Model 107

1985年の107
じっくり時間をかけてお気に入りの一台に仕上げます。

富内線 日高町駅 北海道旅行 9月1日 2014年

2014-12-30 | Weblog
富内線終着駅の日高町駅跡にやってきました。

若干位置が分かり辛くて難航しました。

取り敢えず国道脇のGSで給油をします。

そこのスタッフさんに駅跡の場所を尋ねました。

しかしそのスタッフさんはイマイチ良く分からないようです。

すると隣で別のクルマの給油作業をしていた年配のスタッフさんが来て、「あの方向!」って指を指して教えてくれました。

ここで教訓ですが、廃線跡遺構を訊ねる際には年配のスタッフさんに尋ねることですね。

10代~20代の若いスタッフさんはそのような鉄道の存在すら知らない場合があるようです。

そのモニュメントは夏草に埋もれてひっそりとそこにありました。

標識や案内プレートがある訳ではありません。



まるで住宅造成地のような雰囲気の場所にそれはありました。

画面中央の石がそうです。

そしてその奥に見える黄色い物体が親切に場所を教えてくれたGSです。

確かに多くの言葉など必要ないほどストレートな場所です。

スタッフさんの「あそこ!」の意味が良く分かりますね。



この写真の方が位置関係が良く分かりますね。

デッカイ花壇のような場所の中程にそのモニュメントは建立されています。

その向こうに先のGSがはっきりと見えています。



今度はモニュメントの裏側に回って見ます。



現役営業時の日高町駅の写真を見ますとそれはなかなか立派な駅舎で、それが廃止後には案内板一つも無く、この石碑一つになってしまうとは寂しいものですね。


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D51-23号機 富内線 振内駅 北海道旅行 9月1日 2014年

2014-12-30 | Weblog
振内駅跡構内に展示されている「D51-23号機」を鑑賞します。

この蒸機とは2度目の対面です。

まだレールファンとして半年くらいもたたないときにこの鉄道記念館に訪れています。

とは言ってもその頃は「D51蒸機」にしか興味は無く「D51-23号機」に導かれて来たようなものでした。

形式名のD51と車番の23との間の“ハイフン”のその意味すらも分かっていませんでした。




日本中の多くの蒸機を見て歩いてきた現在でこそ、一目で輸出仕様のD51はすぐに判別できますが、あの頃は「?マーク」が一杯でしたね。



「DeAGOSTINI」のクラフト・マガジン 「D51を作る」のお陰でD51のディテールを覚え込むことができました。

いまこうして「D51-23号機」を鑑賞しますと、細部はともかく紛れもないD51の骨格?を確認することが出来ます。

もうあれから3年の月日が過ぎてしまったのですね…

あの時の「D51-23号機」の佇まいは少しも変わってはいないように見えます。

2011年の「D51-23号機」の記事はこちらから…



いつものように「公式側」から鑑賞してゆきます。

もうすっかりこの作法は身につきましたね。

「D51-23号機」の外観は2011年の頃のそれと殆ど変わらず、「カサッ」とした油の抜けた外観です。



シリンダー・カバーの点検口からは草花が顔を出しています。

シリンダー・カバーの内部はかなり湿度が溜まっているということですね。





コンプレッサーは国内仕様のオリジナルと比べると「小ぶり」な感じがします。



キャブの窓部には不透明な“アクリルプレート”のようなもので塞がれていて中を鑑賞することは出来ません。



キャブは寒冷地仕様で密閉型となっています。

2011年に訪れたときには、キャブのドアー下に「寄贈 福本 次雄氏」というプレートが掲げられていたのが印象的で記憶にも残っていたのですが、今はそれは撤去されてありませんでした。

なぜでしょう?



公式側後方からテンダーを含めて全体像を見てみます。

紛れもない「D51」スタイルですが…

テンダーのパネルが妙に「ツルン~」とした印象も受けます。



テンダー後部もやけに「サッパリ」とした印象です。





非公式側のキャブ窓のアクリルプレートには、まだ“透明度”が残されていて、キャブの内部を観察することが出来そうですが、キャブによじ登る足場が無くてそれは断念しました。

