Model 107

1985年の107
じっくり時間をかけてお気に入りの一台に仕上げます。

幾春別駅跡 幌内線 9月2日 2014年

2015-01-30 | Weblog
幌内線終着駅「幾春別駅跡」です。

幾春別炭鉱の出炭駅として三笠駅から延伸された支線の終着駅がこの幾春別駅です。

炭鉱事業が上昇基調にあった昭和30年代は炭鉱関係者やその周辺住民の増加によって賑わいのピークを迎えていたようです。

出炭の積み出し貨物物資のほかに貨物取扱量も増加し幌内線では最多を誇っていたそうです。

幾春別駅跡の敷地はバスターミナルとして再利用されていますが、貨物取り扱い駅でもあったその規模を偲ばせるものでありました。



北海道中央バス「幾春別町」の停留所には待合所として小さな小屋が建てられています。

なんとなく駅舎のレプリカを思わせるようなデザインです。



幌内線現役時の「幾春別駅」は、貨物取扱量からも相応の駅職員が働いている大屋根の威容を誇る駅舎でありました。

赤矢印のところに「幾春別駅跡」の石碑が見えています。

夏草の繁茂する中にポツンと置かれています。



待合所を横方向から眺めてみます。

ほんとにコンパクトな建物なのが分かります。

“待合所”ですからね。(*トイレも完備していますよ)



石碑を別の方向から見てみます。

雑草の中の石碑の展示は、あまり“良い環境”とはいえないようです。

向こうには、バスターミナルが見えています。



幌内線の共通のデザインの石碑です。

正面にはありし日の「幾春別駅」の姿の線画が彫られています。



裏面には、三笠市長の名前で幌内線の歴史と地域への貢献への謝辞が刻まれています。
(*弥生駅のと殆ど内容は同じみたいでした…)



バスの停留所と利用客の駐車スペース…

またオデ君が見えています。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

弥生駅 幌内線 9月2日 2014年

2015-01-28 | Weblog
「駅跡」というのにはまさに相応しい?佇まいの「弥生駅跡」です。

背後に見える斜面の上を道道が走っています。

この“空き地”が幌内線弥生駅を忍ばせるのは、ポツンと佇む石碑のみです。

この石碑が無ければ、鉄道駅跡とはとても想像できません。

隣に見えている廃屋が駅舎跡なのかな?などと思いましたが、間口の広さと高さからはとても駅の代用として建てられたプレハブとは異なるように思えました。

大型の車両が出入りする倉庫のようなものではなかったのでしょうか…



駅跡のスペースはかなり狭く感じます。

一面一線の小さな駅ですが、1987年に駅舎は火災により焼失してしまい幌内線廃止までの期間はプレハブの駅舎で代用していたようです。

画面左手の道が廃線跡なのかな?と、想像しましたが地図で見てみますと僅かな距離の先で行き止まりとなっています。



なんとなくこの石碑は傾いてるように見えませんか?

しかも基礎の部分と石碑の脚の部分がずれてしまっています。

ど~したのでしょうか?

とても不自然な感じに見えました。



幌内線デザインの石碑には旧駅舎の線画が彫刻されています。

件の北海道新聞社刊「北海道の鉄道廃線跡」に掲載されていた「弥生駅」の写真を見ますと北海道デザインのなかなか立派な駅舎でした。



このアングルから見ると良く分かります。

カメラが傾いているのではなくて、石碑の基礎が傾いているのだと思います。

奥に見えている道路を水準としますとそれが良く分かります。

「相棒」のオデ君も写っています。



石碑の裏面には、三笠市長の名前で、幌内線の栄光の歴史と地域発展に貢献した幌内線への謝辞が記されています。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唐松駅 幌内線 9月2日 2014年

2015-01-27 | Weblog
2012年にここ「唐松駅(とうまつえき)」には訪れたことがあります。

外観の印象はその時と殆ど変わっていません。

本日はメンテナンス作業を行う職人さんが数名来ておりました。

駅入り口正面になぜか「切り株」が置かれているのも変わっていません。

北海道新聞社刊「北海道の鉄道廃線跡」の掲載されている1930年代の写真を見ました。

「昭和礦業新幌内鉱業所発行の記念誌」からの転載とされています。

年代を感じさせるセピア色のその写真の「唐松駅舎」は、今目の前の駅舎と殆ど変わらない外観です。

特徴的なアメリカン・カントリースタイルの「マンサード屋根」はそのままです。

そこにある細長い窓も、おそらくオリジナルだと思います。

写真には、「当時はこれほど多くの人々で賑わっていたんだ…」と感動するほどの利用客が写っています。

炭鉱で働く人々、その生活を支える様々な業種の人々とその家族が地域の集落を形成していたのですね。

今はクリーム色の建材で覆われている部分も、「下見板張り」で統一されていました。

白いペンキで塗られた窓の建具がアクセントとなっていました。

防災・防犯の見地から難燃性の建材でカバーするのは仕方のないことなのかも知れませんが、出来れば往時の外観に復元されると素晴らしいなと思います。



駅舎の中も以前訪れた時と変わらず綺麗に保存されています。



駅舎の待合所から改札を通してホームを見ます。

ホームの先にはレールは無く、広いヤードが広がっています。




ホームに出てみます。

ホームの縁石はそのままに残されています。

路盤の跡もはっきりと分かります。

夏のシーズンにこの様な状態を維持しているのは、普段のメンテナンスが緻密に行われている証だと思います。





ポツンと佇む駅名標のフレーム…

これも以前訪れた時と変わっていません。



路盤跡に降りて駅舎を見てみます。

こうして見ますと、かなり規模の大きな駅だったと思われます。

この広いヤードは、炭鉱線の専用線や列車の行き違いの設備を備えていた名残でしょう。



広大なヤードですが、非常に綺麗にメンテナンスが行われていることがわかります。

芝刈り機などで雑草を処理してもその後の刈り取った後のごみ処理がまた大変です。




こうして見ますと広大な敷地に駅舎が残されているのが分かります。

北海道ならではの展示・保存ですね。

首都圏などではありえない光景です。




駅舎前にはオデ君と職人さんの車が見えています。

今はちょうどお昼休みですので、職人さんたちは休憩中です。





駅舎ホーム側の庇の下には、駅美化運動の活動報告の写真が貼られています。

やはり、こうした地域の方々の駅への愛情と日常の美化活動がこうした美しい景観の背景にはあるのですね。

もう一つの赤矢印、時計が掛けられています。



前回もこの時計がありました。

一般家庭用の掛け時計です。

しかも、稼動していてほぼ現在時を示しています。(日付はちょっと変ですが…)

