ポポロ通信舎

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「無産村」から「社会党村」へ 須永好 (13)

2012年10月05日 | 須永好 研究

終戦の年(1945)の初秋、10月の今頃の須永好の様子をのぞいてみましょう。

10月1日 前橋公園での演説会に出席した。野外での演説は初めてである。政治の自由とはこれであるか、天高く、空気よし。(須永好日記)

10月18日 太田町の太田会館で新田郡農民組合結成大会が参加者500名を集めてひらかれた。強戸村農民組合旗を木箱に封印してから5年が経っていた。

10月20日前橋の群馬会館で日本社会党群馬県支部連合準備会が開かれた。

10月21日須永好のもとに旧自治会(地主派)幹部、岡部周治氏(後の社会党衆議)ら数名が社会党への加入を申し込んできた。その後は次第に強戸村全体が社会党勢力一色となっていく。かつての「無産村」は「社会党村」として再び全国に知れ渡るところとなる。

今、米国に進言できる政治家は・・

農民にとっては、食糧危機、インフレ、失業の脅威の中で一刻も早く農地改革問題を解決するという差し迫った課題があった。須永好は農村民主化の実現のためにGHQにしばしば足を運び提案をしている。それはやがてマッカーサー指令として有名な「農民解放に関する指令」の形となって日本政府に指示された。今、わが国の政治家で、須永好のように米国に進言できる政治家は果たして何人いるだろうか。ダメな指導者は「自分には権限がない」と言い逃れる。「権限」はなくとも「提言」することはできるはずなのだが。米国からの「指示待ち」政治家は、もうこの辺でお引き取り願いたいところだ。

上位当選の須永好、泡沫の伯父

ここで終戦解散を事由に行われた1946年(昭和21)の22回総選挙を見てみよう。群馬県は全県1区。2名連記制、定数10名。立候補者54名。有権者の関心は高く投票率76.75%。私は『県政風雲録』(自民党県連監修)を手元に参照にしていますが、ネットでも確認することができます。

1位 当選 127,007票 野本品吉 無所属(国民協同党系)
2位 〃    71,419票 最上英子 進歩党
3位 〃    69,870票 飯島祐之 進歩党
4位 〃   67,871票 須永好 社会党
5位 〃   62,431票 鈴木強平 進歩党
6位 〃   47,787票 山田悟六 進歩党
7位 〃   46,287票 町田三郎 社会党
8位 〃   42,955票 武藤運十郎 社会党
9位 〃   40,793票 滝澤浜吉 進歩党
10位〃   36,700票 小峯柳多 自由党


この時の選挙は「東毛は断然、須永好が強かったよ」という亡母の証言通りの結果を確認することができる。余談ですが、わずか1,488票の泡沫候補に私の伯父、遠藤良平(弁護士)が保守系の会派から立候補していました(苦笑)


農民衆も多数参加の大メーデー

さて総選挙直後の5月1日メーデーは1936年に禁止されて以来、実に10年ぶり。須永好もこの日は地元に帰ってメーデーに参加している。5月1日8時半、太田駅に労働者農民大衆が集結。今では農民の人たちの姿は極めて少なくなりましたが・・。10時にデモ行進に移る。須永好が先頭に立ち太田駅、呑龍さま、中島飛行機八幡寮、強戸国民学校(強戸小)のコースを歩く。強戸の社会党員、農民組合員、新田開拓農民、官公労、民間企業の労組が思い思いのノボリやプラカードを持ち威勢が良かった。先頭が強戸に着いたというのに後部はまだ太田駅前にいたぐらいだった。(『未完の昭和史』P285)

【写真】未完の昭和史を手に太田市新田市野倉町・須永地蔵堂で

 

  【須永好、すながこう】1894-1946 群馬県旧強戸村生。旧制太田中を中退後農業に従事するかたわら農民運動に携わる。郷里強戸村を理想郷へと農民組合を組織しわが国初の革新自治体“無産村強戸”を実現。戦後は日本社会党結成に奔走、日本農民組合初代会長 衆議3期(戦前戦後通算)。

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    未完の昭和史
元衆議院議員 須永徹著
日本評論社
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