こちら側は「日陰」になっていて、太陽の直撃を受けなかったのが幸いしたのでしょうね。

2015年の装備に「脚立」と「長靴」を加えようと思うオジサンでした。



主連棒の赤の塗装はその鮮やかさがすっかり失われ「朱色」のようになっています。

ボデーのカサカサ具合とマッチしています。

ここだけ色鮮やかだったら逆に違和感ありますね。




こちらのシリンダー・カバーもかなり状態は悪そうですが、日当たりが悪いせいでしょうか、草花が点検口から顔を出しているような惨状は呈してはいません。



初めて出会った頃から3年の歳月が流れ、レールファン歴超初心者だったオジサンもいっぱしのSL初心者となれました。

「超初心者」→「初心者」ぐらいにステップアップできたのではないでしょうか。

暫く振りに2011年の記事を読み返し、撮影した写真を見てみました。

この頃はまだ何も知らなくて、写真からは「とにかくD51を沢山見てやろう!」という気迫のようなものが感じられました。

今年2014年に撮影した写真を見ますと、すっかり「おすまし風」少し上から目線を感じました。

まだまだ初心者の気持ちを忘れずに真摯に蒸機と向き合う気持ちを忘れないようにとサハリン帰りの「D51-23号機」が諭しているようです。

元気でなぁ~「D51-23号機」

また来るからね。



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富内線 振内駅 北海道旅行 9月1日 2014年

2014-12-26 | Weblog
富内駅から振内駅跡の鉄道記念館へやってきました。

こちらには、敷地内に展示されている「D51-23号機」目当てに2011年9月に訪れていてブログにも掲載させて頂いております。

2011年の振内駅の記事はこちらから。

鉄道記念館のその佇まいは2011年に訪れたときと全く変わりはありませんでした。

記念館前の花壇の花も綺麗に手入れされています。

珍しく先客が記念館の中の鑑賞をしていらっしゃいます。



記念館の正面壁面には「義経号」のレリーフがあります。

前回、訪れた時のほうが綺麗に撮影できましたね。

今日は陽射しが強くて、ガッツリ影で分断されてしまいました。



ちょっと引いて見てみますと、この様な感じであります。

それにしても、綺麗に作るものですね。



記念館の前から駅前通りを見てみます。



ガサゴソ…草を掻き分けて構内に降りてみます。



2年前に訪れた時と印象は殆ど変わっていないように見えます。



記念館の裏側です。

北国の建物らしく、暖房用の石油タンクとエアコンの室外機が並んで設置されています。

近年は北海道といえ真夏は結構暑いのでエアコンも珍しい設備ではなくなっています。

駐車場のオデ君も見えています。



ライダーハウスとして使われていた客車車両が残されています。

こちら側(裏側か?)から見るとかなり保存状態が悪いようです。

このまま放置されていると、いずれは廃棄処分とされてしまうのではないでしょうか…





線路の終端部です。

先の富内駅のに比べると規模も長さも1/5くらいでしょうか…

左側にはサハリン輸出仕様の「D51-23号機」が写っています。



ホームのほうへ回りこんできました。

こちら側は、花壇の手入れも行き届いていて、ライダー・ハウスの客車の状態も若干ですが良さそうです。



「すずらん号」という名称の“サボ”が掲げられています。



画面右側の「銀色」のポールのような物体は一体なんだったのでしょうか…

今度訪れるときには正体を確かめてきましょう。



ホーム上には富内線の駅名標が花壇とともに並べて展示しています。



「振内」の駅名標です。

こちらは雰囲気から見て相当に“オリジナルっぽい”です。

しかし、フレームのペンキがはみ出してきていて、かなりラフな仕上がりです。

職人さんの仕事ではないでしょうね。

相当素人っぽいですから。





「ほろしり号」の内部です。

おそらく「ライダー・ハウス」として利用する人は少ないでしょう。

でも、とても綺麗に整頓されていて荒れた雰囲気はありません。






路盤に降りてみます。

ホームの縁石の破損具合が酷いですね。

このままの状態で放置していて良いのでしょうか?



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東京駅100年の記憶 TOKYO STATION GALLERY 2014年12月

2014-12-24 | Weblog
富内線記事の途中ですが、「TOKYO ステーション・ギャラリー」で開催されている「東京駅100年の記憶展」に行ってまいりました。

12月20日には東京駅の記念スイカ販売で大変な騒ぎとなっておりましたが、そのような騒ぎには遭遇することなく、静かな場所でゆっくりと鑑賞してくることができました。

企画展のポスターですが、さすがに超一流のデザイナーの作品だけあって素晴らしい出来栄えだと感心します。

このポスターの写真は明治~昭和の写真家「宮内幸太郎」氏が1911年に撮影した「中央停車場建築」という作品だそうです。

この時代に「カメラ」を持っていること自体、一般庶民ではありえないことだったでしょうが、その時代の背景を写し取っている作品だと思います。

建築中の構造材の鉄骨梁材がはっきりと見ることが出来ます。

その鉄骨材の隙間から向こうを透かして見ることが出来ますが白い壁の一軒の家を確認できます。

今日のような「足場」や「天幕」、材料の「搬送機」みたいな建築補助材などは見当たらず、長~い梯子が写っています。

しかし…不思議なことに“現場”には作業員らしき人影が全く見当たりません。

写真は、手前側が「丸の内」側、向こう側が「八重洲」側だと想像します。

東京駅の正面といえば皇居側の丸の内でしょうからね。

駅前には工事現場の簡易的な建物が建てられています。

パイプのような建設資材が積まれたスペースの奥の建物には洗濯物が干されています。

屋根の上には職人さん風の人物が確認できます。(*腰に手を当てて…仕事をしているようには見えませんが…)

その前の道路には自動車の姿は無く、自転車と荷車のようなものが写っています。

白い夏服の制服姿の役人風の人物と一般人らしき人が写っています。

不思議なことにその人々の顔はどれも「東京駅」の方にではなく「こちら側(*カメラ側)」を向いています。

撮影者がよほど目立っていたのでしょうか?

「これから撮影するぞ~!」ってね。

それにしても、不思議…というか、面白い写真です。

原版を見てみたいです。

8”X 10”くらいのサイズで撮影しているのではないでしょうかね?