電池で動いているのかと思いましたが、それにしては文字盤のところに「ゼンマイ」を巻き上げるための孔のようなものがあります。

いずれにしても、日常的にメンテナンスをうけているのでしょう。

振り子のところに、オジサンの姿が映っています。



唐松駅は三笠市唐松町にあります。

夕張市がそうであったように北海道の多くの自治体が、産業衰退や人口減少による税収減に直面しています。

かつては炭鉱で賑わった唐松町も例外ではないでしょう。

今、美しくメンテナンスが行われている唐松駅ですが、職人さんへの支払いなど現実的な債務が発生します。

地域のボランティアの皆様方の努力の賜物ではあるとは思いますが、自治体自体の体力が衰退してしまうとこうしたメンテナンスにも支障をきたしてしまいます。

京都を筆頭に、奈良や金沢、飛騨や角館などなどの“古都”のように、北海道に数多く遺されている鉄道遺産が全国から多くの観光客が訪れるような「北海道産業文化遺産」として昇華してくれると良いな…と思います。

唐松駅、また来るからね。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三笠駅 旧幌内太駅 幌内線 9月2日 2014年

2015-01-24 | Weblog
幌内線三笠駅跡にやってきました。

三笠駅跡…というよりも「クロフォード公園」という名称の方がポピュラーであると思います。

私も北海道観光ファンの頃は「クロフォード公園」として認識していましたから…

勿論「クロフォード」が何なのかも知りませんでした。

「三笠駅跡」とか言われても「何のこと?」ってレベルだったと思います。

リゾートのチャペルを思わせる様なお洒落な駅舎は初代駅舎を再現したものだそうです。

お洒落すぎ…



切り妻屋根が直角に交わるようなダイナミックな造形の駅舎構造が良く分かります。

これって、本当に明治の幌内線幌内太駅のオリジナルデザインですか?

あまりにも素敵過ぎます。



ど~ですか?

この格好良さ!



幌内線開業時は「幌内太駅」と名乗っていた駅は1944年(昭和19年)に三笠駅と改称されました。

周辺の集落の三村が合併し「三笠」を名乗るようになり、地域から「幌内太」という地名が消滅したことから、駅名も「三笠駅」と改名されたそうです。

ゴシック体で書かれた駅名標の文字は墨が擦れて判読するのが困難になりつつあります。




駅舎内は鉄道グッズのショップとなっていて、あの「カラマツトレイン三笠店」が運営しているようです。

左側の銅像は…あの「クロフォード先生」ではないでしょうか。

北海道鉄道開闢期、鉄道土木技術の多くを指導しその礎を築いた、日本の鉄道史における恩人であります。

小樽の総合博物館入り口の正面にもアメリカ人技術士ジョセフ・ユリー・クロフォード氏の銅像が飾られています。

北海道鉄道史における氏の功績の大きさが偲ばれます。



まだまだレールファン歴の浅いオジサンにはこのような鉄道グッズに対しての興味は今一つなんです。

そのうちにのめり込んでしまう時が訪れるのでしょうか?



跨線橋に鉄道車両が保存・展示されています。



跨線橋の前にはジョセフ・ユリー・クロフォードの功績をたたえる説明パネルが掲げられています。

窓の配置がとてもお洒落です。



眼の前に跨線橋があれば渡ってみなくてはなりません。

廃レールが補強材に使われています。



こちらの跨線橋も駅舎同様に復元されたものだと思います。

内装材や窓の建具がアルミサッシ風になっています。



その窓から駅舎を俯瞰します。

なるべく綺麗なガラス窓から撮影したのですが、それでも「くもの巣」が写っています。

彼らも必死の生命活動を行っています。



跨線橋の下にはホームとそれに寄り添うように、DD51 548 を先頭に  ホキ2341 ホキ746 ヨ8006 が、展示保存されています。





クリーム4号 という塗料で塗られた車両…粉粒体農産物(小麦・トウモロコシ等)運搬用の車両だそうです。

いかにも北海道らしい車両ですね。

車体には、ホキ2341の直前に一回り小さな文字で「オ」が付記されています。

タンクローリーのような車体構造は、積載内容量を多く確保するために車両限界一杯に躯体を張り出させたためとか…




国鉄のホッパ車「ホキ2200形」は、サッポロビールが麦芽輸送専用車として制作した「ホキ6600形」を元に種々の粉粒体に対応した汎用穀物輸送ホッパ車として開発したものだそうです。

一時は1000両以上が製造され各地で活躍していた「ホキ2200形」ですが、輸送・運送形態の変化により減少を続け一線からは姿を消し、今日、この形式の車両を見られるのは、ここクロフォード公園と小樽総合博物館の保存車両のみとなってしまいました。

貨物車の世界も“深い”ですね。



こちらは「バラスト散布用」のホッパ車です。




ホキ800形の派生として新幹線の保線に従事する車両があります。

台車を標準軌(Standard gauge)に改造しJR各社の新幹線保線に現在も活躍しているそうです。

私も東京で見掛けたことがあります。



萱野駅でも保存・展示されていた「ヨ8000形」車掌車です。







ディーゼル機関車 DD51 548 が先頭に展示されています。

シュンとしたスタイル、力強さを感じさせるシンプルな素敵な外観です。

ランボードのホワイトのラインも安定感を増すアクセントになっているのだと思います。



少し離れた場所にはディーゼル気動車「キハ82」が展示されています。

車両を保護する屋根などは無く、まるで北海道の大地を疾駆するような躍動感一杯の展示です。



近くに寄って観察しますと、ペイントには所々傷みが見られますが、これだけの車両を完璧な姿で保存するのには大変な労力が求められると思います。




「好き」だけではやっていられないでしょうね。

それにしても緑の大地、透き通る青空の背景に抜群に映えますね!

