テレビや新聞がセンセーショナルな報道をすると、それに踊らされてしまうのである。安倍元総理があたかも、旧統一教会の宣伝塔であるかのような印象操作が行われ、それは未だに尾を引いている。
しかし、ネットがあるおかげで、若い人たちは、その影響力の外にいる。確かめようのないセンセーショナルな情報に対して、ネットはチェックすることができる。水を差すからである。
今とんでもないことが起きている。社団法人CoLaboの不正権利疑惑が表面化したために、男女共同参画予算について、見直しを求めるネット民の声が強まっている。CoLabo関連の一つのツイートを2000万人が見ているのだ。
不思議なことに、テレビも新聞も報道しない自由を駆使している。何もなかったことにしたいのだ。そこの団体の指導者を持ち上げていたこともあり、自分たちにも批判が向けられるのを恐れているのだ。
西尾氏は予想したのは間違ってはいなかった。それでもまだ日本が壊れないで存在しているのは、コモンセンスのあるネット民がいるからだ。第4の権力であったマスコミは、その力を失いつつある。それを理解しないで、既成左翼と組んで延命を図ろうとしても、それは土台無理な話なのである。