石垣ファンとしては、松前まで来て「松前城」を素通りする訳にはいきません。
勿論、「北海道ファン」として松前城を訪れたことはありますが、当時は石垣の事とか城のことは知りませんでした。
松前駅跡から裏道(初めて通る道)を通って松前城に向かったので、「こんな所を通って良いのかなぁ?」と思われるような場所を抜けて駐車場に到着しました。
いつも来る時とは逆方向からです。
松前城は幕末期、江戸幕府が沿岸警備のため松前氏に命じて福山台地に築城させた日本式城郭最後の城であり、城持ち大名ではなかった松前氏悲願の城でもありました。
築城に際し、天守がロシア艦隊からの砲撃目標になり難いように、2.5m程の低石垣上に天守を築きました。
砲撃の目標になると分かりながらも天守を上げたことは松前氏にとっての城持ち大名としての思い入れの強さを偲ばせます。
幕末期に築かれたにも関わらず松前城は激しい戦闘を体験しています。
戊辰戦争の際に旧幕府の軍勢が松前城を攻撃しわずか数時間で落城してしまったそうです。
これは、松前城が海防城郭として海上からの攻撃に対して強固に設計され、半面地上からの攻撃には脆弱であったことを、土方ら攻撃方に衝かれてしまったことによります。
搦手方は敵の攻撃にはあまり注意が払われておらず、直線的でシンプルな縄張りとなっており、敵の侵入を容易にさせてしまいました。
三重三階の天守…戦禍や廃藩置県により城内の殆どの建築物が取り壊されてしまいましたが、天守や本丸施設は残されました。
しかし、その天守は1949年、松前役場の出火から飛び火し焼失してしまいました。
写真の天守は、1961年に鉄筋コンクリートで再建されたもので「松前城資料館」として公開されています。
現資料館は2011年に実施された診断で耐震基準が基準値を下回るとの結果を受け「補修工事」を行うか焼失前の木造建築の「完全復元」を行うかの選択を迫られています。
北海道で唯一の日本式城郭、そして最後の城…このような波乱万丈の歴史を生き抜いた松前城を知ると、最初「ちんまりした城だなぁ」と思った昔の第一印象が大分変わってきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/3e/4d84d42b8725fc6d85114d3f03d3147c.jpg)
石垣のカット・モデル?
金沢城でも石垣の種類をこうしたカット・モデルで説明していましたが、こちらは説明パネルの一枚もありませんでした。
石垣ファンであればある程度の展示趣旨も理解できるでしょうが、一般の観光客では「ただの壊れた石垣」としか写らないでしょうね。
松前城の石垣は、「緑色の石垣」が特徴です。
これは“緑色凝灰岩”という岩石を使用しているためです。
2005年、松前城の北東方面の「松前町神明の山中」で石切り場が発見されたそうです。
緑色凝灰岩は見た目も柔らかそうですが、加工が容易なため石と石との隙間をなくして積んでゆく“亀甲積み”という技法が用いられました。
また、カット・モデルからも分かるように、石垣の内部は土砂は使わず石だけで構成されています。
これは寒冷地北海道ならではの工夫で土の水分が凝固→溶解を繰り返し石垣から流れ出してしまうのを防ぐものだそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/11/0058a004839d0ca620785e3dd89a29ec.jpg)
搦手二ノ門跡です。
門があるのに“跡”とは…
こちらの高麗門は2000年に歴史史料を元に青森県産のヒバ材と燻し瓦を用い約6500万円の工費によって復元されたものです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/fe/59fd8f29461d24ed0dda332e9a176661.jpg)
搦手二ノ門前の枡形です。
ただの矩形の敷地にしか過ぎず、鉄砲狭間の数も少数で、これでは背後から攻めてくる敵兵に対しての防御力が脆弱と言われるのも仕方がありません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/fd/4fdc2375d0297a11570913be9f4d7fb2.jpg)
この木橋も史料に基づき復元されたものなのでしょう…
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/9b/9094e844bf287c723a4552b57066e082.jpg)
木橋を渡ったところには松前城の縄張りを示すジオラマ?が展示されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/b9/fc5272f47b6d7d5685c449bc96a3ccc5.jpg)
ジオラマの先には高麗門「天神坂門」があります。