パンフレットの裏側です。

上部の「東京驛」が入館券の意匠として使われていました。



今回の展示会で最も興味深かったのがこの煉瓦壁です。

プレートにもあるようにこの煉瓦壁は創建当時のものだそうです。

企画展の鑑賞が目的でしたから、「カメラ」は携行していませんでした。

以下の写真は、iPhone で撮影したものです。



「ふ~ん…これがそうか…」なんてね。

この煉瓦壁は展示室のものではなく、階段の壁のものですよ。



鉄骨の梁材が切断されています。

煉瓦の間には「木材」が挿入されています。

しかも、一部の木材は炭化しているように見えます。

解説によると、1945年5月25日の東京大空襲の際に東京駅北口屋根を直撃した焼夷弾によって駅本屋は焼け落ちてしまいました。

その際の炎によって煉瓦の間の木材は炭化してしまったようです。



パンフレットの写真に見たように、確かに梁材に鉄骨材が使われていることがわかります。



煉瓦材の間にどうして木材が挿入されているのか…理由は良くわかりません。

展示室の説明に、使用された煉瓦材の個数が記述されていました。

そこには…構造材として使われた煉瓦個数と装飾材として使われた煉瓦個数が示されていました。

その記述から想像するに、内装の装飾材等を固定する為の下地として木材が挿入されたのでしょうか…



ギャラリー展示スペースから出口へ向かうときにこの“回廊”のような場所を通りドーム下のコンコースを見下ろすことが出来ます。

この場所の見晴らしもギャラリーの入館料金に含まれているわけです。

ぐるっと一回り鑑賞してきました。



ギャラリーを出て最後にドームを見上げます。



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富内線 富内駅 北海道旅行 9月1日 2014年-03

2014-12-22 | Weblog
先程は「鵡川方面」へ向かって構内の終端部まであるいてき、そこから駅舎へ戻るように歩いてきました。

丁度、駅舎の向かい側辺りに鮮やかな色の花が植えられている花壇があります。

宮沢賢治さんという方は、詩人であり農業にも貢献した方だったのですね。

ここで初めて知りました。

パネルの上部、ちょっと見難いですが「涙ぐむ眼」のスケッチが描かれています・。




白い矢印で示した花壇がその「涙ぐむ眼」を再現した花壇のようです。

確かに「眼」のように見えます。

前項の写真にありますように、宮沢賢治さんのスケッチをもとに造られた花壇だそうです。

先の「宇宙飛行士毛利衛さんのアイディアによる、レールが天空に延びて行く銀河鉄道を表した作品」と共に銀河鉄道を象徴する作品のようです。

いまだに「銀河鉄道の夜」を読み切れないオジサンです…




駅舎側ホームには富内線の駅名標が並べて展示されていました。



「とみうち」の駅名標…あまりに綺麗過ぎて「レプリカっぽさ」満点です。



ホームから再び路盤に降りて歩き始めます。

この先が「日高町」方面となります。

ここにも「腕木信号機」が残されています。

このような遺構には抜群の相性の「腕木信号機」です。



3線のレールが一つにまとまります。

ここが駅構内の終端となるのでしょうか…




さらに歩き続けます。

そうとう「暑い!」ですが、それよりも興味の方が勝ります。



いよいよ「単線」となり夏草も厚くなってきました。

路盤は続いているように見えますが、そろそろ線路の終端部が見えてくるのでしょうか…



夏草が繁茂するエリアを危険動物の出没に怯えながら踏破します。

なんと! 線路はまだカーブを描きながら続いています…

どこまで続いているのかな…少し不安になってきます。



「ホッ…」 ようやくカーブの先にレールの終端部が見えてきました。




やはり「道路」によってバッサリとそれは切り取られていました。




ここには「警報機」が設置されていたのでしょうね。

その基部が残されていました。




道路の向こう側には、警報機がそっくり残されています。

路盤はその横を、夏草が生い茂る林の中へ消えてゆきます。

さすがに、この先を徒歩で進もうとは思いませんでした。



今来た路盤を振り返って見ます。

富内線富内駅は見応え満点の駅遺構です。

私のような「廃駅巡り初心者」にも安全に楽しめるテーマパークのような遺構でした。

物凄く楽しかったですよ。(結構な距離の路盤を炎天下に歩くので水分補給のドリンクは必携です。途中に自販機はありませんからね)

2015年にもまた立ち寄ってみたい遺構でありました。


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富内線 富内駅 北海道旅行 9月1日 2014年-02

2014-12-18 | Weblog
駅舎外へ出てみます。

正面、引き戸のガラスにオジサンの姿が映っています。



「ありがとう富内線」の大きなプレートの前にあるフレームは、腕木信号機を操作するワイヤを張るためのものでしょうか?



少し離れて駅舎を鑑賞してみます。



花壇の中には大きなリレーボックスが残されています。

こういうのって、昔の子供の頃の記憶では「黒色」が一般的ではなかったでしょうか…



駅構内にはレールもしっかり残されていて視界のかぎり続いて見えます。

まるで営業路線のような臨場感です。



駅舎の方を振り返ってみます。

やはりレールはどこまでも延びているように見えます。

「線路は続くよ♪どこまでも~」なんて鼻歌が出てきそうです。



客車の整備作業が行われています。

最初、富内駅に到着してオデ君を下りた時にシンナーの臭いが漂ってきました。

このペイント作業の臭いだったのですね。



先程まで職人さんが作業を行っていましたが、今は丁度昼食時で誰もいません。



第2種車止…が土に埋もれています。

ってことは、この下にはレールが埋もれているのでしょうか…



線路の向かい側にも新たに造られたような“ホーム”みたいなものがありますが、ホームというにはちょっと違和感はあります。

ブロック塀という方が自然かもしれません。




客車の補修作業現場辺りから、もう一度駅舎方向を振り返って見ます。

駅舎を中心として、左側がホーム、そして右側が駅前になります。

オデ君も見えています。

青い屋根と白い壁の建物は「トイレ」であります。



線路上には黄色いトロッコが残されています。



「とみうち」の駅名標があります。

綺麗に補修されていますが、フレームの雰囲気にちょっと違和感はあります。



腕木信号機と真っ直ぐに延びるレール…

路盤のバラストの上を「ざくざく」音をさせながら歩いていきます。

そうとう暑かったですがそれ以上に楽しかったですね。

念のためバッグにはスポーツ・ドリンクを入れてありましたが、結局これで大助かりしましたよ。



さらに歩きます。

線路脇の木立の日陰がありがたい…




右側を見ますと…なにやら「櫓」みたいな変てこな構造物が見えてきます。

ざくざく…



実は、このモニュメントが見たくて炎天下、ここまで歩いてきたようなものです。

例の北海道新聞社刊「北海道の鉄道廃線跡」には「宇宙飛行士毛利衛さんのアイディアによる、レールが天空に延びて行く銀河鉄道を表した作品?が、施設のコンセプトどおりに作られている」と本文中で説明されています。

