アランの『幸福論』ではないが、福島県民の多くがふさぎがちで陰鬱であるのは、福島第一原発の事故が重くのしかかっているからだろう。それさえ解決すれば、希望がわいてくるはずなのに、そこに向かう道のりがまったく見えてこない。民主党政権や東京電力が策定した、収束のための工程表にしても、あくまでも気休めでしかない。方便というのは、宗教的には意味があるそうだから、一概に否定することはできないが、何を最優先すべきかも決めるためにも、まずは現実を直視すべきだろう。日本の科学技術力をもってすれば、今回の原発事故を乗り越えられるという勇ましい意見もあるが、それは単なる強がりでしかない。野田新内閣になってから、菅内閣のようにおたおたしなくなったが、財界の意向や国際社会の要求に棹をさすような動きが目立ってきた。原発の再稼動を目論むのもその一つだろうが、日本国民にとっては不幸極まりないことである。福島県のほとんどは、年間1ミリシーベルトを超える被曝地帯となってしまったのであり、厳密にいうならば、そこで住むことは許されないのである。西日本あたりで同じような原発事故が起きれば、日本人は流浪の民になるしかない。新内閣になってからの野田佳彦首相の舵取りは、菅直人首相以上に乱暴に思えてならないが、それは私だけだろうか。
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