こちらも2002年に復元されたものです。
しかし…
搦手とはいえ、この門構えでは戦では役にたちそうもありませんね。
あっという間に蹂躙されてしまうでしょう。
この辺りが松前城の生い立ちを示す所以なのだろうと思います。
海防城郭として設計された松前城は、本来想定していたロシア艦隊など海からの外敵にではなく、想定外の内敵の背後からの攻撃によって落城してしまったのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/72/0d35fa2a6b2a0610f99481b762e1bc6a.jpg)
門の基礎付近には「天神坂門跡」のプレートがあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/ab/81ed32043de1801a703f8a86ec7571da.jpg)
振り返って「搦手二ノ門」を見ます。
緑色の石垣が綺麗です。
中央に見える木樹は本来あったものの様には見えません。
ただの飾りのように思えます。
本来の内戦に対して設計された城ならば、これまでの城作りのノウハウを集結して絶対不落の強度を誇る城を作ることも出来た時代だと思うのですが、仮想敵が外国の艦隊であったのが不運でしたね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/91/3b54b151a0c04a7c68c6c304304c36c9.jpg)
緑色凝灰岩の石垣は装飾的にはその緑色が美しく加工が容易で「亀甲積み」のような技法にも適しているのですが、「加工が容易」と言うことは半面、強度的には劣るということです。
このあたりは、「搦手二ノ門」「天神坂門」の復元の際にこの石垣も築城当時の石材で復元されたのでは…と、想像するのですがすでに幾箇所に破損が見られます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/12/b3fee70b6d19bba50e24878e3b7c0502.jpg)
再び「搦手二ノ門」の内側から見ます。
鉄砲狭間の内側は板張りとなっているのが珍しいです。
右端に写っている「階段…武者走り?」のエッジをみると欠けてしまっている部分を見ることができます。
やはり、石材としては柔らかな石質なのでしょうね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/83/c257c96abbe115dffb0268bd9c88a747.jpg)
ここにも「搦手二ノ門跡」のプレートがあります。
勿論、「北海道ファン」として松前城を訪れたことはありますが、当時は石垣の事とか城のことは知りませんでした。
松前駅跡から裏道(初めて通る道)を通って松前城に向かったので、「こんな所を通って良いのかなぁ?」と思われるような場所を抜けて駐車場に到着しました。
いつも来る時とは逆方向からです。
松前城は幕末期、江戸幕府が沿岸警備のため松前氏に命じて福山台地に築城させた日本式城郭最後の城であり、城持ち大名ではなかった松前氏悲願の城でもありました。
築城に際し、天守がロシア艦隊からの砲撃目標になり難いように、2.5m程の低石垣上に天守を築きました。
砲撃の目標になると分かりながらも天守を上げたことは松前氏にとっての城持ち大名としての思い入れの強さを偲ばせます。
幕末期に築かれたにも関わらず松前城は激しい戦闘を体験しています。
戊辰戦争の際に旧幕府の軍勢が松前城を攻撃しわずか数時間で落城してしまったそうです。
これは、松前城が海防城郭として海上からの攻撃に対して強固に設計され、半面地上からの攻撃には脆弱であったことを、土方ら攻撃方に衝かれてしまったことによります。
搦手方は敵の攻撃にはあまり注意が払われておらず、直線的でシンプルな縄張りとなっており、敵の侵入を容易にさせてしまいました。
三重三階の天守…戦禍や廃藩置県により城内の殆どの建築物が取り壊されてしまいましたが、天守や本丸施設は残されました。
しかし、その天守は1949年、松前役場の出火から飛び火し焼失してしまいました。
写真の天守は、1961年に鉄筋コンクリートで再建されたもので「松前城資料館」として公開されています。
現資料館は2011年に実施された診断で耐震基準が基準値を下回るとの結果を受け「補修工事」を行うか焼失前の木造建築の「完全復元」を行うかの選択を迫られています。
北海道で唯一の日本式城郭、そして最後の城…このような波乱万丈の歴史を生き抜いた松前城を知ると、最初「ちんまりした城だなぁ」と思った昔の第一印象が大分変わってきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/3e/4d84d42b8725fc6d85114d3f03d3147c.jpg)
石垣のカット・モデル?