綺麗です。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

萱野駅跡 幌内線 9月2日 2014年

2015-01-20 | Weblog
幌内線 萱野駅跡にやってきました。

幌内鉄道は石炭運搬の鉄道としてスタートした北海道で最古の炭鉱鉄道でありました。

明治に「幌内鉄道」は、幌内停車場から札幌停車場をへて手宮停車場までが開通し、石炭などの炭鉱資源や森林資源を積出港の小樽港への運搬に活躍しました。

この明治時代の幌内鉄道で活躍したのがアメリカ製の蒸機「弁慶号」「義経号」だそうです。

こうした栄光の歴史に輝く幌内鉄道は炭鉱閉鎖やそれに伴う人口減少などによって役目を終え、1987年(昭和62年)にその歴史に幕を下ろしました。



復元改装された萱野駅は「ライダーハウス」として利用されています。

さすがに「復元された」だけあって「危うい感」などの無い安定感のある仕上がりの建物であります。



道道から少し入った地点に「ライダーハウス 旧萱野駅」の看板があります。

たしか道道の入り口にも看板があったようでした。



駅前ロータリーからは、住宅や商店、倉庫なども見えて、往時の「駅前」の雰囲気が偲ばれます。



その住宅の前には踏切警報機などが設置されています。

萱野駅の敷地内ではなくなぜ一般住宅の庭先にこれらが設置されているのでしょうか?

理由は分かりません。



駅舎横には、駅舎名とそのイラストが彫られている石碑が展示されています。

やはり「幌内線デザイン」で各駅の石碑も統一されていました。



もっと近くに寄って見てみますと、当時の萱野駅の姿が彫刻されているのが分かります。



駅舎の少し離れたところにこの様に展示されています。



駅舎の入り口には、筆書きの駅名標が掲げられています。

いかにも時代を感じさせる風の筆書きです。

あくまでも想像ですが、墨の雰囲気から改装時に書かれたものではないでしょうか…



下見板張りにハーフティンバーのコンビネーションの外壁。

復元された萱野駅はシックな雰囲気の駅舎です。



駅舎入り口からホームへと“付け庇”が回廊しています。

いかにも駅独特のデザインが秀逸です。



ホーム側から駅舎を見ます。

北海道新聞社刊「北海道の鉄道廃線跡」に掲載されている当時の萱野駅の写真を見ますと…

駅舎とレールの他には写ってなく「ホーム」のような一段高くなった部分はありませんでした。

本に掲載されている当時の写真の萱野駅舎のホーム側の庇は平板でしたが、“復刻版萱野駅”ではデザイン上のアクセントになっている庇上の三角屋根が乗せられています。

この辺りの事情ってどうなんでしょうね?

本に掲載されている当時の写真は、紛れも無い本物の姿なのでしょうが、もしかしたら、その写真が撮影されるもっと以前の「萱野駅」には
この様な三角屋根が存在したのかも知れません。



駅舎から少し離れた場所には「ホーム」が設置されそこには駅名標とヨ8000形車掌車、そして鉄道構内時計が展示されています。

この鉄道構内時計は、1944年にエンジニアでデザイナーのハンス・フィルフィカーがスイス連邦鉄道(SBB)のためにデザインした“マスターピース”なのだそうです。

アップルのiPad や iPhone の「時計」にSSBの構内時計のデザインを使用していて、アップルはSSBに対してライセンス使用料を払っているとかの記事を見たことがあります。



1944年にデザインされた鉄道構内時計が今日でもライセンス使用料を生むとは…まさに“マスター・ピース”ですね。

私もPCのデスク・トップにアナログ時計のガジェットを使っていますが、マイクロソフトはライセンス使用料はどうしているのでしょうね?

こちらの鉄道構内時計のブランドは「SEIKO」であります。

近くで観察すると外板が腐食によって欠損してしまっているのが残念ですね。

今のうちにリペアーした方が良さそうです。

それにしても、存在感がありますね。





路盤の辺りから見てみます。

車掌車とホーム、そして駅舎と…ローカル駅の雰囲気が上手に表現されていると思います。



気が付かれたかも知れませんが…時計の示す時間が表と裏とでは異なっています。

どちらも現在時を示している訳ではありません。



折れた勾配標がホームに倒れ掛かっています。

この損傷具合から想像すると、現役当時のものなのでしょうか。



車掌車をもう少し寄って観察しますと…



何と!

