ポポロ通信舎

(旧・ポポロの広場)姿勢は低く、理想は高く。真理は常に少数から・・

基地の街だった大泉町  (番外)

2010年06月05日 | 中学生下宿放浪記
私が中学1年のとき、前橋から大泉にやってきて初めて広大な敷地の米軍基地に接したときの印象は「すごいなぁ~。こんな所があったのか。」と驚嘆しました。
英語文字の立て看板が所々にあって、まるで大草原のような異空間。「カッコいい~!ここは日本じゃない、外国だ、アメリカだ!」

異国情緒にあこがれる一方、余り使用されているように思えない空きスペースに、しだいに疑問も芽生え始めたものです。

高校へ通学するある朝、自転車でいつものように専用道路(※)を通って太田に向かっていますと、米兵(日本人のような顔つきの兵士でしたので日系人?)が、たいまつを炊いた道路に立っていて「迂回しろ」と手を横に振ります。
朝の通学時は、分刻みで急いでいるだけにむっとしました。ここは日本の道路なのになんで突然閉鎖するのだろうか、と思いました。このような事は、一度だけでなく何回もありました。今時の道路工事中などでは、警備の人が愛想よく誘導してくれますが、それとは違った雰囲気に感じました。

大泉から自転車で一緒の同級生に、私が不満を込めてこの事と、さらには使われていない大きな基地がいつまでもこの街にあることに変だと思わないのか尋ねてみました。しかし友人は冷静で「別になんとも思わない、基地は昔からあるから」との返答でした。

最近、基地問題のTV報道の中で、沖縄の青年たちに基地の存在についてマイクを向けると「生まれた時から基地はあるから、特になんとも思わない」と聞いたとき、私が高校時代に友人に投げかけた質問を思い起こしました。

本土がいわば「前橋」、基地のある沖縄が「大泉」で、長くそこに住むものによって感じ方にずいぶん違いがあるものだなと思いました。
しかしこの友人も、その後しばらくして、私の質問の影響かどうかは分かりませんが、広い土地が有効活用されていないことには納得できない、と言うように変化していきました。



(※)【専用道路】大泉町(西小泉)から太田市(新島町方面)に行く道は、大戦中は、中島飛行機小泉製作所で出来上がった軍用機を試験飛行で移動するための専門の道路だったことから、地元では「専用道路」と呼ばれるようになったそうです。専用道路には、直線のものと、L字形の迂回路の2系統がありました。現在、利用されているのは迂回路の方です。直線の道路は、返還後は富士重工のモータープール内に解消され今はありません。

【写真】1960年代、高1の筆者と友人の弟。場所は、今のスバル公園付近。

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コメント (1)
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