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草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

鬼怒川温泉で「年々歳々花相似たり」の漢詩を口ずさむ

2012年04月17日 | エッセイ

 喜多方市から東武鉄道の鬼怒川温泉駅まで、東京からの友人を迎えに行ってきた。会津はようやく春めいてきたばかりなのに、南会津町から栃木県日光市を結ぶ山王トンネルを過ぎると、そこはまさしく春真っ盛りであった。川治温泉あたりからは、レンギョウの黄色に圧倒された。そして、白いコブシの花に気高さを感じた。鬼怒川温泉では、赤い梅はほぼ満開。雪国会津のように、梅と桜とがあでやかさを競うということはなく、薄ピンク色の桜はようやく開花した感じで、陽あたりの良い場所では咲き始めているが、山間部では蕾がふくらみかけた所もあった。上京するおりには、決まって東武鉄道を利用する私にとっては、それらはいつもの見慣れた光景である。後2週間も経てば、周囲の山肌に淡紅色の山桜が点綴し、その美しさはまた格別である。それだけに、この季節になると私は「年々歳々花相似たり/歳々年々人同じからず」という漢詩を口ずさんでしまう。初唐の劉廷芝の作といわれるが、毎年同じように花は咲くのに、それを愛でる人たちの顔ぶれは同じではない。そうした歳月の経過を思い知らされれば、どんな人間であろうと、感傷的な気分にさいなまれるのである。すでに私も還暦を迎えており、これからの道のりは限られている。気ぜわしく走り抜けた若い頃と違って、じっくりと自然の美を堪能しても、とやかく言われる年齢ではない。残された1日1日を大事にしたいものだ。「洛陽の女児顔色を惜しむ/ゆくゆく落花に逢うて長く嘆息す」というように、時間は止めようがないのだから。

 
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「三丁目の夕日」の東京が今も思い出のなかに息づく

2012年02月16日 | エッセイ

 年をとるというのは、せっかちになることなのだろう。昨日の夕方、小学校からの友人に電話した。還暦を直前にして、健康のことなどを話題にしたが、友人と話をしていると、小学生に戻ったような気分になるから不思議だ。いつも決まって東京オリンピックを前にした、昭和37年頃の頃のことを思い出してしまう。西岸良平の「三丁目の夕日」の舞台がそうであるように、ほのぼのとした懐かしいその時代に舞い戻ってしまうのである。私は祖父母と一緒に、会津若松まで乗合バスに揺られて砂利道を走り、そこからSLで郡山まで出た。その先は急行だったかと思うが、とんでもなく時間がかかった。東京はどこまかしこも工事をやっていて、うるさかった。サイレンが耳に残っているのは、近くで火事があったからだろう。祖父母が浅草はなやしきに連れて行ってくれたことと、開通したばかりの地下鉄に乗って出かけ、デパートでフルーツパフェを食べた記憶がある。甘い味がまだ舌に残っている。祖父の弟に用事があって上京したのだと思う。今日、久しぶりに私は上京するが、時代は目まぐるしく変わってしまった。高速バスを利用する機会が増えて、JRはここ10年で1回しか乗ったことがない。そして、今も目に焼きついている「三丁目の夕日」の東京は、どこを探しても見つけることができない。あれもまた過ぎ去った出来事のひとコマに過ぎないのだろうか。

  
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語られざる刃としての土俗的情念を代弁した現代の眼

2012年01月30日 | エッセイ

 会津は今日も雪である。まだ若干風邪気味だが、ペースは戻りつつある。2、3日前の熱っぽいときには、熱っぽいことを考えてしまうもので、10代後半の愛読書が「現代の眼」と「論争ジャーナル」あたりであったのを思い出して、あのときの雑誌が手元にあれば、一瞬でも、その時代に戻れるのではないか、という気がしてならなかった。幸福な日々であったわけではなく、心もとない生活ではあったが、ある種の希望はあった。いやそれはうがった見方で、それを創りだそうとしていたのかも知れない。「現代の眼」の元編集者をしている人と、私は懇意にさせてもらっているが、彼と話していると、ついつい竹中労、松本健一、桶谷秀昭らの当時の執筆者の名前が出てきて、盛り上がってしまう。私のような保守民族派がどうして手にとったかというと、新右翼のイデオローグも、そこで書いていたからだが、それ以上に、当時の新左翼には、ナショナリズム的情念が感じられたからである。それは文章に直接吐露されていなくても、語られざる刃として、その刃先はまぶしかった。今の民主党政権を担っている中に、団塊の世代の全共闘グループが含まれているというが、彼らに共感を感じないのは、その情念を一欠けらも継承していないからだ。「現代の眼」はすでに廃刊して久しいが、変革の時代には、それ相応の月刊誌があるべきだと思うのは、私の無い物ねだりだろうか。