あの時計の支柱は連結器に溶接されていました。

これでは時刻を表示することは出来ないわけです。

せめて時計の両面の時刻を揃えておいたほうが良いのでは…


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

万字炭山駅 万字線 9月2日 2014年

2015-01-19 | Weblog
万字線終点「万字炭山駅跡」へと向かいます。

万字駅からおよそ1.5Km程の距離です。

写真の「青看板」の示す「万字炭山」へは左側の細い道を下っていきます。 



何軒かの廃屋と取り壊された建物の残骸…地域に生活する方々の人口が先細っているのが実感できます。



実は…万字炭山駅跡までは行きませんでした。

道路が狭くなって両脇から雑草が覆い被さってきて、オデ君と一緒では通行は困難になりました。

以前、ロードクロサイトの鉱山を訊ねた時の嫌な思い出が蘇りました。

このまま雑草のアーチを強引に突破するとオデ君のボディーがガビガビになってしまい、後処理に結構な労力を必要とします。

「や~めた!」なんて思って引き返して来てしまいました。

毎年、北海道に訪れている気安さもありますね、「また来れば良いや!」ぐらいな気分です。

「廃線巡り初心者だしね…」なんて気持ちもあります。

しかし…いつも記事を読んでくださっている方々の期待を裏切ってしまったようで少々反省しております。

オデ君を置いて歩いてでも見に行ってくるべきだったかな…と。

あと200mほど…目前でしたからね。




赤矢印が「万字炭山」の青看板があった場所です。

ブルー矢印の辺りでUターンしました。

十字線が万字炭山駅跡の座標です。

ほんと、「目前」でしたね。

後日、この地図をみて 道道のグリーン矢印の地点から入っていけばあの「藪」を突破しなくても万字炭山駅跡へアクセス出来たかも知れないと気付きました。

この辺りの“手数”の少なさというか柔軟性の無さが初心者の悲しさ…ではないでしょうか。

2015年の北海道旅行の際には初心者→初中級者くらいにステップアップして、もっと効率よく廃線駅跡巡りが出来ると思います。

万字炭山駅跡も再度取材に訪れて記事を追記いたします。











  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

万字駅跡 万字線 9月2日 2014年

2015-01-17 | Weblog
旧万字駅は「万字仲町簡易郵便局」として再利用されています。

北海道でよく見かける現役営業線のように、局舎の前には美しい色とりどりの花が植えられたプランターが飾られています。

万字駅の駅名標が掲げられていた壁面には郵便局の「〒」のプレートが取り付けられています。




庇の下の木製プレートには「万字バス待合所」と筆書きされています。



美流渡駅跡の同じデザインの石版があります。

ここが「簡易郵便局」ではなくて鉄道の駅であったことを主張しています。



駅前のロータリーはかなり広いスペースが取られています。

バスが展開するにも随分楽チンだと思います。



振り返って見てみます。

これだけのスペースが取られています。

正面に見えるのは「考禅寺」という寺院です。



通路正面、今はプレートでふさがれていますが、ここから階段を下りてホームへとアクセスしていました。





ホームへと降りるために、建物の横側からアクセスします。

簡易郵便局の局員さんに「ホームを見せて頂いて宜しいですか?」と声掛けすると、「草が茂っていて滑って危ないですから気を付けてください」とのことでした。

ちなみに、この局員さんはホームには降りたことは無いと話されていました。



ホームへと降りる階段はこの様な姿で残されています。

しかし、営業時の写真を見ますと階段には「屋根」が掛けられていました。




なるほど…「気をつけてください」という意味が理解できます。

全く自然に任せて人通りはなさそうな雰囲気です。



危険動物に対して大変にナーバスなオジサンです。

この辺りからもう「ビビリモード」です。

原野に残された廃線跡の探索などには全く不向きな性格です。

この程度でもうビビッていますから…



階段を下りきって、ここがたぶんホームだと思います。

確信はありません…「多分」です。



この辺りが「路盤」かな?というあたりを見てみますが、草が覆い茂っていて良く分かりませんでした。



ホームの辺りから振り返って駅舎の方向を見上げてみます。

廃線好き趣味人以外の、「まともな方」は好き好んでこの様な場所には下りては来ませんよね。

毎日仕事に来ている局員さんですら、「下りたことは無い」ということですから。



「栗沢町デザイン」の石版を見ます。



石版の裏面は美流渡駅の石版と同様に栗沢町長の揮毫が記されています。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美流渡駅 万字線 9月2日 2014年

2015-01-16 | Weblog
朝日駅から道道38号線を4Km弱走ると「美流渡駅跡」に到着します。

美流渡駅跡は「美流渡交通センター」として整備されバスターミナルとして使われているようです。

交通センター2階は万字線鉄道資料館として公開されていて、万字線の写真や史料、鉄道備品などが展示されているようです…

また、例によって資料館はスルーしてしまいました。

どういうわけか、開館時間が合わなかったり、町役場に連絡して開錠してもらうとかの手続きが必要で面倒だったりと、資料館とか記念館とかとは縁が薄いようです。



冒頭の写真で画面左端に見える木製の電柱…そこに残されていたのがこの「第2種車止め」です。

駅舎やホームのあった位置がよく判りませんので、この車止めが何を意味しているのかは不明です。

万字線営業当時からここに存在したものか、それともどこからか移設されたのか…



もう少し近付いてみてみます。

路盤とか線路があるような雰囲気には見えませんでした。



交通センター裏側の緑地公園には、踏切警報機と石版が展示されています。



先の「上志文駅跡」や「朝日駅跡」の石碑とは全くデザインが異なります。

これは想像ですが…管理する自治体が「岩見沢市」から「栗沢町」に変わったためでしょうか。




駅名標のデザインを踏襲したような石版です。

いわゆる「栗沢町デザイン」というものでしょうか。



石版の裏面は、栗沢町長の万字線の地域への貢献を称え揮毫されています。



石版の裏側から公園を見渡してみます。

画面左前方に見える白い建物が「美流渡交通センター」になります。





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

C11 292 新橋SL広場 1月9日 2015年

2015-01-15 | Weblog

サラリーマンの聖地?新橋駅のSL広場に展示されている“C11 292号機”が1月12日より外装をリペイントされるとの記事を新聞で見て、早速改修前の姿を撮影に行ってきました。

毎日東京で生活している私たちには普通の風景でも、何のインフォメーションもなしに、初めてこの絵を見た方はどう思うでしょうね?