この度の富内駅鑑賞の目的の一つだったのですよ。

その“モニュメント”を写真じゃなくて自分の目で見てみたくてね。



Lチャンネルの鋼材で作られたベースに枕木とレールが設えてあり“ランチャー”のように作られています。

そうですね…いかにも「999」が宇宙に飛び立っていくようなイメージが伝わってきます。



「さあ行くんだ その顔を上げて~♪ 新しい風に心を洗おう♪…古い夢は置いてゆくがいい ふたたび始まるドラマのために♪」って、口ずさんでしまいましたよ。

年代的には、こういうの…スウィート・スポットですから。




“モニュメント”基部からながめてみます。

ここから「バビュ~ん」と宇宙に飛び立っていくのか…なんてね。

ちょっと立ち木が邪魔臭いか…

正統派レールファンの方々からは貴重な鉄道遺産の構内にアミューズメント・パークのような展示物を作ってしまって「何なの?これは?」ってご意見もあるでしょうが、鉄道に載せた夢の表現の一つとして、これはこれで宜しいのでは…と思います。



転轍機もしっかりとメンテナンスを受けている様子です。



長い線路も先ほどの“モニュメント”の先からは単線となり、ようやくその終端が視界に入ってきました。



もう一度、銀河鉄道の“モニュメント”を振り返ってみます。

「バビュ~ん…」



終端部は枕木の敷設がラフになってきました。

間隔も広めです。

道路の手前で「ふっつり」と途切れています。



道路側から終端部を眺めてみます。

ここまで歩いてきますと駅舎はもう見えません。

これだけの距離の線路を残してあれば、トロッコではなくて列車を走らせることも可能なのでは…と思われます。




道路で寸断された路盤ですが、その先は舗装路に姿を変えて更に続いています。



腕木式構内信号機を制御するワイヤーが残されています。

駅舎からここまでの距離のワイヤーを操作するのはかなり大変な作業ではなかったのではないでしょうか。




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富内線 富内駅 北海道旅行 9月1日 2014年

2014-12-16 | Weblog
春日駅から途中6駅ほど端折って「富内駅」にやってきました。

廃線巡り超初心者としてはどうしても「原野の中の地味な遺構」よりもこの様な規模の大きな遺構に目を引かれます。

初心者だから仕方がありませんね。

この「富内駅」は駅舎はもちろん、鉄道関連の備品などが数多く展示され、構内にはホームや信号、転轍機など様々な遺構が保存・展示されていて、廃駅のテーマパークの様相を呈しております。

まず、駅舎外観です。

屋根のトタンも真夏の太陽をぐんぐん跳ね返すような光沢を放っています。

壁面のペイントもしっかりと処理されていて大変良好な保存状態であります。







外壁は綺麗にペイントされているのですが、横から見るとなぜかサイド部はペイントされていない木地のままです…

どのような意図があるのか判りません。

まさかペイント材を節約した訳でもないと思うのですが…

やけに頑丈そうなフェンスに囲まれた花壇には色とりどりの可憐な花が咲いています。



駅舎内に入ってみます。

ゴミ一つ落ちていない美しい駅舎です。

出札窓口のガラスも指紋一つ付いておらず透き通るような美しさで、その向こうには映画「鉄道員」に出演した際の広末涼子さんのパネルが飾られています。



ガラス越しに駅事務所を眺めてみます。

さっきまで使われていたような綺麗な乗車券箱が置かれています。

その乗車券箱のホルダーには切符は一枚も残っていませんが、なぜか机の上には“硬券”が3枚置かれています。

日付印字機(Dating Machine)もあります。

天虎工業株式会社と社名が読めます。

製造年月日は「1974」そして「Tokyo Japan」とあります。

その横には、「CASH BOX」が置いてあります。

昭和の商店では必須アイテムだったと思いますが、今ではすっかり見かけなくなりました。






白い矢印のところ…オジサンが夢中で写真を撮っています…子供みたいですね。(というか、自撮りを意識していますよ、楽しそうですね。)

本当はこのショットの意図は、駅舎待合所の綺麗に掃き清められた状態をお伝えしたかったのです。



待合所からぐるっと回ると、なんと事務所部分も施錠されていなくて中に入れちゃいました。

「な~んだ…CPLフィルター使って撮影したのに、徒労になっちゃったなぁ~」でした。

机には、「ほろまい」のホーロー(琺瑯 enamel)製の駅名標が立て掛けられています。

ほろまい(幌舞駅)は根室本線・幾寅駅をロケ地として撮影された「鉄道員(ぽっぽや)」の舞台となった架空の駅名ですよね。

昨年も幾寅駅に行きましたが、「幌舞駅」のほうが全国的知名度が高くて「幾寅駅」といってもピンと来ない映画ファンの方々も多いでしょうね。




タブレット閉塞機も展示されています。

「振内駅」は富内線の駅ですが、あれ?…「鹿別駅」って何でしたっけ?



富内線富内駅の備品も映画「鉄道員(ぽっぽや)」に出演したのですね。



今度は事務所側から待合所のほうを見てみます。

ほらね、ガラスにオジサンの姿が映っているでしょ?



