ポポロ通信舎

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国定忠治の魅力とは

2011年11月22日 | 研究・書籍

面白い本でした。『国定忠治』(群馬出版センター、小西敬次郎著)=写真

昨年一度、国定忠治遺品資料館(伊勢崎市国定村、忠治の墓のある養寿寺境内)を訪れましたが、ひなびた館内に、ヨレヨレの三度笠やマント、刀などがあったような記憶があります。これまで訪ねた幾多の資料館では一番みすぼらしかったが、それがかえって天下に聞こえし渡世人の「ボロは着てても心は錦」の粋が感じられました。ただ小中学生の見学先としてはおすすめできません。

著者の小西敬次郎氏は1930年生まれ。上毛新聞社編集部長、群馬テレビの役員を歴任した人。よくここまで国定忠治について詳しく調べたものだと感心します。著者によると出典の多くは『赤城録』に基づくものだという。それでは『赤城録』を記録した人物とは一体何者なのか。羽倉簡堂という人物で大阪生まれの武士、忠治より20歳上。父の代からのお代官様で、各地の代官所を回ったいわゆる高級官吏の“転勤族”。のちに忠治が襲った岩鼻代官所(現在の高崎市「群馬の森」あたり)でも一時期赴任したことがあります。

著者の推測では、今のように言論の自由もままならない中、江戸幕府の高官が、処刑された一博徒を評価し書に著わすというのは相当な覚悟と信念が必要だった、と。忠治の行動には時代性と社会性が富んでいる。そのあたりに羽倉簡堂自身、強く惹かれるものがきっとあったのだと思えます。

 

二足の草鞋の親分衆

さて前置きが長くなりましたが、庶民に人気のある忠治の魅力とはどこの有るのだろう。その前に予備知識として、「二足の草鞋(わらじ)」について整理してみます。「二足の草鞋」とは「同一人が両立しないような2種の業を兼ねること(広辞苑)」として現代でも会話等で使われますが、「もと博徒などが十手をあずかるような場合をいった(広辞苑)」の意味もありました。幕府は地方の治安維持にその土地の博徒を道案内人として起用した。無給の道案内を何年か勤めると捕吏(役人)の「目明し」に取り立てた。つまり「毒には毒をもって制す」とか「蛇の道はへび」といった手法を取り締まり、巡察に利用しました。私はこの本を読むまで「十手」をもつ人は皆が皆、下級官吏か豪商であって、まさかヤクザの大親分が兼務していたとは思ってもみませんでした。

貧民救済の義侠

「忠治の魅力」に入りましょう。魅力の第一は、忠治は二足の草鞋を履くヤクザを徹底的に嫌った。ヤクザの道一筋の「筋者(すじもん)」で生涯を通した。二足派の親分が多かった中で、生粋のヤクザでありつづけた。魅力その二は、19世紀の江戸時代後期、世は天保の大飢饉(1836年)。冷害、洪水、暴風の災害続きの中、窮民救済に決然と立った忠治。国定村880戸中260戸の極貧困窮者に米、銭と交換できる切符を気前良く配る。そのため忠治の身上はすっからかん。しかし赤城山麓一帯の山村からは一人の餓死者も出さなかったと言う。博打は強運で財は有ったが、一方金離れもいい気風(きっぷ)のよさ。その三は生涯、反体制、反権力を貫いた。良民から年貢や保釈金を不当に搾り取る悪代官は許せなかった。岩鼻の代官所を襲って代官松井軍兵衛らを斬殺。備蓄米は困窮する農民に開放し与えた。

不思議なことに代官所襲撃の件では、ご公儀(幕府)は身内の役人の悪徳行状を表ざたにしたくないためか忠治をとがめなかった。忠治が捕らえられ処刑されたは、別の殺しと関所破りの罪状でした。

代官所を襲った忠治

十手を片手に、二足の草鞋を履く親分衆は、ちょっと見には世間に背を向けご公儀にたて突いているようでいて、実は公権力にしっかり協力しているということになります。そうした点がまったく見られなかったのが忠治の特徴で、この辺のことはウィキペディア(国定忠治)には書かれていない。大胆にもお上(幕府)の出先機関である代官所を襲ったり、磔(はりつけ)の極刑で惨死したヤクザは歴史上、国定忠治を除いて他にはいません。

著者は「国定忠治は天保という自然大災害の時代と上州人気質が生ませた、あるいは生んだ異端児、異端やくざと言えるかもしれない」と結んでいます。同じ感想です。

【写真】十手(じって)。奉行所の捕り物の協力者が携帯できる武器。警察官の警棒のようなもの。

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