「なに? これ?」かも知れません。

SLの躯体にぐるぐる巻きにされたケーブルは、「クリスマス・イルミネーション」のパーティー・ライトであります。

生粋のSLファンの方が見たら「まったく!」などと思われるかも知れませんが、こうして多くの方々に見て頂けるのならこれも良いのではないのかと思います。

何と言ってもSLは「鋼鉄の躯体」ですから、イルミネーション・ケーブルを巻かれたくらいではビクともしないでしょう。

私が気の毒に思うのは、クリスマス・シーズンにイルミネーション・ケーブルを巻き付けられている「生きている樹木」達です。

もちろん公共の場のそれらは、造園関係の専門家が作業しているのだとは思います。

生体には相当負担が掛かるらしく、枯れてしまった樹木を見たことがあります。



さすがサラリーマンの街です。

もうじき「お昼」の時間帯でありますが、SLの前を足早に人々が通り過ぎます。

*その雰囲気が出るように、スピードは1/30で撮影してみました。

SLにはイルミネーションだけではなくて、遠目では「雪が降り積もった」ように見紛うデコレーションが施されています。

きっと夜には素敵な光を纏った「銀河鉄道」みたいになるのでしょうね…



ステージ?には、クリスマス・イルミネーションのインフォメーション・プレートが掲げられています。

当然ですが、2015年1月10日までです。



“非公式側”へと回り込んできました。

こちら側は、イルミネーションのデコレーションも無く“公式側”に比べると「地味」な印象です…というか、これが本来の姿ですけれどもね。



いま新橋駅はコンコースの一体化工事、耐震補強、ホームの拡幅などの改良工事の真っ最中です。

中でも「大屋根」の敷設工事は各ホームの屋根を撤去し駅全体を一つの「大屋根」で覆ってしまうという大規模工事です。

明るく光が降り注ぐ大屋根の敷設で、一気に駅全体の雰囲気が激変するでしょうね。

なんとなくサラリーマンの悲哀漂う雰囲気の駅も近代的なビジネス・パースンの駅へと変貌するのでしょうか…




新橋駅の京浜東北線ホームからSL広場を俯瞰してみます。

夜間はこの辺りから眺めるとより雰囲気が盛り上がりそうです。



後日、新橋駅のホームから眺めたSL広場の景色です。

すっかり工事用のテントで覆われてSLの姿は全く見えなくなっています。

その前を早足で歩く人々の姿は相変わらずです。

勾配標と距離標とを画面に入れて「iPhone」 で撮ってみました。

普段はもうカメラを持ち歩く必要もなさそうですね…本当に便利であります。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まことの玉子 サントクファーム 1月10日 2015年

2015-01-14 | Weblog
2015年 新年初めてガレージに出掛けてきました。

ガレージに行くと、「サントクファーム」の玉子を買いに出掛けることが多くなりました。

R107のブログなのに、クルマネタとは掛け離れた話題ばかりで申し訳ないです。

サントクファームの「まことの玉子」の記事は「ブルーコーナー」の記事と並んで大勢のお客様に閲覧して頂いています。

予想外の注目度の高さにビックリです。

こちらには「買い物」にお邪魔しているだけで取材ではありませんので、カメラは携行しておりません。

記事の画像はすべて「iPhone」で撮影しております。



今回初めてお目にかかる「ネコ君たち」です。

兄妹(姉妹?)なのかな?

大人しい子たちでしたよ。



お店の前でいつも「店番」をしているワン君です。

今日はうちのオデ君のニオイが気になるらしくて、タイヤのあたりをしきりに「クンクン」していました。

可愛いですね。



お店の外観と同様に店内も殆ど「飾り気」はありません。

赤矢印のが、いつも購入する「お気に入り」の商品です。

“規格外”と書かれている、いわゆる“不揃い品”ですが、自宅で食するのに何の不足もありません。

左端紙パックのが、大きさの揃った「規格品」なのですが、価格の差にビックリです。

こちらの「規格品」は贈答品として知人に贈るときに「タレ」とセットで使わせて頂いております。



そして、こちらが「玉子かけご飯用タレ」であります。

私は、こちらの“たまごや印”のタレの方が好きですね。



いきなりですが…

こちらは成田近郊「かりんの湯」敷地に併設されている「The Farm Cafe」のサラダです。

敷地内で(多分…)栽培されている新鮮な野菜が美しく盛られています。(*メニューには千葉県産と書かれています。)

特に「大根のスティック」がみずみずしくて最高に美味しいです。

新鮮な野菜ってこんなに美味しいの…って気付かされます。

食には殆ど興味のないオジサンですから、このプレートが“バーニャ・カウダ”という洒落た名前のサラダ?であることも良く知りません。

Wikiに聞いてみると…「バーニャ」は「ソース」、「カウダ」は「熱い」を意味し、バーニャ・カウダは「冬の野菜料理」とのことだそうです。

アンチョビ、ニンニク、オリーブ・オイルを混ぜ合わせたディップソースを温め、それにフレッシュ野菜を付けて食べるようです。

因みに、こちらのThe Farm Cafe のディップは冷製でありましたが…メニューには「バーニャ・カウダ」と書かれていました。


まことの玉子を購入してこちらのCafeで昼食をとり、「かりんの湯」で温泉に入る…ルートがお気に入りです。

距離的にはかなり走ることになりますが、田舎の道は渋滞知らずで快適に走行できますから、全く負担にはなりません。

「The Farm Cafe」のホームはこちらから。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

B201号機 朝日駅 万字線 9月2日 2014年

2015-01-13 | Weblog
2012年に朝日駅に訪れたのは、こちらに静態保存・展示されている「B201号機」に導かれてのことでした。

「B20形蒸機」は、魚津市の木村小学校に展示されている「コッペル1号機」や沼田町の「クラウス15号機」、丸瀬布の「雨宮21号機」等と同様の軸配置が“B”の小型蒸機です。