乗車券箱もこの様に正面からガッツリ見ることが出来ました。



こうして見ますと、そもそも事務室入り口には、引き戸自体がありませんでした。

かなり見応えはありましたが、こんなにオープン展示で大丈夫なのか心配になりました。

鉄道小物のコレクターの方にとってはお宝の山でしょうからね…




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富内線 春日駅 北海道旅行 9月1日 2014年

2014-12-14 | Weblog
鵡川駅から最初にやってきたのは「春日駅」です。

(会社のすぐ近くにも“大江戸線春日駅”がありますので、なんとなく親近感を覚えます)

廃線跡巡り“超初心者”にも大変わかりやすくしかも見応えのある遺構が残されている“美味しい”春日駅であります。

国鉄再建法により1986年に廃止された「富内線春日駅」でありますが、廃止後28年を数える今日でも大変良い状態で維持管理されております。

駅名標のアルファベットには特徴的なフォントが使われていて独特の雰囲気を与えております。



鵡川駅から2駅目の春日駅ですが、鵡川(*河川の名称の…です)河川敷きを眺めますと目の前の夏草の覆い茂った辺りが“路盤”であったのかなぁ~などと想像します。

画面左手方向が「鵡川駅」の方角となります。



廃線のガイドブックで何度か見た記憶のある「下河原商店」…鵡川の下流にあるからでしょうか、この店名…

最初にこの店舗が目に入ってきたときに「あぁ…ここだ!」なんて思いましたね。

北海道の原野に消えてしまった数々の廃駅たちに比べると、春日駅は圧倒的に判りやすいランドマークを持っています。



「廃駅」というには妙にお洒落っぽい外観の春日駅待合所です。


現在は道南バスの「春日停留所」の旅客待合所として使用されています。

やはり、今日も公共施設として使い続けられているということが、こうして良い状態を保っている重要な点であると思います。



駅前の道路を見ます。

この先が鵡川駅方面です。

道路の左手草が繁茂している一段低い辺りが路盤だったようです。



こちらが「旭岡駅」方面です。



駅前広場?から「春日駅」正面を見ます。

右側の白い壁に「春日駅」と駅名標が掲げられている写真を見たことがあります。(*駅前は舗装されていませんでした。)

富内線の駅舎はその殆どが「木造」で春日駅のようなモダーンな駅舎は他に無かったのでは…と思われます。

アルミサッシで作られた待合所はサンルームのように内部はとても明るいものです。

なぜ「春日駅」だけがこの様な意匠を採用したのか…その点は不明です。


その横には道南バスの停留所が見えています。



アルミサッシの引き戸は全く古さを感じさせませんし、きちんとメンテナンスされているからでしょうが、動きもとてもスムースでした。

「虫が入るから開け放しにしないように…」というような意味の張り紙に臨場感を感じます。(*張り紙の主はロータリークラブではなくて“老人クラブ”でありました)



待合所内部も当然のように大変綺麗で清潔に保たれています。

プラスティックのベンチは屋内のために紫外線の影響も少なく、本来の色調と光沢を保っています。




こちらが“ホーム側”になります。

アルミサッシで構成されている壁面は良い状態を保っていますが、屋根はアルミ材ではないらしく、経年劣化による錆が痛々しいです。

左側のドアーが開いているところは「トイレ」のようでした。

清掃用具が備えられ、定期的に清掃が行われているようです。



ホーム跡の石積みと路盤とを見てみます。

ここが駅跡と判っていて見ていないと見過ごしてしまいそうな遺構です。

私もレールファンになる前だったら、これがホーム跡だとは思わなかったでしょうし、注意すら払わなかったと思います。



こんもりと盛り上がっている部分がホーム跡だったようです。

待合所からホームまではそこそこな距離があったようです。



こうして見ますと、はっきりと路盤跡が確認できます。

自分でも「レールファンとして進歩したものだ…」と、感心します。



こちらもホーム前の路盤跡です。



私はこのシーンが一番好きですし感動しますね。

28年も以前に廃止されてしまった春日駅の駅名標と、その背景には現在でも営みを続けている人々の生活(郵便配達の車両や商店、住宅)…そしてこれまでも毎年決まって咲き誇る色とりどりの草花たち…その28年分の年模様が凝縮されているみたいな絵柄を感じます。(*オデ君も写っていますし…)



ホーム跡とその一部であると思われる石材が残されています。

石材というのは正しい表現ではないとは思います。
響きが素敵なので石材と書きましたが、“コンクリート材”でしょうね。
かといってRC材にも見えません。
富内線開業当時1922年大正11年と言えば、煉瓦・石材からコンクリートへ鉄道建設資材が標準化され移り変わってゆく時代でした。

若い桜の木が植樹されています。





ここの写真は殆どの人が撮影しないだろうと思います。

誰も撮らないだろうから敢えて説明のために撮影しました。

このバス停を利用している学生さんのチャリでしょうか…


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富内線 鵡川駅 北海道旅行 9月1日 2014年

2014-12-12 | Weblog
室蘭から高速道路に乗って日高本線の鵡川駅にやってきました。

本日は「富内線」の廃線を辿ってみようという訳です。

富内線の起点「鵡川駅」は日高本線の現役営業駅でもあります。

廃線巡りと言いましても、まだ「超初心者」でありますから、例の「北海道の鉄道廃線跡」に紹介されている美味しそうなポイントだけ“摘み食い”しようという魂胆です。



駅前のロータリーの時計は「10時5分」頃を指しています。

手入れの行き届いたロータリーの花壇が綺麗です。

ロータリーの手前には駐車スペースが設置されています。




現役の営業駅ですから綺麗にメンテナンスが行き届いています。

ロッジ風のこの駅の建築様式はなんと言うのでしょうか…リゾートなお洒落な雰囲気を感じます。



梁に取り付けられた駅名標…まだ新品の雰囲気が漂います。

鵡川…オウムが遊びにくる川なのでしょうか…

Wikiの「駅名の由来」では…アイヌ語の「ムッカ・ペッ」(塞がる川)に由来する。上げ潮時、鵡川の河口が砂で塞がることから付いた、とあります。



駅舎側からロータリーを見ます。

スッキリとした駅前の雰囲気…商店街とかは見当たりません。

夜はかなり「寂しい」のではないでしょうか。



鵡川は「ししゃも」の産地として有名だそうです。

私が「ししゃも」として普段食しているのは、海外から輸入された“樺太ししゃも(カペリン)”と呼ばれる食材で「本物」ではないそうです。

“鵡川のししゃも”は、1ケースで6000円以上もする超高級品です。




鵡川駅は無人駅です。

ホームへ出てみますが、誰もいません。



こちらが「浜田浦駅方面」のようです。



ここが鵡川駅の「富内線3番ホーム」跡です。

路盤は夏草にすっかり覆われてしまっています。

*例の「北海道の鉄道廃線跡」に写真入で紹介されていました。





保線作業中の方々…「暑い最中に大変だなぁ~」なんて思って見ていたら現場監督みたいな人が来て「許可は取っていますか?(取材許可?)」と訪ねられました。
何のことだろう?と、思いましたが「許可は取ってありませんが…」と答えると「許可がないと撮れない(写真撮影のこと?)のですが(取材のことかな?)…」と言います。