金沢城でも石垣の種類をこうしたカット・モデルで説明していましたが、こちらは説明パネルの一枚もありませんでした。
石垣ファンであればある程度の展示趣旨も理解できるでしょうが、一般の観光客では「ただの壊れた石垣」としか写らないでしょうね。
松前城の石垣は、「緑色の石垣」が特徴です。
これは“緑色凝灰岩”という岩石を使用しているためです。
2005年、松前城の北東方面の「松前町神明の山中」で石切り場が発見されたそうです。
緑色凝灰岩は見た目も柔らかそうですが、加工が容易なため石と石との隙間をなくして積んでゆく“亀甲積み”という技法が用いられました。
また、カット・モデルからも分かるように、石垣の内部は土砂は使わず石だけで構成されています。
これは寒冷地北海道ならではの工夫で土の水分が凝固→溶解を繰り返し石垣から流れ出してしまうのを防ぐものだそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/11/0058a004839d0ca620785e3dd89a29ec.jpg)
搦手二ノ門跡です。
門があるのに“跡”とは…
こちらの高麗門は2000年に歴史史料を元に青森県産のヒバ材と燻し瓦を用い約6500万円の工費によって復元されたものです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/fe/59fd8f29461d24ed0dda332e9a176661.jpg)
搦手二ノ門前の枡形です。
ただの矩形の敷地にしか過ぎず、鉄砲狭間の数も少数で、これでは背後から攻めてくる敵兵に対しての防御力が脆弱と言われるのも仕方がありません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/fd/4fdc2375d0297a11570913be9f4d7fb2.jpg)
この木橋も史料に基づき復元されたものなのでしょう…
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/9b/9094e844bf287c723a4552b57066e082.jpg)
木橋を渡ったところには松前城の縄張りを示すジオラマ?が展示されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/b9/fc5272f47b6d7d5685c449bc96a3ccc5.jpg)
ジオラマの先には高麗門「天神坂門」があります。
こちらも2002年に復元されたものです。
しかし…
搦手とはいえ、この門構えでは戦では役にたちそうもありませんね。
あっという間に蹂躙されてしまうでしょう。
この辺りが松前城の生い立ちを示す所以なのだろうと思います。
海防城郭として設計された松前城は、本来想定していたロシア艦隊など海からの外敵にではなく、想定外の内敵の背後からの攻撃によって落城してしまったのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/72/0d35fa2a6b2a0610f99481b762e1bc6a.jpg)
門の基礎付近には「天神坂門跡」のプレートがあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/ab/81ed32043de1801a703f8a86ec7571da.jpg)
振り返って「搦手二ノ門」を見ます。
緑色の石垣が綺麗です。
中央に見える木樹は本来あったものの様には見えません。
ただの飾りのように思えます。
本来の内戦に対して設計された城ならば、これまでの城作りのノウハウを集結して絶対不落の強度を誇る城を作ることも出来た時代だと思うのですが、仮想敵が外国の艦隊であったのが不運でしたね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/91/3b54b151a0c04a7c68c6c304304c36c9.jpg)
緑色凝灰岩の石垣は装飾的にはその緑色が美しく加工が容易で「亀甲積み」のような技法にも適しているのですが、「加工が容易」と言うことは半面、強度的には劣るということです。
このあたりは、「搦手二ノ門」「天神坂門」の復元の際にこの石垣も築城当時の石材で復元されたのでは…と、想像するのですがすでに幾箇所に破損が見られます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/12/b3fee70b6d19bba50e24878e3b7c0502.jpg)
再び「搦手二ノ門」の内側から見ます。
鉄砲狭間の内側は板張りとなっているのが珍しいです。
右端に写っている「階段…武者走り?」のエッジをみると欠けてしまっている部分を見ることができます。
やはり、石材としては柔らかな石質なのでしょうね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/83/c257c96abbe115dffb0268bd9c88a747.jpg)
ここにも「搦手二ノ門跡」のプレートがあります。