しかし、それらの蒸機は姿こそ小ぶりではありますが、緻密な工作機械を思わせるような見事な外観だったのに対して、こちらのB201号機はちょっと寂しいサッパリとした外観が特徴の蒸機であります。

それは、B20形の生い立ちや生産された背景が、戦時中の物資が制限された省資源・簡易設計によるものだったからでしょう。

この正面のショットで、「連結器」がやけに大きくみえますが、それは逆で、車体がいかに小さいか…ということであります。



「B201」は、国鉄蒸気機関車の付け番作法と同様、B=2軸 ではありますが、「20」は整備重量が20トンということを表していてこの点は産業用蒸機の作法に則っているそうです。

しかし、50を境にタンク機とテンダー機とを分けている国鉄の作法とは合致していて、“B20”はタンク機であります。

朝日駅に静態保存・展示されている「B201号機」は、そのB20形の1号機ということになります。



「タンク部」や「蒸機ドーム」そして「キャブ」などが相当「カクカク」していますが、これは先の「戦時仕様」として、生産性を最優先とし美観などは一切無視された結果だと思います。

蒸機の美しさとは、“機能美”に徹している「潔さの美しさ」と表現されますが、この「B201号機」と比べると「86 や 96」「D形 や C形」などは十分に美しさにも拘った蒸機に見えてきます。



やけに大きく見える「ナンバープレート」も、戦時の物資不足で「木製!?」とか…

確かに戦争末期は物資の不足から飛行機や船舶なども一部“ベニヤ板”で製作されたそうですから、ナンバープレートなど木製でも不思議では無いでしょう。



キャブ内部ですが、これで一通りの運転装置は揃っているようです。

JTBパブリッシング刊の「栄光の日本の蒸気機関車」という書籍に「B20形」のインプレッションが掲載されています。

「あまりに小型で扱いに戸惑うほど」と、その小型振りを表現しています。

しかし、小型ゆえに軽量で「部品の磨耗は皆無に近い」と、保守性の良さを賞賛しています。



ちなみに「最高速度は50Km/h」だったそうですが、構内入替用“機械”であれば、最高速度などとは無縁であったことでしょう。




平板でまったく色気の無いリアスタイルであります。

これも「戦時仕様」が故の造形なのでしょう。



B20形は動乱の戦時下で15両が制作されたそうです。

しかし、今日残るのはB20形の1号機である、ここ万字線鉄道記念公園に保存される「B201号機」とあと1両、SLファンの聖地、京都の梅小路蒸気機関車館に動態保存される「B2010号機」の2両のみです。



起点から13Kmを示す1号距離標が展示されています。

朝日駅は起点の志文駅からは12.2Km地点と記録されています。



動輪と車止めも展示されています。

蒸気機関車動輪と説明されているそれは“96”のものでしょうか…

車止めは第二種車止めです。



位置を変えて見てみます。

向こうに見える「遊具」を背景とした絵は全く別世界のような印象になります。



2012年に梅小路蒸気機関車館に訪れた際に撮影した「B2010号機」です。

こちらは「B20形」の10号機になるわけです。

B2010号機は自走も可能な動態保存機で、実際に梅小路の構内で有火状態ではない他の蒸機の入れ替えなどの本来の任務に就いています。

梅小路蒸気機関車館のマスコット的存在で、遠足で訪れる幼稚園児の人気者でもあるそうです。

機関車トーマスみたいな親しみがあるのでしょうね。

きちんと整備が施されている「B2010号機」は小さいながらもなかなかの存在感を放っています。

主連棒やクロスヘッドの小さいこと…モーション・プレートなども“ただの棒”みたいに見えます。

ナンバープレートが不釣合いなほど大きく見えます。

朝日駅の「B201号機」もそれなりの整備を施せば、かなりの存在感を表わすのではないでしょうか。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝日駅 万字線 9月2日 2014年

2015-01-09 | Weblog
朝日駅にやってきました。

上志文駅のご婦人に「朝日駅さんは綺麗にしていて見応えがありますよ」と教えられていました。

実は、2012年にこちらに展示されている“B201”を観賞しに来ています。

2012年朝日駅の記事はこちらから。

せっかくの御教授に「行ったことがあります」とは言えませんでした。

その「朝日駅舎」は2年前に訪れた時と少しも変わらずにありました。




上志文駅にあったのと同じデザイン? 岩見沢市長“国兼 孝治(くにかね こうじ)氏揮毫による石碑がありました。



駅舎正面入り口に掲げられた駅名標は心持ち墨が薄くなったような気がします。



上志文駅に比べると規模の大きな駅と分かります。





石碑の裏面の文も上志文駅のそれと殆ど変りません。



“鉄道公園”という名称になるのですね。



駅ホーム側から駅舎を見ます。

パイプで出来た改札口が見えます。



さらにホーム上から駅舎を見ます。





2012年に訪れた時には、だいぶ「サビサビ」な駅名票でしたが、ペンキを塗り直したみたいですね…

鉄道遺産を保存するためには必要なことだとは思うのですが、それにしてももう少し何とかならなかったでしょうか。

史実に基づいた再現というか…オリジナルに忠実に再現するというか…

腐食に任せて自然に還すよりはマシなのかも知れません。

直接、作業に協力しないで口だけ出すのは宜しく無いでしょうからね。

ちょっとオリジナルに比べるとファンシーな雰囲気です。



こちらが2012年に訪れた時に撮影した駅K名標です。

凄い臨場感を醸しています。



鉄道公園の朝日駅にはこうした鉄道関連の設備が多く残されています。




崩壊寸前だった庇部は新たにトタンで補修されています。



線路を辿って歩いてみます。

右側にはホームも残されています。




このホームの状態はなかなか良好だと思います。




ここで線路は“スッパリ”と途切れています。

路盤は林の中へと続いているようです。



線路は途切れているのですが、ホームはまだ続いています。

ホームに登って歩いてみます。

ホーム上の草は綺麗に処理されていて、まるで芝生を敷き詰めているような雰囲気です。



ホームの終端部まで歩いてきました。

ほら、路盤は林の木立ちの中へと消えていきます。

さすがにこの路盤を辿って歩く気にはなれません。




ホームの終端部から振り返って駅舎方向を見ます。

この位、駅舎からは離れていますよ。




駅前の道路はその先で通行止めとなっています。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上志文駅 万字線 9月2日 2014年