どうやら何かの取材と勘違いされているのでしょうか。

こちらは「ただの観光客」でレールの写真を撮っているだけなのですが…



すっかり変色してしまったプラスティックのベンチと「錆さび」の駅名標がローカル線の雰囲気を盛り上げています。



鵡川町の観光案内板です。

「鵡川河口干潟」やら「道の駅四季の館」「鵡川魚港」などが紹介されています。



「道路歩道橋 愛称ポッポ橋」…へぇ~小学生が命名者なんだ…

「跨線橋」じゃ無くて歩道橋か…から「富内線」の路盤跡を見てみます。




この先を大きく左にカーブしていくんだなぁ~なんて思いながら眺めています。


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旧室蘭駅舎公園 北海道旅行 9月1日 2014年

2014-12-11 | Weblog
S-205号機が展示されているところからいくらも離れていないところに「旧室蘭駅舎公園」があります。

室蘭に住む友人に昔案内して頂いた記憶があります。

(*夜間、車の車窓から「ここが旧室蘭駅だよ~」なんて案内された程度ですから、本日が初めてと言っても良いでしょう。)

時刻は8時26分頃を指しています。



旧駅舎全景です。

北海道の建築物は、開拓の協力を要請したアメリカの、いわゆる“アメリカン・カントリー・スタイル”を踏襲する「マンサード屋根」の建物が多く見られますが、室蘭駅舎のそれは、「寄棟」の大屋根にドーマー窓を配置する「和風+チロル・テイスト」デザインのように見えます。

まだ早い時間ですが、足早に通り過ぎる通勤の人の他に、年輩の観光客の姿も見られます。



駅舎横に掲げられている説明パネルです。

「なるほどねぇ~」なんて斜め読みして写真に撮っちゃいます。



その説明パネルの隣には“車輪らしきもの”が展示されています。

パネルには「開園を記念して機関車用車輪を保存展示する…」と記されています。

その下の写真は1975年頃、室蘭本線を走る「C57144号機」の勇姿です。

この構成だと展示されている車輪は蒸機のものと思い込みますが…

この車輪はどう見ても「蒸機の車輪」には見えません。

ディーゼルか電機機関車のものだと思うのですが…

確かに、「蒸気機関車の車輪」とは、一言も書かれてはいませんけれどね。




観光案内所が併設されている旧室蘭駅舎。



室蘭駅舎についての説明パネルです。

北海道では最古の木造駅舎であると説明されています。

しかし…「最古の…」とはピンとこない近代的な建築に見えてしまいます。



見上げると天井には漆喰の「レリーフ」といっても良いのでしょうか?…美しい装飾が施されております。



こちらも天井の装飾なのですが、寺院の天井にでもありそうな和風な絵柄であります。



「室蘭駅」のプレートも展示されています。

大分補修の手が入っているみたいですが、駅の歴史の重さが伝わってきます。

「室蘭!」っていう栄光の歴史がぐんぐん来ます。



駅舎裏は駐車スペースとなっています。

かなり広いスペースが駐車場に割り当てられていて、クルマで来場する方も安心です。(*交通量も多く路駐が出来そうな雰囲気ではありませんからね)



イギリス積みで作られた煙突…きちんと補強がされているのだとは思いますが、見た目に傾いているような“危うい”雰囲気を感じてしまいました。


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S-205号機 ㈱テツゲン室蘭支店 北海道旅行 9月1日 2014年

2014-12-10 | Weblog
東室蘭のホテルを朝食後にチェックアウト、本日最初にやってきたのは㈱テツゲンの室蘭支店に展示されている“S-205号機”です。

室蘭新道という“無料の高速道路”みたいな自動車専用道を走ります。

事前にセットしたGPSの指示に従いインターを降ります。

かなり入り組んでいてクルマの流れに任せて走行していたら、工場の敷地に入っていってしまいました。

「これはマズイな…ロストしたか…」と、守衛所の前でUターン…

工場のフェンスに沿った道を走ります。

「こんな感じかなぁ~」などと思いながら走っていますと、巨大なガスタンクの向こうに蒸機の姿を発見!

「よし! やったぁ!」なんてね。

写真右手に見えているのが工場敷地と道路とを隔てているフェンスです。



蒸機と共に立派な銘板が設置されています。




東京から事前に㈱テツゲンさんに連絡をして、蒸機を撮影させて頂きたいとお願いしたのですが、「一般の方の工場内の入場はご遠慮願っています」と、丁重に断られていました。

なので「フェンス越し」に蒸機を鑑賞することになるのは事前にわかっていました。

オデ君をフェンスに寄せてドアーを開けてサイドシルに乗って撮影を始めます。

しかし、位置取りがイマイチで「脚立を積んでくれば良かった!」と、ちょっと後悔しました。

後半は面倒になり、両手でカメラをフェンス上に掲げて撮影しましたので、フレーミングや水準器が使えず水平がイマイチですが仕方がありません。(来年2015年はオデ君に脚立も積んでいこう!と、思うオジサンでした)





その昔、入れ替え線で働くS-205号機の写真を見ると、サイド・タンクには「暖房はコークス」とペイントされていました。

今はすっかり綺麗にリペイントされて見違えるようです。

キャブの密閉性は良さそうで、寒冷地での作業にも居住性は良さそうですが半面、真夏の作業はキツそうですね。



もっと近くによって「ジロジロ」鑑賞したかったのですが仕方がありません。



フェンス越しの撮影のため、「公式側」しか鑑賞することは出来ませんでした。

残念!



キャブ内をクローズアップして見てみます。

状態は随分良さそうに見えます。

内部にはゲージも見えてます。




S-205号機の展示環境はこの様な状態です。

近付いて鑑賞することは出来ませんので、撮影には工夫が必要ですね。

オジサンはカメラを頭上高く掲げていたので、息が切れましたよ。



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福島町青函トンネル記念館 北海道旅行 2日目 8月31日 2014

2014-12-08 | Weblog
本日、最後の目的地「福島町青函トンネル記念館」にやってきました。

昨年の記事で青函トンネル出口の扁額を撮影しようと挑戦しましたが叶いませんでした。(*撮影失敗!ってことです…)

2013年 知内町撮影ポイントの記事はこちら。

ロケットのブースターをイメージさせるような変わった外観の記念館ですが、夜間のライトアップ時は素晴らしい雰囲気です。

福島町青函トンネル記念館のホームはこちらから

素敵な夜間の記念館の写真が掲載されています。

*ただし、受付の方に伺ったんですが現在では夜間の照明は行っていないそうです。



館内のイメージです。

左側が展示ブース?。

右側がシアターとなっております。





館内もメタリックなイメージ…トンネルの内側を表しているのでしょうか。

展示は割りとスッキリ…見やすいです。



こちらの記念館で最高に見応えのある展示がこちらの「青函トンネル出口扁額レプリカ」でしょう。

今別町の青函トンネル「入り口公園」から見る扁額はとても条件が良く綺麗に見えますが、“青函トンネル出口”の扁額はとても鑑賞するのが困難でした。

こうしたレプリカでも展示があると感激します。



青函トンネルの“入り口”の扁額は当時の内閣総理大臣中曽根康弘氏揮毫によるものです。

“出口”の扁額は運輸大臣橋本龍太郎氏揮毫によります。

レールファンになって初めて知りましたが、トンネルの「入り口と出口の定義」があるということです。

道路や鉄道などの“起点”から手前にある側が“入り口”、遠方にあるほうを“出口”と表すそうですね。

いわれてみれば「成るほど…」と、思いますがレールファンになったお陰でいろいろなことを知ることが出来ました。



青函トンネル出口の写真です。

一般人ではこのアングルからの撮影は不可能でしょうね。




記念館ロビーに展示されている機械です。

これで岩盤を“ガリガリ”切削していったのでしょうね。

「ガンダム・ロボ」を連想させるような力強い造形です。



福島町青函トンネル記念館の鑑賞を最後に、本日の宿泊地「室蘭」へと向かいます。

福島町を出発したのが15時前でしたので、室蘭までは2時間くらいで到着…と思っていましたがホテルにチェックイン出来たのは18:30くらいになりました。

函館から室蘭までは約2時間コースなのですが、福島町から函館までの約1時間を計算に入れていなかったからですね。

意外に時間が掛かりビックリです。

本日の走行は444Kmでした。


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松前線 荒谷川橋梁 北海道旅行 2日目 8月31日 2014

2014-12-05 | Weblog
荒谷川橋梁です。

先の櫃の下橋梁程分かりやすくなく、左側を注視しながら走ります。

「ん?…」遠くに橋脚の先端が見えました。

左側の側道にオデ君を駐車して、橋脚の近くまで歩きます。



しかし…

そもそもアプローチする地点が間違っているようで、民家の庭先に出てしまいました。



夏草の垣根から見える景色も…こんな感じで橋脚の先端部しか見えません。




これはそもそも場所の選定自体が間違っているな…と思い、一旦オデ君のところまで引き返します。



さて、オデ君と撮影地点を変更しようとしましたが、橋は通行止めの標識とバリケードが立てられ、通行することが出来ません。



国道まで迂回して行くのも面倒だったので、カメラを背負って徒歩で移動することにしました。

通行止めの橋は…何と!「木橋」に舗装路を架橋したものでした…「橋脚も桁も木製です」

橋の基部を見てみますと、腐食が見られ「通行止め」も致し方ないよな…と思われました。

この状態を先に見ていたら、オデ君と一緒に渡橋する気にはならなかったでしょう。



さて、徒歩で撮影定点を移動して対岸にやってきました。

確かに北海道の廃線跡の書籍を見ても、こちら側からの撮影が圧倒的ですね。



「ふむ…」 ここなら橋脚も対岸の橋台もしっかりと観賞することができます。



廃線を観賞するベストシーズンが冬季と言われるのは全く納得できます。

本日8月31日は夏草などの成長の最盛期であります。

見ての通り夏草が繁茂する橋脚の基部まではとても到達出来そうにありません。

桁を撤去された橋脚ですが、青空に聳えるその姿は荘厳ささえ感じさせるものであります。



橋脚の先に夏草に覆われた橋台を見ることが出来ます。



もう少し寄ってみますと、橋台のその形をはっきりと確認することが出来ます。



さらに撮り位置を変えてみます。

筋金入り本格廃線トレッカーの方なら、冬季にこの橋台基部まで探索するのでしょうが、上辺だけのオジサンはこの位が身の丈に合った観賞だと思って満足します。



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松前線 櫃の下川橋梁 北海道旅行 2日目 8月31日 2014

