日本が危機なのは外交安全保障や経済の面だけにとどまらない。日本人の心も動揺し始めているのではないだろうか。昭和40年代後半に週刊現代に江藤淳が連載したコラムの『コモンセンス』に「集団狐憑き」という一文がある▼そこで江藤は日本人の集団心理について書いている。当時の日本で流言飛語が飛び交っているのを憂いたのだった。「このごろしきりに目立つのは、人心がきわめて深いところで微妙に動揺しているということでしょうね」という見方をするとともに、そうした一種の不安感が燃え広がることによって「収拾のつかない状態」になることを恐れたのである▼その典型として江藤は幕末期に起きたお稲荷さん騒動を取り上げた。浅草田圃立花候下屋敷鎮守・太郎稲荷のような名も知れない稲荷神社に人びとが参拝するようなり、しかもそれが継続するのではなく、ある期間を過ぎると、ピタッと賑わいが去ってしまったというのだ▼江藤の「いまのお稲荷さんは、ビルの陰にすっかり隠れてしまっているけれども、キツネはちゃんと生きているんですな。そして、ときどき日本人にとり憑くんですな」という指摘は間違っておらず、政治が末期症状を呈して信頼を失うことになれば、それこそ大変なことになってしまうのである。前途に希望を持てなくなると日本人は「キツネ憑きを起こす」のであり、日本丸のかじ取りをする政治家の責任が大きいのである。
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話をした相手は、丁寧だったが、猫なで声だった。ネズミ男は、「こいつはネコ男で、わたしを食おうとしているのだ」と感じて逃げ出した。
時あたかも、「貴方はもう忘れたかしら 赤い国ならアバタもエクボ みんなでほめた社会主義」(神田川♪・替歌)の時代で、「進歩的文化人・リベラルにあらざれば“知識人”にあらず」の時代だった。
その頃から少しだけ流れが変わった。リベラル受けを狙って、「私は本書執筆で『友』を喪う覚悟を決めた」なんてキャッチをつけた、『なぜリベラルは負け続けるのか』という本がでた。
最近も、『リベラリズムの終わり その限界と未来』(萱野 稔人)という本が出た。帯のキャッチには、「なぜ嫌われたのか? 実現不可能なのか? どこで失敗したのか?」とある。
アマゾンレビュワーの一人は、「一般的には、いわゆるリベラル派と見なされている著者は、だからこそ昨今のリベラル派の言説が大衆に受け入れられなくなっていることに危機感を抱き、まともにその原因を考えようというのが執筆意図であろう。昨今のリベラル派は、反対者を取るに足らぬもの、ネトウヨと言われる遅れた人権意識を持つ者として描き、まともに反論せず社会の右傾化を憂いて終わりにする姿勢が目立つことに著者は苛立ちを覚えている。(以下、略)」と評している。
ネズミ男は、リベラルの衰退(まあ、そういったことがあるとして)について、そんなにむつかしく考えていない(注:ネズミ男は、ロジカル・リーディング、ロジカル・シンキングができないせいだ、という声もあるけれど)。
下級国民は、自称「知識人」リベラルの言動に日本への“愛”を感じないことこそが、リベラルの衰退(まあ、そういったことがあるとして)の原因だと思うのである。
「春夏秋冬 繰り返す 季節を着替えながら 花に埋もれて 月を待ち 鳥を追いかけ 睦月 如月 弥生 卯月 朝から夕べへと 雪と舞い遊び 雨に濡れ 雲をたどり この国に生まれてよかった 美しい風の国に ただひとつの故郷で君と生きよう」(『この国に生まれてよかった』♪村下 孝蔵)
まずもって、この気持ちがなくては話になりはしないと、寒い朝にココアを飲みながらネズミ男は思うのであった。