医学部図書館開設記念の庭園には「江戸上屋敷址」と彫られ九谷焼の皿が嵌め込まれた石碑があります。
その隣には黒御影石に「大聖寺藩由来記」と彫られた板碑が並びます。
東大の敷地はかつて加賀藩上屋敷跡地なのは有名です。
その加賀藩上屋敷はその昔「江戸城 龍の口」今日の「丸の内一丁目」のあたりにあったそうです。
振袖火事と呼ばれる「明暦の大火」で加賀藩の上屋敷も焼尽してしまいます。
大火の後の都市計画防火対策として道幅を広げるなどの大規模な整備が行われることとなり、加賀藩上屋敷は本郷から不忍池に亘る広大な土地を代替地として幕府から与えられました。
この広大な敷地には「加賀藩 前田家」とその支藩 「富山藩 前田氏」「大聖寺藩 前田氏」が同居?していました。
分家である「大聖寺藩 前田氏」の一つの功績が「九谷焼」と呼ばれる色絵の磁器を地域の産業としたことといわれています。
九谷焼はその源流を「有田焼」とし藩士を技術研修のために有田へ赴かせています。
ここ大聖寺藩上屋敷跡地からは大量の磁器片が出土し蛍光エックス線分析などの化学分析が行われたそうです。
その結果、大部分の古九谷は備前産ではないのか?…とか「古九谷」を巡ってはいまだ諸説があるようですが、化学分析が全ての謎を完全に解明出来る訳でもなさそうで、真実は歴史の襞に埋もれているのかも知れません。
江戸幕府から明治政府へと時代が変わり、旧加賀藩邸跡地は文部省が買い上げたそうです。
その後、東京大学医学部が移設されるまでの一時期、その用地は「お雇い外国人居住区」として使われていて17棟の洋館があったそうです。
「1番館」から「17番館」と名称されていたのだということですが、今日もコーヒー屋さんやレストランの屋号としてのこる「2番館」とか「10番館」とかはきっとこの洋館のナンバリングから派生したものなのではないでしょうか。
東大といえばそれを代表するのが「赤門」であります。
先の学食でも「赤門ラーメン」という商品があるくらいです。
もちろん、旧加賀藩邸の遺構ですがそれに付いても司馬遼太郎著「本郷界隈」に説明されています。
それによりますと…第十代将軍家斉の娘 溶姫(やすひめ)との縁組が加賀前田家との間に決まり、前田家では「御守殿(御主殿ともいう)」を普請した。将軍家から降嫁した奥方の場合、奥には住まず、御守殿とよばれる一郭に住むのである。門も建造される。慣例として丹(に)に塗られた。現在、東京大学に遺っている赤門である。 …と、説明されています。
そう言えば今回は敷地の内側を歩いていたので「赤門」の写真はありません。
赤門ラーメンの画像ならありますけれど…
「大聖寺藩由来記」のクローズアップです。
交差点の一角には雛壇のような花壇があります。
綺麗に手入れがされています。
階段を上ると銅像があります。
外国の軍人さんの銅像かな?…などと思い説明を読みます。
なるほど…説明パネルの通りでありますが、銅像のミュルレル氏は医師であったのですね。ただし軍医であったので銅像のような軍装を纏っていたわけです。
そう言えば東大医学部を卒業し陸軍軍医総監にまで登りつめた森 林太郎こと森鴎外の一つの姿も「軍人」でありました。
東大の敷地内には実に多くの歴史に名を残す偉人の銅像が展示されています。
私のような末端の人間には全く縁の無い人々でありますが、その説明パネルを読むとそれぞれ「凄まじい経歴」で「世の中にはこのような凄い人が居たんだなぁ」と驚かされます。
東大敷地の“塀”の向こうに綺麗な桜の花が見えたので行ってみました。
美しい枝振りの桜木ですが、注目したのはその横の煉瓦塀であります。
今はまったくその機能を失っているようでありますが、見事な体躯?の塀であります。
もしかしたら先の「お雇い外国人」の洋館の一部なのかも知れません。
歩道には樹木をガードするためのプレートでしょうか、このようなものが設置されています。
そして、桜の花弁がデザインされています。
上ばかりではなく足元にもこうしたお花見アイテムがありました。
東大の敷地と歩道を隔てる壁は…まるで金沢の「長町武家屋敷跡」を思わせるような風情であります。
加賀藩の上屋敷ですから共通する意匠が存在するのは不思議ではありません。
「懐徳門」は新設された門です。
アクリル・プレートの説明にある「懐徳館」の基礎…がこちらです。
説明がなければ「なんなの、この瓦礫は?」と思ってしまうほどのものですが…
ステンレス・パネルの説明を読みますと、実に重厚な建築物を支えていた基礎部分なのが分かります。
震源地を相模湾海底とする「関東大震災」はマグニチュード7.9の本震、3分後のマグニチュード7.2、さらに5分後のマグニチュード7.3 という巨大な揺れが3度も連続した巨大地震でした。
説明にもありますように、懐徳館は倒壊することなく残りました。
しかし昭和20年3月の東京大空襲で炎上し取り壊されたそうです。
この瓦礫のように見える基礎はその「懐徳館」の姿を今日に伝える遺構であります。