2015-01-07 | Weblog
上志文駅跡に到着です。

志文駅からは一般道路を10分くらい走行したあたりです。

「岩見沢萩の山市民スキー場」のすぐ近くですね。

駅の側面には、写真のような石碑が建立されています。

そこに「駅」が存在したことの証として後世にその栄光の歴史を伝える手段としても、とても良いことだと思います。

万字線は廃止後およそ30年が過ぎようとしていますが全5駅のうち3駅が今日も再利用されています。

上志文駅は「萩の山市民スキー場の用具置き場」として利用されているそうで、中には耕運機みたいなものも見えていました。

そうした再利用によって上志文駅も今日までその姿を止めています。




道路まで引いて駅舎と石碑とを見てみます。

石碑の両側に植樹がされていて、無機質な石碑に彩を添えています。

駅舎の壁面と“妻”の部分から、なんとなく不自然な印象を受けませんか?

これは、どのような理由があったのかは分かりませんが、建物の1/3くらいがここから切り取られているためです。



更に引いて見てみます。

画面左側に広がる草原は「岩見沢萩の山市民スキー場」です。

リフトが小さく写っています。



石碑の裏側に回ってみます。

万字線の歴史と石碑を建立した意義が書かれています。

その石碑の縁にはトンボが羽を休めています。



すこし引いて見てみます。

工場やゴミ収集ボックスなど、ここにも地域の方々の生活のあることが分かります。

また…オデ君が写っています。



駅舎を一回り、鑑賞します。

旧駅舎入り口(*現物置)前は雑草も無く綺麗に整地されています。

画面左側…コンクリートの打ち放しの部分に基礎を斫った(はつった)痕跡が残っています。

この部分までが本来の駅舎があった証ですね。

なぜ、切り取ってしまったのか…理由は分かりません。

*岩見沢市教育委員会に訊ねてみたのですが、改築に至った経緯については分からない…ということでした。



入り口引き戸のガラスを通して、中の耕運機みたいなのが見えます。

これはもしかしたら、スキー場で使用する用具で、除雪機だったりですかね?

“たたき”(三和土)部分の損傷が目立ちます。



屋根や壁の状態はとても良さそうです。

コンクリートブロック造りの構造が幸いしたのでしょう。

木造の建築物では30年もの歳月をその状態を維持し続けるのには相応の費用が掛かるでしょう。

現役の駅舎なら当然、メンテナンスの費用も捻出されるでしょうが、廃止路線の駅舎にそれを掛けることは出来ないでしょうから、再利用されない見放された駅舎は自然に還るしかないわけです。




こちらは…たぶん別棟の“トイレ”でしょう。

内部を確かめたわけではありません。

あくまでも外見の印象からの推測ですけれど…

向こうにはスキー場のリフトの支柱が見えています。




用具やパネルなどが壁面に立て掛けられています。



切妻屋根の“合掌”部分の損傷が目立ちます。



画面左側に、作業をしているご婦人の姿が見えています。

この方に声掛けをして、お話を聞かせて頂きました。

現役営業当時は、スキー列車で多くのお客さんが訪れ、人の流れがずっとスキー場まで続いていたそうです。

廃線になってしまってからは「誰も見てくれる人が居なくなって駅が可哀想…」と仰っていたのが印象的でした。

「そんなことはありませんよ。廃線を紹介している書籍ではカラー写真で紹介されているメジャー・スポットですよ。」と、言おうかと思ったのですが、言葉を飲み込みました。

このご婦人にとっては、“最盛期の上志文駅”に比べたら“今の上志文駅跡”は…「誰も見てくれる人の居ない駅」には違いないだろうな…と思ったからです。

庭先で野菜を洗っていたこのご婦人、お話をして驚きました。

所作や声のトーン、話し方など、白金のマダムかと思うほどの上品なご婦人でした。

駅前が綺麗に整備してある…と、先に書きましたが、実はこのご婦人が草取りなどをして駅を見守っているのでした。

再三、北海道の駅の綺麗さを感じていましたが、こうしてそのご本人に会ってお話を伺えるのは初めての経験でした。

「こういう方々が北海道の駅を守っているのだなぁ~」と感動しました。






緑の草原に透き通るような青い空…いっそう鮮やかに映えるロッジの赤い屋根。

鉄道はなくなってしまいましたが、シーズンになると大勢のスキーヤーやボーダーが訪れるのでしょうか…

「夏限定北海道ファン」の私には“冬の上志文駅”の姿は想像だけの世界です。



こちらがホーム側になるようです。

長く伸びた庇、それを支える鋼材が“廃レール”であることが、一般建築物ではなく駅舎であったことを主張しています。






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

志文駅 万字線  9月2日 2014年

2015-01-05 | Weblog

新千歳空港 エアポートホテルを出発して道央道を岩見沢方面に走ります。

岩見沢ICで高速道路を下りて国道234号線を走り10分ほどすると「志文駅」に到着です。

「志文駅」の駅名標です。

やっぱ現役営業路線の駅名標は迫力が違いますね!

