草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

日本人の美意識とラディカリズム

2010年06月23日 | 思想家

 三島由紀夫と森田必勝が市ヶ谷で割腹して果てたのは、1970年11月25日のことであった。米国から押し付けられた憲法を改正するために、体ごとぶつかったわけだから、高校三年生であった私は、大きな衝撃を受けた。あの時はすでに、日本の左翼運動は衰退の一途を辿っていた。1956年のスターリン批判以来、既成左翼は若者からソッポを向かれていた。新左翼は一定程度の動員力はあったが、それはやり場のない憤りであり、イデオロギー的には脆弱であった。日本の左翼は、実際に武力を用いて権力奪取を行ったことがなかったが、北一輝の理論によって、2・26事件の青年将校は決起したのだった。現実を変える力があるかどうかということで、土俗性に目を向けるようになったのである。1970年あたりから日本回帰のムードが高まり、北一輝や柳田国男、さらに、夢野久作がむさぼり読まれることになった。桶谷秀昭が書いていたと思うが、新左翼の活動家が愛読していたのは、マルクスの著作ではなくして、大岡昇平の『花影』であったという。吉野の桜の美しさを愛でることは、カミカゼ特攻隊の若者が潔く散ろうとしたことと、まるっきり同じである。桜のようなはかなさに突き動かされるというのが、日本人が育んできた美意識であるからだ。三島はそれを熟知していたからこそ、新左翼に対しても、心情的な共感を覚えたのだった。思想は相対的であるが、行動に駆り立てる情念は、あくまでも絶対的なのである。

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産経新聞の思い上がったネット批判を嗤う

2010年06月23日 | マスコミ評

 ネットがあるからサヨク政権に保守派が反撃できるのに、それにイチャモンを付けるのは、少しばかり勉強不足ではないのだろうか。産経新聞がネット世論なるものを論じているが、保守派から読まれているわりには、取材不足ではなかろうか。「感情論やからかい半分の書き込みが横行し、思わぬ結論に至る例は少なくない」と分析している。何のことはない、ネットよりも新聞が上だということをPRしたいのだろう。しかし、空気に支配されているのは、ネットではなくて、マスメディアではなかろうか。鳩山由紀夫政権から菅直人政権に表紙だけは替わったが、これで新生民主党が誕生したかのごとく演出しなければ、民主党の支持率が回復することなど、絶対にありえないからだ。常識的なあたりまえのこと言うブログに人気が集まるのは、マスメディア批判を期待しているからだ。世の中が熱に浮かされていると、それに水をさすのがネットの役目なのである。情報を集めるにあたっては、トップがネット、ついで新聞、最後がテレビの順なのである。それでいて、影響力の点では、それが逆になっている。トップがテレビ、ついで新聞、最後がネットなのである。今の段階ではまだ、その順番は変わらないものの、じわじわとネットが力を持ちつつある。だからこそ、新聞が危機感を抱いて、ネットに対するネガティブキャンペーンを行うのである。もちろん、ネットの利用者もピンからキリまでであるが、ブログや2ちゃんねるなどで情報の落穂拾いをすることで、真実が見えてきたりするのである。ネットの力を侮るなかれなのである。

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