 
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会津の冬は地面から冷気が突き上げるモノトーンの世界

2012年01月27日 | エッセイ

 会津は毎日が雪の連続で、地面から冷気が突き上げてくる感じで、突き刺すようにピリピリとする。先月までは京都や東京へと大忙しだったが、少し気が抜けたと思ったらば、風邪をひいてしまった。一日頼まれている仕事を放り出して体を休めたので、少しは体力が戻ってきた。今の会津の寒さといったらば、言葉にできない位だ。若い頃と違って、側に風邪の人がいても、すぐにうつらないが、一度罹ると治りにくいのではなかろうか。寝転がって松原泰道著の『きょうの杖言葉』を読んでいると、良寛の「死ぬ時節には死ぬがよく候」という手紙の一節が紹介されていた。どことなく突き放された言葉のように思うが、良寛は手抜きをせずに、残された命をまっとうしろというのだ。松原も「自分のことですから、観念や概念といった、抽象的な受け止め方ではなく、具体的に、自分の死を学ぶべきです」とコメントしているが、百歳の人に言われると、説得力がある。還暦を前にすると、私も自分の寿命をいうことを、ついつい考えてしまう。だからこそ、物事が全て億劫になってしまうのだろう。これを書いている今でも、戸外では雪が音もなくしんしんと積もっている。その世界はあくまでもモノトーンの世界であり、ときたま雲間から月の光がこぼれてきたりすると、あまりにも静寂過ぎて、死後の世界が広がっているような気がしてならないから不思議だ。

 
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「男なら」を口ずさんだ予科練崩れの亡き父を想う!

2012年01月15日 | エッセイ

 亡き親父が、何かあると口ずさんでいたのが「男なら」であった。昭和12年に歌われたバージョンと、今流布されている歌詞には、かなりの違いがあるようだ。親父は昭和2年生まれて、旧制中学から予科練に行った。敗戦になって、琵琶湖の近くにあった大津の航空隊から、飛行帽と軍刀だけを持って、会津に戻ってきたのである。死に後れた負い目を引きずったこともあり、36歳の若さで散り急いでしまった。世の中は、これから高度経済成長に突入しようとしていた矢先であった。東京オリンピックの準備が急ピッチで進められていた。親父のことで、小学校低学年であった私が覚えているのは、その切ない歌である。意味がよくつかめなかったが、それでも、「元を糺せば裸じゃないか」「運否天賦は風まかせ」「胸に日の丸抱いてゆく」「歌で国難吹き飛ばせ」という言葉が、この年になっても、耳に残っている。親父が死んだ年齢の倍以上も、私は長生きしてしまった。それこそ、太く短くと公言していたように、若いままの姿しかとどめていない親父の写真を目の前にして、還暦を前にした自分の不甲斐なさを、ついつい痛感してしまう。一度死を覚悟した者にとっては、その一線を越えることに、ためらいなどあるはずもなかった。国に殉じようとした親父の一途さを、私は息子として誇りに思っているし、その気持ちがあるからこそ、憂国の情がこみ上げてならないのである。

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純白で物音もしなくなる雪国ならではの不思議な体験

2012年01月13日 | エッセイ

 雪道でハンドルを取られて、脱輪してしまった。会津坂下から喜多方までの県道だが、見渡す限り純白の世界であるのに、ついつい心を奪われたのだ。雪国に住んでいれば、あたりまえの光景であるのに、今回ばかりは勝手が違った。江藤淳が「雪が降っていると物音もしなくなる。列車の進行する音は多少聞こえますけれども、なにか耳の中に綿を詰められたような感じになって、現実から一目盛りだけわきにずれた世界に連れて行かれるような幻想にとらわれる」(『こもんせんす』)と書いていたが、私も同じように、異質な世界に紛れ込んだかのような、不思議な体験したからだ。路面が凍結してたこともあり、横に滑ってしまっただけなのに、夕暮れであったせいか、空と目の前の雪が重なって、天から滑り落ちている感じであった。江藤淳は北陸を列車で旅していたときの印象だが、私の場合は、ハンドルを握っていて、見慣れた光景が一変することへの驚きである。そして、すぐ来るはずのJAFの車が、道に迷ってなかなか到着しなかったので、わざわざ停車して声をかけてくれた若い人の声で、また現実に引き戻されたのだった。わずかな時間とはいえ、私もまた「現実から一目盛りだけわきにはずれた世界」を覗き込んだのである。

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2・26事件の憂国の志士渋川善助の妻を偲ぶ

2011年02月27日 | エッセイ

 2月26日の昨日の夜、会津若松市七日町、渋川問屋の憂国の間で「渋川善助を追悼する会」を開催した。主催は会津草莽隊で、会津ばかりではなく、福島市や青森市などからの参加者もあった。全員で「昭和維新の歌」を斉唱したりで、かなり盛り上がったが、甥にあたる渋川問屋社長の渋川恵男氏から一枚の写真が見せてもらうことができた。そこにはアジア主義の巨頭頭山満と一緒に、渋川の妻絹子が写っていた。2・26事件が起きた昭和11年の7月12日に渋川は銃殺の刑に処せられたが、悲しみにくれる家族のことを思って、その翌日あたりから頭山が夫婦して、渋川の生家である渋川問屋に滞在したのだった。澤地久枝の『妻たちの2・26事件』では「同志将校の結婚写真に写っている渋川夫人は、黒瞳の大きい豊満な顔立ちである」と描写されていたが、その写真を見てみると、その通りのふっくらとした顔つきの美人であった。彼女は渋川とともに、2月26日の決行前である2月23日、湯河原の伊藤屋に泊まり、別館に滞在中の牧野伸顕の動静を偵察している。昭和9年に結婚したばかりの新妻にもかかわらず、夫と一緒に飛び回っていたのである。渋川問屋は現在では料亭となっているが、建物は当時のままであり、渋川の寝起きした部屋が、憂国の間と名づけられたのだ。渋川善助を語るにあたっては、愛妻絹子のことも忘れるべきではないだろう。

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占領政策への抵抗の歌であった「雪の降る町を」

2011年01月30日 | エッセイ

 会津は今日も雪である。それもぼさぼさ降っている。日曜日のせいか、車もそれほど走っておらず、まさしく「雪の降る町を」の情景である。「雪の降る町を」は、昭和28年にMHKラジオ歌謡として発表されたもので、戦後の歌なのである。それを知っている人は、ほとんどいないのではなかろうか。作詞は内村直也、作曲は中田喜直であった。内村は「進駐軍占領下の心情を吐露した」といわれる。民族独立への思いがこめられていたのである。だからこそ「おもいでだけが/通りすぎてゆく」のであり、「この哀しみを/いつの日かほぐさん」「このむなしさを/いつの日か祈らん」という歌詞になったのである。先の大戦で日本は、軍人と民間人を合わせて300万人以上の犠牲者を出した。昭和28年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効され、体面上は主権を回復したが、占領軍に押し付けられた憲法は今なお改正されていない。戦後体制がそのまま続いているのだ。さらに、国のために散華した者たちの慰霊も、なおざりにされたままだ。独立国家として保持すべき軍隊も、日陰者扱いである。日本人にとっての戦後とは、過去の日本を捨て去ることであった。しかし、それによって、失ったものも大きかったのである。

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忘れられた日本の原風景が息づく会津

2011年01月21日 | エッセイ

 仕事の関係で昨日上京し、帰りが南新宿午後11時発の夜行バスになったので、ブログの更新が今になってしまった。朝から飛び回っていたからだ。しかし、南新宿のバスターミナルから出るバスを待っていて、しみじみと今の世相を観察してしまった。新幹線よりは安上がりですむというので、利用者も多かった。高齢者が目だったのには、ビックリした。倹約志向がそうさせるのだろう。ワンカップをあおる労務者風の人がいなかったのは、もはや大都会ですら、働く場所がないのだろうか。寒々とした場所にかかわらず、誰もが行儀よくて、騒ぐ人もいなかった。どこで時間をつぶすのかと見ていると、近くのファストフードの店であった。列を作って並んでいた。バス自体はJRのせいか、乗り心地というか、寝心地が良かった。どうせホテルに泊まっても、熟睡はできないのだから、ウトウトはできるから、それだけで十分なのである。学生時代にもどったようで、内心ウキウキであったが、会津に帰ってからが大変であった。雪に埋まってなかなか車が動いてくれないし、ようやく走り始めたと思ったらば、路面が凍結していてハンドルが取られ、一瞬目をつぶってしまった。冬の会津は、危険がいっぱいなのである。でも、朝焼けの磐梯山は、清々しかった。あくせくしている日本人が忘れている原風景が、まだまだ会津には息づいているのである。シルエットのように浮かび上がる磐梯山の稜線は、長く長く尾をひいていた。

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