2014-12-05 | Weblog
松前城を後に、本題の松前線最大の遺構 「櫃の下川橋梁」を鑑賞します。

国道228号線を知内・木古内方面に走りますと、程なくして左手に櫃の下川橋梁が視界に入ってきます。

特に注視していなくても自然に視界に入ってくるほどの遺構です。

国道から脇道に逸れてオデ君を駐車します。

この道の先は生コン会社のようですが、本日は休日でミキサー車は駐車場でお休みです。




円柱状の橋脚が3本残されています。

沿岸の遺構の割には表面の状態は非常に良好に見えます。

営業時はこの脚の上部に桁が渡され列車が往来していた訳ですが…想像すると“モノレール”みたいな印象を受けます。

「えらい高いところを走っていたのだなぁ~」と…

脚を立てるのも大変な工事でしたでしょうが、そこへ桁を載せ更にレールを敷設していたことを想うとすごい工事だっただろうと感動します。

それまでの福山線が松前まで全通したのを機に松前線に改称されたのが、1953年(昭和28年)…その時代の工事ですから機械力はもちろんでしょうが人力も相当投入されたのではないでしょうか。

赤矢印のところに「橋台」も見えています。



少し国道方に戻って橋脚を見てみます。

橋台と橋脚の位置関係が更に良くわかります。

北海道新聞社刊の「北海道の鉄道廃線跡」を見ますと、この櫃の下川橋梁にも「桁」が載っている写真が掲載されています。

わりと最近まで桁を載せたその姿を鑑賞することが出来たのですね…

また一足遅かったオジサンでした。

残念!


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松前城(福山城) 北海道旅行 2日目 8月31日 2014 -02

2014-12-01 | Weblog
復元された「搦手二ノ門」や「天神坂門」の鑑賞の後になってしまいましたが、復興天守…と言うか「松前城資料館」へ入館します。




この門の右手が発券所となっています。

資料館の内部は松前藩の史料などが展示されています。

やはり「現存12天守」の木造天守に比べると圧倒的に内部の雰囲気は異なります。

名古屋城…あれほど立派な建築物ですが、名古屋市民は木造による天守の完全復元を願っていると聞いたことがあります。

やはり外観が立派でも木造天守とRC(reinforced concrete)とでは、その存在感・本物感に格段の開きがあり、木造天守による復興を願う人々の気持ちは理解できます。

松前城も耐震基準の問題で「補強工事」か「本格復元」かの判断を迫られているそうですが、観光資源としての松前城とすれば、木造による「完全復元」が良いのは当然でしょうが、現在進められている姫路城の「天守保存修理事業」などを見ても判るとおり、木造建築物を保存・維持するためには定期的な修復工事は欠かせず、それには巨額の費用もついてまわります。

松前町の財政がそれを捻出するだけの予算が確保できるのか、また観光資源としての松前城の復興が「対費用効果(cost performance)」として考えたとき果たしてどうなのか?…歴史的史料の保存を cost performance の数字だけで判断しても良いのか?いろいろな立場の方々の意見があるでしょうから、決断は難しいでしょうね。



資料館の入館料金は大人360円 でした。



ここから見ると天守の特徴が良くわかります。

実質的天守ではあるのでしょうが、“諸般の事情?”で書面上では「御三階櫓」と書かれているそうです。

これも、松前城が「海防城郭」として築城され、また松前氏悲願の城…という生い立ちを表しているのでしょう。

ロシア艦隊に対する戦略上の「砦」「橋頭堡」としてなら「天守」は必要なかったのでしょうが、松前氏としてはどうしても城としてのアイコン「天守」が欲しかったのでしょうね。

そのための折衷案として「天守」とは書かずに「御三階櫓」という表現を用いたのではないのかと想像します。

逓減式層塔型天守は高さ16.5mで、妻側に二つの窓、平側に四つの窓を持ちますが、「破風」などの装飾は持たないシンプルな造りが特徴です。

また、屋根材は北国の寒暖の気温差を考慮して「瓦」ではなく「銅板葺」が採用されています。

天守横には、櫓門の“本丸御門”が建てられています。

天守が炎上した際に、このわずかな距離のお陰で延焼を免れ、今日もそのオリジナルの姿を鑑賞することが出来ます。




こちらが重要文化財「本丸御門」です。

戦禍、廃城令、火災…など様々な災厄を生き抜いて今日もその姿を留める本物は風格のオーラが違いますね。

櫓門形式の「本丸御門」も“緑色凝灰岩”の緑が鮮やかです。

所々に黒い小さな丸い穴のような所が散見されますが、これが戊辰戦争の際の弾痕なのでしょうか…

石垣部分は修理・修復などの工事は受けていない筈ですから、弾痕が残っていても不思議ではありません。



本丸御門横には重要文化財のパネルと本丸御門の修理概要が記されたパネルが掲げられています。

光が反射して読み難いので、一部書き出しました。

「明治維新の戦乱により廃墟と化し、明治8年(1875年)には、天守・本丸御門・同東塀を残し取り壊された。昭和16年これら3棟は、国宝に指定されたが同24年本丸御門を残して他の建物は焼失し指定を解除された。
同25年文化財保護法の施行により、本丸御門は重要文化財に指定された。
本丸御門は昭和24年屋根葺替部分修理を行っているが、修理後35年を経て、屋根銅板が磨耗し雨漏りが生じるようになり、また昭和58年の日本海中部地震により、柱の傾斜等が生じたため屋根葺替部分修理を実施した。実施に当っては松前町の直轄工事とし、設計管理を松前町教育委員会文化財課が担当した。」
…とあります。

天守・本丸御門・東塀の3点セットで「国宝」に指定され、火災により指定を解除された…火災さえなければ「国宝」だったわけですね。

結局、生き残ったのはこの「本丸御門」唯一という訳です。



初めて訪れた際には正直「ちっぽけな城だな~」などと思ったものですが、石垣に興味を持ち城に興味を持つことで松前城が実に魅力的な城に見えてきました。




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