「仕事してるぞ!」って気迫を感じます。(…てか、あまりかまわれていないみたいです。)

フレームも「これぞ本物!」って雰囲気ですね…本物だから当たり前か。

フレームの隅に“トンボ”がとまっています。



志文駅を駅前ロータリーの方向から見てみます。

以前は駅業務を行っていた「駅」だったようですが、無人駅となった後に駅舎は撤去され、このプレハブみたいな「待合所」が設置されたようです。

なるほど、駅の規模の割にはこじんまりとした駅本屋だと感じた訳です。




駅前から道路を見ます。

やはり「駅前商店街」を想像させるような商店は見当たりません。



待合所の中に入ってみます。

本当に「待合所」という表現がぴったりのような小ささです。

おそらく、この狭さでも乗客で溢れてしまうようなことは無いのでしょうね。




待合所を通り抜けてホームへと出ます。

本屋正面とホーム側とでは対称でどちらとも区別がつき難いです。




ホームから“跨線橋”を見ます。

クラッシックな感じが良いですね。

そのホームは“相対式2面2線”ですが、万字線廃止前は2面4線の“島式ホーム”であったそうです。



“跨線橋”をわたって2番線ホームへと行ってみます。

ほらね、木造の“跨線橋”ですよ。

階段と通路部分はコンクリート製みたいに見えます。



“跨線橋”の通路部分です。

やはりコンクリートを流したような雰囲気ですね。

梁材と柱との接合部には「T字」型の補強プレートが見えています。

少し以前の「耐震補強ブーム」を思い出しました。

年数を経た木造構造だと、やはり部材の接合部の補強が必要になってくるのでしょう。



階段はコンクリート製、壁や天井は木造、窓の建具はアルミサッシ…と、ハイブリッド構造の“跨線橋”であります。

その“跨線橋”を下りて2番線ホームに出てみます。



2番線ホームから「岩見沢」方面を見てみます。

その先にはえらく長いスパンの“歩道橋”が見えています。

万字線の営業時にはその構内を横断するのにこれほどの長さの歩道橋が必要だったという名残ですね。



ホーム跡はすっかり夏草に覆われていますが、なんとなく路盤があったような名残が見て取れます。

ここが「旧4番線」の路盤跡でしょう。



2番線を表す②のプレートが木製の電柱に添付されています。

この②のプレートは万字線営業時に使われていたプレートを使い回しているのではないでしょうか。

ペイントの霞み具合やその風合いからも近代のものの雰囲気とは異なる印象を受けました。




駅前の緑地公園みたいな場所へ行き、“歩道橋”へ行ってみます。

公園の煉瓦タイルが敷き詰められたペーブメントに不思議なものを発見!



近寄って見てみます。

色々なメッセージが掘り込まれたタイルが見て取れます。

近くにタイルを焼成するような施設があるのでしょうか…



これから歩いてみようという“歩道橋”を見ます。

広角レンズで撮影しているので、実際よりも誇張された画だとは思いますが…それにしても長いスパンの歩道橋です。





早速、“歩道橋”から駅構内を俯瞰してみます。

左側に見える“駅待合所”の辺りが「1番線」となっていました。

今ある“待合所”は、1番線の路盤跡に“乗り上げる”ように設置されたことになります。

そして、今の2番線ホーム(旧3番線)の右側に確認される路盤が旧4番線となるわけです。



岩見沢方面を見ます。

左側の路盤跡が旧4番線、右端が旧1番線の路盤跡となります。

現在の1番線は旧2番線、2番線が旧3番線となるわけですね。



更に左によって俯瞰してみます。

真下にしっかりとした路盤跡が確認できます。



今度は右側に寄って旧1番線路盤跡を見てみます。

ここから見ると、ホームの縁石を視認することが出来ます。



こうして見ますと、確かに路盤の真上に待合所が設置されていることが良く分かります。

大正3年 1914年 に 万字線はこの志文駅から万字炭山駅まで開通・開業しました。

沿線の炭鉱から産出される炭山資源を搬出する為の軽便鉄道としてのスタートでしたが、美流渡炭鉱や朝日炭鉱等の多くの炭鉱が操業を開始すると地域のライフラインとして発展し、貨物輸送や旅客営業も始まり、この志文駅も賑わったそうです。

今の駅前の風景からは想像も出来ませんが、構内の大きさを見ると確かに大きな駅だったのでしょう。

その頃の「駅舎」の姿を見てみたかったのですが、件の北海道新聞社刊「北海道の鉄道廃線跡」にも志文駅のありし日の姿は掲載されていませんでした。

見てみたかったですが残念です。

万字線は、スキー列車等の特例を除きその「起点」を、隣の「岩見沢駅」としていたそうです。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新千歳空港の朝 9月2日 2014年

2015-01-04 | Weblog
ホテルの窓から滑走路を見ています。(*例によって早朝5時くらいですよ。)

窓の下にはテールフィンが見えていて、ここが市中のホテルではないことが分かります。

この特徴的なテールフィンはJALの「MD-90」のでしょうね。

遠くに見える丘には“雲海”のようなものが見えています。

“雲海”と呼ぶには少々大袈裟でしょうか…



エアーターミナルホテルの朝食です。(営業はAM6:00からと、出発の早いオジサンにはとても助かります。)

バイキング形式又はブッフェスタイルとも言いますね。

私が必要とする一日分のエネルギー です。

☆牛乳とトマトジュース、☆納豆、☆ヨーグルトとフルーツ、☆ご飯とみそ汁…それに少々の野菜、スクランブルド・エッグ、です。

☆は必須項目ですよ。

旅行中、毎日必ず摂取するものです。

これだけの朝食で夕方次の宿泊地に到着するまで補給は必要ないんです。

プリウス以上の抜群の燃費性能だと思いませんか?

朝食を済ませたら、志文駅へ向けて出発です。

今日も素敵な出会いの期待にワクワクします。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする